『神功皇后論』発売記念 小林よしのりインタビュー
第2回「『日本書紀』にも捏造がある!」
(インタビュアー・にしやん)
小林「一般的に「女性というのはおしとやかなものだ」というのは、実はもの凄い刷り込みで、この刷り込みはもう延々と、今も続いている。
「皇統は男系じゃないとだめだ」とか言っている男達、あるいは女達は、まだ皆んなその感覚なんだよ。
男女平等とか学校で習っていたって、全然そうとは思っていない。
男と女というのは身体の構造上、絶対に平等にはならないからね。だからなおの事、それを思い知らされるわけだよね。
だけど、古代を調べていくと、前方後円墳の半分近くは女性の首長なんだよ。
これはわし個人の持論とかではなく、考古学的に実証されているの。
首長が女性の場合、祭祀の時は刀はこちら側に置くとか、装飾品を置くとか、そういう考古学的見地から、これは女の首長だったと全部分かってしまう。」
ー前方後円墳の半分近くは女性の首長だったというのも、とても意外な事実でした。古代の方が、現代よりも女性が活躍していた、ということですよね。
小林「古代日本のそれとは真反対なのが、例えば韓国とか中国とか、シナの儒教が浸透しているところ。儒教では、女は男の墓には入れない。完全な男尊女卑で、男が主なんだよね。
呉善花(オ・ソンファ)の『スカートの風』っていう本、あれは凄く面白いよ。韓国から留学生として来日した著者が、ルポエッセイで日韓の文化の違いを書いている。
たとえば、儒教の国では、大家族の中の序列が全部決まっていて、葬式とかがあると、新しく嫁に入った人は一番末端の席に座らせられるし、一日中、全員の料理を作ってなきゃいけないとか、ほとんど下女扱いなんだよ。そういうしきたりになってしまっている。
そういう男尊女卑のシナ男系主義が、徐々に日本に入ってくるわけでしょ。
『日本書紀』っていうのは、当時、世界の中心だったシナ向けにまとめられた書籍だから。
男が主、皇帝も当然男であるシナに対して、女が首長だったり、女が天皇だったりしたら、野蛮人と思われてしまう。
だから『日本書紀』自体が脚色してしまっている。全部「男」だったことに、捏造しちゃっているんだ。」
ー神功皇后も、実は天皇だった、というのは驚きました。
小林「神功皇后だけじゃないんだよ。
今の日本人が全然知らない人で、飯豊青皇女(いいとよのあおのひめみこ)って人がいる。この人も実は天皇だったんだよね。〈※1〉
神功皇后も元は「天皇」だったのに、『日本書紀』では「皇后」に変えられてしまっている。
皇學館大学の田中卓(たなかたかし)先生の家を訪ねた時に、先生が「『日本書紀』の中に「神功皇后」を「天皇」と書いてある箇所がある」って教えてくれたんだよ。
それで「ええーっ」と思って、わしは家に帰ってから岩波新書文庫の『日本書紀』を引っ張り出して必死に探した。そしたらあったの!確かに一箇所だけ消し忘れているところがあったんだよ!
元々は「天皇」と書かれていたのを、全部シナ向けに「皇后」にしたのに、『日本書紀』を作った当時に、一か所だけ「天皇」を消し忘れていたんだね。
当時七世紀ぐらいだよ。当時の人が歴史的ミスをしてしまっている(笑)それを今、令和の時代で見つけられてしまっているという、驚くべきことだよ!(笑)
しかも、一か所だけ「天皇」になっているものだから、岩波文庫としてはそこに解説を付けないとおかしいということで、脚注で解説が書いてある。それがまた、変な注釈なんだよ、なにそれ?っていう(笑)〈※2〉
ーなぜ「天皇」になっているのか、本当の意味がわかっていないから、そうなってしまうのでしょうか。
小林「『日本書紀』の段階で、もう既にシナを意識しているんだよ。男性優位じゃないといけない、男系絶対じゃないといけないって、もうその時から意識してしまっている。
だから、今も男系固執している者たちは、実はシナ儒教の影響だよ、という話なんだよね。」
〈※1〉古事記・日本書紀には、5世紀末、第22代・清寧天皇の没後、第17代・履中天皇の娘・飯豊青皇女(いいとよのあおのひめみこ)が一時政治を執ったことが記されている。記紀共に正式に即位したとは書いていないが、後世の史書『扶桑略記』などでは「飯豊天皇廿四代女帝」と記されるなど、天皇の扱いになっている。
〈※2〉岩波文庫『日本書紀(二)』P157の注釈には、「この時は天皇がいないから天皇と書くのは不自然。しかしここは異伝の一節として別の時期のことかもしれず、その時に天皇がいたと伝えられていたのかも知れない。ただ誰をさすのか不詳」と書かれている。
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第1回「古代史から現れたフェミニズム」
岩波文庫の校注を手掛けた一流のはずの学者も、ここに1か所だけ出てくる「天皇」が、実は神功皇后のことだとは夢にも思わなかったのです。
これだから、古代史というのは奥が深い。
当時の古代人の感覚をどれだけ理解し、近づけるかが決定的に重要なのであって、その点では学者よりも優れた作家の方がずっと本質に迫れるのではないでしょうか?
明日もどうぞお楽しみに!