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最近のVTuber関連のこと、まるごと評論する。

はじめに

 タイトルに『最近の』と書いたが、これだけの長文を書くのに時間がかかったあげく、書き終えてからも2週間ほど寝かせてしまっていたので、少し古い内容となっている。それを踏まえて、1ヵ月前ぐらいの出来事についてのコラムだと思って読んで頂けたらと思う。


 最近、何かとVTuberが話題になる。功績が話題になるというよりも、槍玉に挙げられることが多い。また、功績を上げたとしても、マイナスな評価がついて回る。
 所謂”アンチ”というものは、誰にとっても相手にする価値もない品性のない連中である。無視するのが最善であると理解していても煩わしい。家に入り込んだ虫に似ている。
 自分が自由に使える大事な時間を使って、そんなしょうもない連中について考えるのも癪だったのだが、とても聡明でVTuber学というVTuberの研究をしている山野弘樹さんですらアンチについて考えているし、

多くの哲学書を上梓している教授も、ネットのチンピラを徹底的に論破して晒しものにしている。”学術的な指摘”風のレスバを仕掛けてきた相手を教養によって返り討ちにする様は爽快である。
 そんなわけで、私も最近Vtuber界隈で起きた出来事を一気にまるごと評論してみるのも悪くないと思った。アンチがどれだけ嘆かわしい存在であるかを理解すれば、理不尽に推しが攻撃されて鬱憤が溜まっているVファンも気が楽になるかもしれない。アンチに関係なく、賛否が分かれそうな議題についても、個人的な見解を述べておこうと思う。

 最近のVTuberで話題になったことは、次の通り(時系列は適当)。

  • 博衣こよりのWBC「プレイボール」を巡る賛否

  • ホロライブの『ゆるダラ桃鉄』に対する賛否

  • VTuberのコラボレーションによる功績について

  • 夏色まつりの異性コラボ禁止について

  • 星街すいせいの事務所設立について

  • えま・おうがすとのイラスト”おねだり”に対する賛否

  • ピーナッツくんとナポ・レボリューションの『超かぐや姫』を巡る対立

  • 花宮莉歌の男性Verイラストが、葛葉に瓜二つで炎上した件について

  • 生活保護を受けながらVTuberをすることの是非について

  • 特定の箱信者とブランド忠誠心

 キリよく、この10点について評論したいと思う。

①博衣こよりのWBC「プレイボール」を巡る賛否

 ホロライブ所属の博衣こよりが受けた案件が場違いであると炎上した件。
 お笑い芸人の粗品が日本が負けた理由を彼女に転嫁。これに賛否両論の議論が沸き起こった。

 私の意見

 こんなことをわざわざ言及するまでもないが、日本が負けた理由は博衣こよりに無い。もし、彼女のせいで勝敗の結果が変わったと本気で主張する人がいるならば、是非ともその理由を教えて欲しい。その主張を認めたところで、日本の代表選手のメンタルが少女一人に左右されるほどのクソザコであることにしかならないだろうが。

 野球の勝敗を、試合とは全く無関係の博衣こよりに転嫁して笑いものにするという芸風は、いじめ以外の何物でもない。しかも彼女は無断で試合を搔き乱したのでもなく、WBCから頼まれてプレイコールをしている。これをお笑いとしている芸人の粗品、そしてその支持者はきわめて品性がないと言わざるをえない。
 「彼女が場違いである」という主張について、たとえそれが客観的に見て事実だったとしてもVTuberを非難するのはお門違いである。WBCが案件を出している以上、少なくともWBC側は場違いとは思っていない。異議を唱えたいならば、WBC側にすべきで、仕事の依頼を受けた個人に当たるのはあまりにも幼稚である。

 アンチがVTuberを攻撃する口実として、「好きなコンテンツが土足で踏み荒らされたから」というのがある。もし、その人の主観ではなく客観的事実として「案件を受けてコラボすること」が即ち「土足で踏み荒らすこと」になると仮定しよう。その場合、こういうことになる。
 あるコンテンツXの運営は、VTuberに対し依頼料を払い、頭を下げて「お願いですから、弊社のコンテンツを土足で踏み荒らしていただけないでしょうか?」と依頼した。

 自分がどれだけ偏見に満ちているか、また、批判先を間違えているか理解もできないのだろう。

②ホロライブの『ゆるダラ桃鉄』に対する賛否


 この件は上記の件と繋がっている。

 粗品によるイジメとしか言いようのない嘲笑を受けてか、博衣こよりは上記のようにポスト。
 そんな中、ホロライブで3Dでだらだらしながら、『桃鉄』を遊ぶというコラボ配信があった。博衣こよりも参加している。

 この配信の一部分で、メンバーがはしたなく大股を開けて、だらけているシーンが切り取られた。この部分を見て「下品だ!」「命をかけてこれか」という批判が続いた。

 私の意見

 まず、下品か否かというのであれば、満場一致で「はい。下品ですね」で問題ないと思う。というのも『〇〇は〇〇である。よって、この配信は下品とは言えないのである。Q.E.D』と証明したところで、個人の抱いた感想は覆りようもなく、変えさせたところで大した意味はない。その部分は無理して取り繕っても仕方がない。
 問題は、この配信の一部分を抜き取って、博衣こよりのポストを論駁したつもりのアンチである。「命をかけてるようには見えない。よって、彼女は嘘つきだ」という具合である。
 博衣こよりの主張は、『命をかけてると言えるぐらい、歌やダンスに精を出しているVTuberがいる。私もその中の一人であり、その情熱の証明としてライブを見て欲しい』と訴えているのであり、「いついかなるときもストイックに訓練をしている」と言っているわけではない。常にストイックに成果を出そうとしている人は美しい。しかし、素に近い状態を見せることもまた需要があり、違った魅力がある。
 今回のコラボは肩肘張らずに、だらけきった姿を見せながらゲームをするというコンセプトだった。リスナーが気軽に見られる緩い配信をすることも、彼女たちアイドルの使命である。そんな配信の一部分だけを切り取って鬼の首を取ったかのように騒ぎ立てる。なんと惨めなことだろうか。

 仮に私がアンチだったとしても「この配信は下品である」とコメントするに留めただろう。しかし、アンチは無理やり揚げ足を取ろうとして失敗している。(同じ知力の仲間が賛同してくれるので、失敗していることには気づいていないだろうが)私は、ここにアンチが抱える精神的な病を見い出す。

 アンチの特徴

 ③のテーマに移る前に、①と②の出来事を元に、アンチの行動原理を探ってみたいと思う。どうして、彼らはあのような行動をするのだろうか? 「嫌いだから」では説明が付かない。私にも嫌いものがたくさんあるし、軽蔑してるコンテンツだって山ほどあるが、アンチのように活発に嫌がらせをしたことはない。著しく人間として必要な何かが未成熟であり、欠けているのは想像がつくが、私と彼らは、何が違うのだろうか?

 アンチの特徴は、私が見る限り次の通りである。
・功績や努力を認めない
・稀な一部を全体と捉えて発言する
・あくまでも自分は被害者側、あるいは正義側だと主張する
・一人では何もしないが、周りが誰かを攻撃しているのを見ると、自分も一緒になって石を投げる。


 博衣こよりの発言に対し、
 「確かにお前は血反吐が出るほどレッスンをしているのかもしれん。だが、お前は気に食わん」
 というアンチは一人も見たことがなかった。一人ぐらいはそういう論調の人を見かけてもよいのに。アンチは彼女の努力自体を否定したり疑っている。そこには『VTuberは、努力をしておらず、楽して儲けているのだ』という必死なまでの思い込みがあるのだろう。

 VTuberを『虚業』という者もいた。言うまでもなく企業はグッズ販売で利益を出している。その点はキティちゃんで有名なサンリオと何も変わらない。そもそもVTuberとは配信形態であり、職業と関係なく趣味でやっている無給の個人勢など山ほどいる。ちょっとネットで調べれば間違いだとわかることでも堂々とポストする。
 VTuberを『バーチャルキャバクラ』と称し、そのレッテル張りで企業コラボを否定している人もいた。世間がキャバクラと認識していないから、ホロライブは東京都のアンバサダーに選ばれたのだ。星街すいせいはキャバ嬢としてではなく、アーティストとして世間から認められたから『FIRST TAKE』に出演できたのであるし、クリエイティブ活動において、何ら恥じる点がなかったから、日本モード学園(あらゆるクリエイターを輩出しているクリエイター専門学校)から声がかかり、コラボすることができたのである。アンチが言うようなキャバクラは、そいつの頭の中にしか存在していないのである。

 世間的には十分に認められており、経済効果は凄まじく、キャバクラと似ても似つかないインフルエンサーであり、ファンも若者が多い。にじさんじにいたっては『コロコロ』や『ちゃお』に連載されるほどであり、女性人気は男性人気を上回るほど。そうであっても、アンチは「VTuberは低俗な弱者男性向けコンテンツである」という認識を崩さない。そこには陰謀論者に似たものを感じる。

 地球平面論者(フラットアース)という人たちがいる。地球が球体ではなく平面であると今でも信じている人たちである。彼らはどんな証拠を見せても、地球が球体であることを認めようとしない。
 
 ある地球平面論者は、地球が平面であることを証明しようと、2万ドルもする精度の高いジャイロスコープを購入した。しかし観測した結果、逆に地球が動いているという結果が得られた。そしてこう言った。
 「これは絶対に認められない。この装置が地球の動きを本当に記録しているわけじゃないと、なんとか証明しなくちゃいけない」
 
 アンチは彼らと似通っている。どのような証拠を提示され、コミュニティノートやリプライで論破されようと、結論を変えない。都合の悪い事実は見ないようにして、都合のいい事実だけを求める。
 VTuber界隈には異性コラボに癇癪を起こす厄介なリスナーがいる。おそらく全体の0.1%にも満たないだろうが、そういう人を見つけや否や、業界全体が弱者男性向けコンテンツという確信を強める。コラボによる各業界の活性化、多くの人に幸せを与えている事実、その活動の健全性などは一切考慮にいれず、たった一人の失言を論い、界隈にいる6万人のVTuberを悪人と決めつける。
 まったくもって、その単純思考には驚かされる。それと同時に疑問が浮かぶ。何故、彼らは事実を捻じ曲げてまで、VTuberおよびそのファンを低俗な存在に仕立てあげようとするのだろうか? 
 そうであることが彼らにとって都合がいい理由とはなんであろうか? 

 ペック・オーダー

 動物行動学に、ペック・オーダーという言葉がある。ペックとは、クチバシなどで”つつく”という意味であり、つまり”つつきの順位”のことだ。
 鶏を10羽、一ヵ所に集めたとする。鶏たちは落ち着かない。しかし、10羽の上下関係がハッキリすると平穏が訪れる。1番強い鶏は、2番目に強い鶏を突いて攻撃する。2番目の鶏はやり返さない。代わりに3番目に強い、つまり自分より下位であるとわからせた鶏を突いて攻撃する。そして、一番最後に最弱の鶏が突かれるだけで終わる。そのように、上下関係がしっかりとわかる社会は、とても安定するのだ。
 人間社会においても、これと似たようなことが起こる。学校におけるイジメの構造がその代表だ。教室に集められた生徒たちはストレスがたまる。次第に自分のポジションを理解することで調和が取れる。そして絶対にやり返してこない最弱のイジメの対象がいること(それが自分でないこと)に安堵する。
 歴史の授業で、江戸時代にはエタや非人という、農民よりも身分の低い存在が作られたことを習ったと思う。自分より下位の存在がいるとガス抜きになって不満が減るのだ。その下位の人間にウサ晴らしをして、精神的に安定する。人間はそういう生き物だ。

 とある人がいる。男でも女でもいい。その人は自己評価がとても低く、実際のところ能力もない。たいした成功体験もなく、誰かにモテた経験もない平凡な人間だった。そして、それを受け入れたくないと思うほどには、プライドを持っていた。
 こういう人物にとって(自分とは違うカテゴリーの)VTuberやそのファンの存在は、とてもありがたかっただろう。現代は江戸時代のような身分制度はない。しかし、自分の心の中で上下関係を作り出すことはできる。ただの思い込みだが、少なくとも、自分だけには有効だ。

 自分はあんな連中よりはマシだ。いい歳して、あんな絵に騙されて恋をしてる気持ち悪い奴らとは違う。平然と犯罪行為を行いながら、弱者男性から金を巻き上げてるキャバ嬢もどきよりも、平凡な仕事でも真面目に苦労して働いている自分のほうが正しくて立派じゃないか。

 そのようにして、現実には存在しない”なんの取柄のない僕でも蔑むことのできる、理想のV豚とバチャ豚”を夢想しながら、罵詈雑言を吐き、優位を味わい精神の安定を図るのである。

 もちろん、これは私の推測に過ぎない。間違っている可能性も高いと思う。とあるVTuberが中傷され、開示したところ、全員が生活保護だったという話もあるぐらいで、労働すらしてないのかもしれない。
 
 博衣こよりが努力をしているとポストしたとき、必死になってそれを否定しようとする連中が多かった理由も納得がいく。彼女の努力を認めるわけにはいかないのだ。彼女たちVtuberが頑張っていることを認めてしまえば、頑張っていない自分の格が下がってしまう。VTuberは不道徳であり、怠惰であり、不当に弱者を騙して金を巻き上げる存在でなくてはならないのだ。そうでないと自分が蔑むことができなくなってしまうからだ。

 アンチが執拗なまでにVTuberの過去の過ちを繰り返し蒸し返す理由も納得できる。それはアンチが不道徳を許せない清廉潔白な人物だからではない。劣等感にまみれた能力がない人間が、能力のある人間を攻撃するときには決まって道徳を用いる。『道徳』は弱者が強者に対し復讐する道具として働く。(このあたりは、ニーチェの道徳哲学が参考になる)
 道徳的衣を纏いながら批判することは、己の醜さを隠すという狡猾さがある。単に「人生の成功者が許せない」「女にモテるイケメンが許せない」という理由でVTuberに加害欲求を持っているアンチは、その自分の醜い気持ちから目を逸らす。そして無理やりにでも理由を見つけ、「私はVTuberの不道徳が許せないんです!」という面をしながら平然と石を投げる。
 人を傷つけたいが、自分は加害者(悪人側)にはなりたくないという図々しさを併せ持ち、自己欺瞞によって己の醜さを省みることがない。それがアンチという情けない生き物である。

 自分と違うカテゴリーに属する人間を「不当である」と決めつけて排斥する動きは、ドイツ人の生活苦の原因をユダヤ人の高利貸しに転嫁し虐殺を行ったナチス・ドイツと見事に重なる。VTuberをキャバ嬢と見做し、正当なビジネスを荒稼ぎと非難する動きは、『黒人はキリスト教を信じず、愚鈍で怠惰で淫乱である』と決めつけて、奴隷にすることを正当化した西洋人と重なる。

③VTuberのコラボレーションによる功績について

『VTuberは、コラボで様々な企業に貢献している』
『VTuberのおかげで流行ったものがある』
 このような言説は、本当のところどうなのだろうか?
 
 私の考え 

 博衣こよりのWBCと内容が被ったために取り上げなかったが、現在は鷹嶺ルイが話題になっている。ただ『ドラゴンボール』が面白いと呟いただけで「擦り寄ってくるな!」等と酷い有様である。「コードギアスはもう捨てたのか」というポストまであったが、別の漫画が楽しいとポストしただけで、何故そうなるのだろうか? 「ラーメンが美味しい」と言っただけで「もうカレーは好きじゃないんですね」と横やりを入れてくるようなものである。もう馬鹿を通り越して、何と言えばよいかわからない。

 ただ、既に独自の世界観を確立しているゲームとVtuberのコラボに、VTuberはどこまで介入が可能なのかは、テーマとしては興味深く、議論してみるのも一興だと思う。あくまでもマーケティングの話であり、VTuber自身の倫理観がどうのという話ではないが。

 コラボ案件において、VTuberが果たすべきこと。その限界について私見を書こうと思う。 

 VTuberには商品の質を上げることはできない。VTuberが宣伝したところで、食べ物の味は変わらないし、ゲームのシステムは変化しない。これは、バーチャルに限った話ではない。お笑い芸人にCMさせても、ベテラン俳優にCMさせても商品そのものに変化はないのと同じで、広告塔は、あくまでも広告塔なのである。
 思うに、成功しているコラボは、どれもVTuberの話題性を利用しつつも、基本的には商品そのものの良さを前面に押し出している。反感を買っているものは、VTuberの人気に肖りすぎていて、本来の持っている味を活かさない、それどころか味を損ねているものが多い印象だ。

 購買層を広げる力

 私自身の経験で言えば、VTuberの配信は、全く知らない世界を知るきっかけになっている。例えば、私は人生で一度も鮟鱇を食べたことがなかったが、『にじバラ』という、にじさんじの公式番組を見たことを理由に、スーパーで鮟鱇を購入したことがある。自分の口に合うかわからなかったが、番組が背中を押してくれたから挑戦してみようと思ったのだ。
 にじさんじに触れていなかったら、野球の世界大会が「WBC」という名前であることも知らないままだったと思う。『にじさんじ甲子園』で、野球には様々な戦略があることを知った。
 20年ほど任天堂のゲームしか買っていなかったが、その流れを断ち切った『もじぴったん』の購入理由は、にじさんじライバーのゲーム配信である。『スイカゲーム』も同様だ。
 VTuberによる案件や通常の配信が世界を広げてくれるのは間違いない。だから、コラボ案件は購買層を広げる良い手段となる。私の経験的にも、客観的にも、これは間違っていないと思う。

 ブラウザゲーム『雀魂』は、VTuberと関わりが深い。毎年開かれる『にじさんじ麻雀杯』や、プロの雀士と協力のもと開かれた天開司主催の『神域リーグ』は『雀魂』が協賛している。『雀魂』はVtuberの配信と相性が良い。事実、このコラボは売上的にも成功を収めた。純粋に麻雀はゲームとして面白いものだ。VTuberの人気に頼るのではなく、ゲームの本来の面白さを幅広い層に広めるためにVTuberと協力する。そこを間違えなかったのが成功の理由だろう。

 こちらは、参考資料を探していたときに偶然見つけた記事であり、『雀魂』や『ポーカーチェイス』の宣伝を担当した横田さんの興味深いインタビューが載っている。成功した話、一気にプレイ人口が減った話、VTuber起用の在り方を考える上で勉強になった。

 スペイン村という大成功例

 アンチでもケチの付けようがないであろうコラボの大成功例が、周央サンゴと志摩スペイン村のコラボである。これすら非難しようものなら、”ただの逆張り”という誹りを免れない。それほどまでに、皆がwinwinで終わったコラボだった。しかし、スペイン村は理想的な条件が幾重にも重なった稀有な例だったと言える。
 まず、発端が通常の案件と違っている。というのも、発端は案件ではなかったからだ。周央サンゴが案件とは関係なしに、母親と一緒にスペイン村に遊びにいったのがきっかけだ。そこで彼女はクオリティの高さに感銘を受けた。サービス精神旺盛のパフォーマンスや、今までで一番おいしかったというチュロス、リーズナブルな値段。これらの魅力を面白おかしく配信内で語り、それが有能な切り抜き師によって切り抜かれ拡散された。つまり、スペイン村は、にじさんじのグッズなどに頼らなくても、行ってみたいと思えるほどに魅力があるコンテンツであった。
 スペイン村も特異な存在であると言える。閑散としたテーマ―パークであるが、それはクオリティが低いからではなく、単に立地条件が悪すぎるという一点においてそうなっている。逆にいえば、その条件さえ越してしまえば、とても魅力的なコンテンツなのである。それでいて、なぜか潰れない。これは近鉄という大企業の資金力によるものであろうが不思議なほどである。
 仮にスペイン村が客が来ないことに不貞腐れてサービスに手を抜いていたら? 不良債権として大幅な経費の削減がなされていたら? そうなっていたら、今のようになっていなかっただろう。
 『VTuberがスペイン村を救った』とよく聞くが、スペイン村を救ったのは、倦まず弛まずクオリティを維持し続けたスタッフの不断の努力だったように思う。それが、一人のVTuber周央サンゴを惹きつけた。VTuberが成した功績は、たった一つの難点、つまり立地条件の悪さ(交通の不便さ)を乗り越えさせるだけの意欲を大勢の人々に与えたことだ。コラボグッズは動機の一つでしかない。スペイン村は、それ自体として楽しい場所である。そういう確信を植え付けるのに成功したから、類を見ない大成功を収めたのだと私は考えている。
 もし、「うちは大したサービスを提供しないし、ぶっちゃけコンテンツも面白いとは言えない。でも、人気Vtuberのコラボグッズを売れば儲かるだろ」と安直に考えていたら大間違いである。昨今は、何かとVTuberとコラボするソシャゲが多いが、あくまでもメインコンテンツがつまらなければ、利益も見込めないだろう。特に、VTuberの存在がかえってノイズになるような場合がある。既存のアニメを原作にした世界観が定まったゲームなどは新規ファンの獲得だけでなく、既存ファンが違和感を持たないよう、Vtuberにどこまでの介入を許すか、その塩梅を考えなければならない。

 成功例を見るに『VTuberのおかげで流行ったものがある』という言説は、完全に誤りでないにしろ、語弊を招く言い回しだろう。これだとVtuberがいなかったら、つまらないコンテンツのままだったという捉え方もできてしまう。そして「VTuberがバズらせてあげた」というような界隈の驕りを感じる。
 『商品が持っている本来の良さを、幅広い層にアプローチすることに貢献している』程度ならば、多くの人に賛同してもらえるはずだ。

④夏色まつりの異性コラボ禁止について

 夏色まつりが社築とのコラボを最後に、自主的に男性とのコラボを禁止すると宣言。彼女には、ソロライブを行うという夢があり、そのためには『数字』が必要だという。これは、その数字を増やすための手段の一つであるようだ。

 私の考え

 個人的に、これには否定的である。彼女が覚悟を決めたのに、いつまでも不平を言うのは女々しいとは思うが、あえて言わせてもらいたい。
 異性とのコラボを執拗に嫌う男リスナー(ユニコーン)がいる。それは仕方ないところがある。だが、男性スタッフの声が配信に載っただけで癇癪を起こしたり、異性とのコラボをするとマシュマロやコメントで不満を言うレベルになると荒らしと変わらない。このような連中が悪目立ちすると、ますますVTuberとファンが誤解される。『バーチャルキャバクラ』という、実態と乖離したレッテル張りはユニコーンの悪目立ちも一因だと思う。
 
 生物は進化の過程において、異性を惹きつける能力を身につけてきた。逆に、生存に有利であっても、異性に嫌われるような能力は淘汰されていった。ダーウィンは、これを『性淘汰』と命名した。
 「どのようにして自分は異性を惹きつけるか」生物には、それを考え努力するよう遺伝子に組み込まれている。もし、私が異性を繋ぎとめる特性を持っておらず、独身を貫いて生涯を終えたとしたら、それは『淘汰』されたということだ。
 生物には配偶競争を勝ち抜くために、他の同性より優位でありたいという欲求がある。自分が男性で、好きな人が女性だったとしよう。好きな女性がいる(女性VTuber)。その女性と近しい位置に男性がいる。妙に親密だ。しかも、その男性は自分よりもスペックが高く(こう書くと語弊を招くが)自分よりも好きな女性と性交にありつける可能性が高い。このとき同性に対し、本能的に拒否反応を示す。
 私は「ユニコーンは、頭がおかしいから病院に行け!」と主張するわけではない。ユニコーンがいることは、不思議でもなんでもない。進化心理学で説明が可能であり、いたって自然だ。人間のみならずチンパンジーどころか魚の社会でも同じことが起こる。
 しかし、それはユニコーンの正当化を意味しない。私たちは、動物である以上に社会的な人間であり、エンターテイメントを純粋に楽しむことのできる感性を持ち合わせている。VTuberは、楽しいエンターテイメントを提供してくれる。VTuber自身も夢の実現のために、自分の可能性を探っている。心地よい環境を作ろうと試行錯誤を繰り返している。
 そのような状況で、ユニコーンは本能的欲求をダダ漏れにして(あるいは取り繕って)異性コラボを糾弾している。それは、とても独りよがりでみっともない行為ではないだろうか?

 もし、夏色まつりの異性コラボ禁止に対し、喜んでいるファンがいるとしたら、彼らはこう言っていることになる。

 俺たちの動物的欲求に配慮して、自分の可能性の幅を狭めてくれてありがとう!

 私は、そんな人をファンと認めたくない。

 VTuberは新しい文化の担い手である。ホロライブは、そのトップに君臨している。男性の動物的な欲求に配慮して、己の為せるパフォーマンスの幅、己の成長に繋がる道を自ら潰してしまうということ。これは、新たな文化を担う女性として、いかがなものかと思う。

 しかし、それと同時に彼女のストイックさは評価できる。やりたいことがある。そのためには数字が必要だ。だから数字になるものは、それがチンパンジーに似通っていても取り入れてやるという野心を感じる。それはとても気骨があり尊敬に値する。さらに言えば、包み隠さず、正直に話したことも素晴らしい。社築が「誠実だ」と感想を漏らしたが、その通りであると思う。

 ガチ恋という感情との付き合い方

 VTuber界隈にとって、ガチ恋は厄介な課題である。誰しも、自分の意志で計画的に恋をするのではない。
 VTuber、殊にホロライブは、何かと『疑似恋愛させるような売り方をしておいて……』と、言われることがある。過去に、不祥事で契約解除になった潤羽るしあが、男性の歌い手と付き合っていたことに対して、エンゲージリングを販売していたことで揶揄されていた。
 おめがシスターズのおめがレイが妊娠、出産を発表した際にも、何も知らない外野が「豚さん涙目」と煽っていたのを見たことがある。おめがシスターズの芸風を知っていれば、噴飯ものである。
 にじさんじの早瀬走が、うっかりと彼氏ができたことを漏らし、白状したが、祝福の声ばかりでガチ恋がいないことに本人が落ち込んだ笑い話は記憶に新しい。
 女性ライバーだからといって、男性のみをターゲットに配信しているわけではないし、男性ライバーだからといって、女性ファンの恋心を掴もうとしているわけではない。しかし、現状『VTuberは、弱者男性(女性)を相手にガチ恋営業させる職業である』という偏見は根強い。
 この偏見を無くし、配信の目的や芸風は千差万別であると広めることができれば、VTuberに対する風当たりも少しはマシになると思う。
 ユニコーンに迎合するような夏色まつりの宣言は、上記のような偏見を強める結果になったのではないかと私は危惧している。そういう意味でも、私は彼女の宣言に否定的である。

 私とガチ恋感情
 
 私の場合、魅力的なVTuberを見つけても、恋愛感情よりも”素敵な異性VTuberと付き合って欲しい”という欲求のほうが前にくる。そもそも男性Vと女性Vが恋人同士でイチャイチャしている二次創作を好んで読んでいるような人種なので、異性コラボで仲睦まじくしているのを見ると、むしろ興奮するし妬まずに済んで助かっている。
 
 頑張っている人は箱を問わず応援しているのだが、私がホロライブよりもにじさんじばかり見ている理由は、うっすらと男性演者に対して壁を作り、ファンの疑似恋愛を想定しているアイドルと馴染まないからだろう。
 一応、私は、古参のそらとも(ときのそらファン)であるが、恋愛感情は一切湧かないのでガチ恋ではない。属性がアイドルであっても、どのように愛するかはリスナー次第である。

 実を言うと、その私でさえ、ガチ恋とは無縁ではない。純粋にエンターテイメントの提供者であると認識していた黛灰(卒業済みのにじさんじライバー)に、気づけば恋愛感情的なものを持っていたし、バレンタインにチョコを貰い、泣いて喜ぶ夢を見たこともある。ガチ恋感情が厄介であることは、身をもって理解しているつもりである。(意外に思われるかもしれないが、ガチ恋とカプ厨は両立する。彼には同期の女性VTuberと付き合っていて欲しいと心から願ってた。)

 誤解が無いように言っておくが、『ガチ恋は有害であり、カプ厨は無害』というわけではない。私は基本雑食だが推しカプが存在するし、推しカプ以外の男女が仲良くしていると良い顔をしない。A×Bを推しているカプ厨がA×Cの恋愛ソングのデュエットに「これは友情……これは友情……」と言い聞かせているポストを見たことがある。BL、NL、百合を問わず、難儀なものである。一番大事なのは、配信者を妨げない自制心であることはいうまでもない。

⑤星街すいせいの事務所設立について

 星街すいせいが、個人事務所を立ち上げた。とはいえ、ホロライブから脱退するわけではない。この件をどう解釈するか、議論が沸き起こった。

 私の考え

 企業戦略については、語れるほど詳しくないからなんとも言えない。実質的な脱退と言っている人もいたが、実際のところよくわからない。私は、そのような印象を受けなかった。
 私はポジティブな話題であると捉えたのだが、難癖をつけている人がいる。「天音かなたのときは、何故、これができなかった?」と。
 この先、どのような偉業を達成したとしても、またどれだけ職場環境が改善されたとしても、同じ文言で会社を非難する声が出ると思う。アンチが過去を蒸し返して騒いでいるだけならば嫌がらせだと片づけることができるが、天音かなたをアイコンにしている人のポストとなると、悲痛な叫びに聞こえて心が痛い。彼女の卒業は大きな傷となっており、何かあるたびに痛むことになるのだろう。
 ホロライブに限らず、にじさんじも、ほかの事務所も、対応に格差というものは存在すると思う。ただ、それが「妥当な格差」であるか「不当な格差」であるかが重要だ。そして、それはリスナーの側からはわからない。赤井はあとが暴露した不平等をそのまま信じればいいのか、その判断もできない。
 裏で何があったか詳細はわからないにせよ、星街すいせいは、何かを勝ちとったのであり、そうするだけの実力を示した。今、言えることはそれぐらいしかない。VTuberの活動のスタイルが増えるのは、喜ばしいことである。その自由度こそがVTuberの利点であり、その個人に応える企業もまた、柔軟性を称賛されるべきだろう。今は、彼女の躍進を期待したい。

⑥えま・おうがすとのイラスト”おねだり”に対する賛否

 えま・おうがすとがサムネに使うイラストを、不特定多数のリスナーに頼み込んだ。(おねだり)
 期日が近いこと、無償であることから、これは不当なのではないかと騒いだVTuberがいた。これによって、今後、えま・おうがすとは、サムネのおねだりを控えることにした。

 私の考え

 結論を言えば、この人物は自分の行いが完璧に間違いであったと認めており、謝罪をしている。すでに解決済みの問題である。(そもそも問題でなかった)
 謝罪までの過程はみっともないと言わざるを得なかった。大手に対して卑屈になっており、大手企業Vに対する妬みが見られた。多数の人から非難されると、”弱者が大手に逆らうとこうなるんだ”のような被害者ムーブをポストしていた。非難されたのは相手が大手だからではない。仲間同士が大切にしているコミュニケーションを外野から難癖をつけたからである。この人物は、精神病を患っており精神不安定だというので、今回の件は目を瞑ってもいいが、SNSは控えてもらいたいものだ。
 VTuberにサムネを提供するために クリエイターが絵を提供する。こうすることで幸せを感じるクリエイターは多い。駆け出しのクリエイターは、バズるきっかけにもなるし、winwinの関係である。しかし、このことを気に食わない人がいるのも確かだ。自分たちは自作か依頼しなきゃいけないのに、大手はタダで書かせているのが気に食わない。という僻みである。
 このことを”やりがい搾取”だと捉える人もいる。しかし、やりがい搾取とは、雇用関係にある人、あるいは上下関係にある人たちにのみに適用される言葉だ。雇用契約以上の労働をさせ、その報酬を支払わず”やりがい”という価値で言いくるめようとすることでVTuberとファンの関係には当てはまらない。あえて悪く言うならば「惚れた弱みに付け込む」だろう。しかし、それにしても「描いてもいいよって人がいたら描いてくれればいいし、無理だと思うなら描かなくてもいいよ」という前提がある。ファンの自主性は保たれているので、それすらも当てはまらないだろう。
 結局、ファンが大事しているコミュニケーション手段の一つが、外野の難癖のせいでひとつ潰れただけだった。
 ちなみに、サムネに関しては、期日までに仕上げてくれるファンがいた。無理とは思わなかった人が仕上げ、無理だと思った人はやらなかっただけの話であった。

⑦のじゃおじとピーナッツくんとナポ・レボリューションの『超かぐや姫』を巡る対立

 アニメ『超かぐや姫』を巡っての賛否は、VTuber同士の対立に発展した。

 最初に、のじゃおじの批評があった。
①楽しめないのは、歳を取って、世代が合わなくなったからでは?

 それを受けて、ナポレボの批評。
②合わねえものは合わねえ。世代のせいじゃねえ。

ピーナッツくんがラジオで雑にいじる。
③自分は、成功してるからそうは思わなかったけど、そうじゃない人は、そういう感想を抱いても仕方ないわ。気付かせてくれてありがとう。

 喧嘩

という流れ

 私の考え

 まず、私は『超かぐや姫』を見ていない。だから作品そのものの批評はできない。もし見たとしたら、普通に楽しめるとは思っている。
 感想を書いただけで、これだけ論争に発展するのであれば、自分にどれだけ的を射た批評ができるか気になるところだ。

 まず、ナポレボが『超かぐや姫』を楽しめなかった理由が「自分が伸びていないから」とするピーナッツくんの主張が否定されている。ナポレボは、「シンプルに合わなかった」のが理由であると述べており、自分自身のVtuber活動の成果に関わらず『超かぐや姫』に批判的であっただろうと主張している。その点で、作品評価を個人の経験に起因すると決めつけてしまったピーナッツくん側は分が悪い。
 ただ、ナポレボも嘔吐したり「悔しかった」と、批評の域を超えた感情を露わにしていたり『伸びてたらここまで効いてないのは確かだけど』と、その要因が全くないわけではないことは認めている。

 ノエル・キャロルの批評理論に「成功価値」と「受容価値」という用語がある。「成功価値」は、作者が意図した狙いが達成されているかを測るものである。例えば、作者が「ここでは、読者が不安になるように、このような描写を加えよう」として、読者がそこで不安になったら、成功価値が高いというわけである。
 その反対に、作者が意図に関わらず読者の反応を測るのが「受容価値」である。作者にその狙いがなかったにも関わらず、読者が演出に感動して泣いたら、受容価値が高いシーンだったことになる。
 ノエル・キャロルは、前者の「成功価値」を重視する。「受容価値」は、読者の今までの人生経験に左右され、感想が主観的なものになってしまうが、「成功価値」ならば客観的に作品の批評ができるからだ。当然ながら、どちらも蔑ろにすべきでなく、この二つを切り分けて批評することが良いとされる。マーケティングにおいては「受容価値」の方が重要だろう。

 『超かぐや姫』は若者に人気であることは紛れもない事実であり、「受容価値」は間違いなく高い作品である。おそらく「成功価値」も高いのだろう。後者に関しては、視聴した人でなければ評価できないが、作者に「狙い」があったとして、それはどんな視聴者を対象にしていたのか、どのように心を掴もうと仕掛けを施し、それはどのように機能したのかを考えてみる必要があると思う。『超かぐや姫』はVTuber文化と密接に関係している。VTuber側は「成功価値」「受容価値」の両面から、この大成功を研究し参考にすることで、自身のコンテンツを向上させることになるだろう。
 
 「自分が『超かぐや姫』をつまらなく感じたのは、作者が想定する視聴者層から外れたからであり、若者には魅力的に感じるのだろう」という、のじゃおじの一歩引いた指摘が正しいかどうかはわからないが、もし、そうであるならば、今の若者が何を重視しているかを分析してみるべきだろう。
 
 私としては、ここで「カルチュラル・スタディーズ」の題材として、『超かぐや姫』を取り上げることを薦めたい。
 カルチュラル・スタディーズは、文化研究と訳される、イギリスで発展した理論・実践である。大衆文化も研究対象である。
 一つの例を挙げると、テレビの連続警察物と社会情勢について語ったものがある。
 1960年代のテレビドラマに描かれる警察は温情で父親的であったが、次第にテロリスト集団と暴力で渡り合うような存在として描かれる。
 これは現実の世界において、コミュニティにおける警察の存在が、どのように変化していったか、その時代の出来事(労働組合による闘争やテロリストなどのヘゲモニーの危機)と関連付けられることで、ドラマ内の警察の役割の変化の理由付けがされた。

 『超かぐや姫』の成功を”世代”と絡めて語るのであれば、なぜ、今の世代にこの作品は人気があるのだろうかを研究してみるのがいいと思う。そうすれば、上記のドラマにおける警察のように、社会情勢との密接な繋がりが見えてくるかもしれない。ひいては、現在におけるボカロ文化やVTuber文化を改めて捉えなおす機会にもなるだろう。

 ピーナッツくんは、「今はインターネットは現実世界と変わらず、強い奴がそのまま強いだけ」と不満を漏らしていた。バーチャルにユートピアを夢見ていた人ならば、その気持ちがわかるだろう。しかし、私はこうも思う。
チェスの駒の動きをそのままに、その駒を使って、全く新しいゲームを考案したとする。このとき、贔屓もなしにクィーンよりもポーンの方が強くなるような、そんな環境を作れるだろうか? その道は前途多難だと言わざるを得ない。
 
 カルチュラル・スタディーズの話を続けさせてもらうなら、VTuber、Youtuberには、カウンターカルチャーの側面もあると思う。個人で自由に発信できる存在は、反権力的であり、反商業的であり、マス・メディアと対立する。
 現在、大手のVTuber事務所は、良くも悪くもマス・メディア寄りとなっている。ピーナッツくんとナポレボは、カウンターカルチャーの旗手として、共に戦って欲しいと思う。

⑧花宮莉歌の男性Verイラストが、葛葉に瓜二つで炎上した件について

 VTuberの花宮莉歌が、己を男性化したイラストを公開。それが、にじさんじの葛葉に瓜二つであることで炎上した。彼女は謝罪したが、その謝罪は必要だったか賛否が分かれた。
 https://x.com/7H7H7H777/status/2035921813440811375

 まず、葛葉のデザインがそこまで独創性のあるものではないこと。偶然、誰かに似てしまうのは仕方がないこと。また、似ていたとしても公開することに問題がないことが挙げられた。
 一方で、絵師が過去に葛葉のファンアートを描いており、葛葉のことを知っていたことが明らかであった。そのうえでこのイラストを描くのは、悪意がある。また、依頼主の花宮莉歌も知らないわけではないだろう(VTuber界隈にいて、彼を知らないはずがない)という批判もあった。

 私の考え

 法的な話をするならば、彼女は無罪だと思う。この世には60000人のVTuberがおり、アニメ、漫画のキャラクターにまで広げれば、何十万といるだろう。男性を描いて、それら全てに被らないようにするのは不可能に近い。彼女がその男性体を用い、不当に利益を得たり葛葉に損害を与えるようになったら、そのときは『優良誤認』などの罪名が付くだろうが、イラスト公開の時点ではその罪はない。
 『葛葉のデザインがそこまで独創性のあるものではない』という指摘も尤もである。おそらく葛葉がデビューする前の、この世に存在する全ての漫画作品を漁れば、絶対に一人は、白髪赤目で釣り目の男が見つかるはずである。そのキャラを持ち出して、葛葉を「パクリ」と非難することは言いがかりでありナンセンスである。よって彼女をパクリで非難するのも間違っている。

 仮に、葛葉の外見、デビュー日や配信内容が同じで、ただ、登録者数や話題性のみが著しく低かったとする。個人勢であり、登録者も2,3人の葛葉だ。そのうえで、今回と同じことが起きた。その場合、結果は全く違っていただろう。指摘した人は「言いがかりだ! そんな底辺のことなど誰も知らんわ!」と反撃にあっていたに違いない。
 花宮莉歌が同じ行動をしても、相手が人気か否かで結果が変わる。彼女の善悪の評価が分かれる。だとしたら道徳とは何なのだろうか? だからこそ、この問題は扱いが難しい。

 『李下に冠を正さず』という故事成語がある。誤解を招くような行動をするなという教えだ。たとえ悪意がなくても、悪意があると思われるような行動は避けるべきである。
 彼女が間違えたとしたら、この点だと思う。法的に問題があるからではなく、道徳的に問題があるからではなく、悪意(パクリ)があると受け取られるような行動をしてしまった。その危機管理を怠ったことにあると思う。
 
 彼女が葛葉を知らなかったという可能性はないと思う。例えるなら『ポケモン』好きを名乗ってピカチュウを知らない。指揮者という職に就きながらカラヤンを知らない。それぐらい不自然だ。
 彼女は、ある意味被害者だ。自身を男性化させたとき、不運にも誰もが知っている葛葉に似てしまった。100人中99人が葛葉だと即答するようなイラストを送られたのだから。それを理由に、絵師にリテイクを出すのは勇気がいるだろう。しかし、それを怠ったために、今回のようにイラストを取り下げる嵌めになった。
 似たような話に、ファンマークの被り問題、タグの被り問題がある。極力、既出でないことを確認して被らないようにしてるだろうが、先発、後発に関わらず、人気側が優位という、どうしようもなく歯痒い現実がある。

⑨生活保護を受けながらVTuberをすることの是非について

 Vtuberの犬野はるが、生活保護を受けている関係で、収益関係を停止するとポスト。このことに対し批判が飛びかった。
 普通に収入を得ることができるのに、収益を調整することで税金で暮らそうとしているのではないか?
 生活保護を受けている身でありながら、VTuberをやるのはどうなんだ?
そのような批判が見られた。

 私の考え

 まるで不正受給しているかのように誤解されるポストをしたのが、悪いとしか言いようがない。ケースワーカーさんと相談のうえ、この決定をしている以上、何かしら問題があるとしても、それは彼の倫理観ではなく制度のほうだろう。

 そして、職業としてのVTuberの風当たりが強いことが明らかになった。これが別の職業だったとしたら、誰も文句を言わなかっただろう。画家や音楽家などの芸術関係は、未だに厳しい目を向けられるかもしれない。
 「俺だって、サラリーマンじゃなくて、夢のある職業に就きたかったよ! 毎日満員電車に乗って、残業しまくって、税金を徴収された給料で、かろうじで生活しているんだ。それなのに、お前は税金を使って、毎日絵を描いて暮らしてるというのか!」
 そんな罵倒が聞こえてくるようだ。この気持ちは分からなくもない。たとえば世の中にはパチンコを職業としている人がいるそうだ。
 「私は趣味じゃなくて、職業としてパチンコを打ってるんです。でも、安定しないから税金で暮らしています。ちなみに、今月は儲けすぎたので、打つのは控えます」
 という人がいたら、私も心情的に認めたくない。ハローワークで職業訓練を受けるか派遣でもいいから労働することを薦めたくなる。

 私自身、社会不適合者だという自覚があり、無理して社会人をやっている。だから、職業としての、つまり生活手段としてのVTuberが存在することに希望を見い出している。何かしら、人を惹きつける能力はあるが、どうしても社会に馴染めない人がいる。そのような人にとって、VTuberは救いだろう。『一切の社会不適合者を許さず、無理してでも社会人に矯正させる社会』と、『社会不適合者であっても経済圏を加速させ、全体の幸福度を上げる手段がある社会』では、後者のほうが良い社会だと言えるだろう。
 この先、10年、20年経てばバーチャルという世界が現実と身近になり、世間の評価も変わってくるだろうが、道のりは厳しいだろう。

⑩特定の箱信者とブランド忠誠心

 ①~⑨の話題と違い、最後だけは、トレンド入りしたわけではないが、上記の全てに関わってくる。
 俗に対立煽りと呼ばれる人々、あるいは盲目的な信者と呼ばれる人が多く見られた。アンチの生態については、途中でまとめたが、こういう人たちは似た箇所あれば、似てない箇所もある。
 このような狂暴な箱の信者は、ある意味、vtuber全体のアンチより質が悪い。全Vtuberアンチの行動理由は、無理解やちっぽけな自尊心の維持であった。しかし過激な信者は違う。なぜならば、Vtuber文化に理解があり、応援したいVtuberがいて、そういう存在いることの幸せを知っているにも関わらず、競合他社に対して嫌がらせをしているからだ。特定の箱を盲目的に称え、それ以外を徹底的に嫌がらせをする連中は、アンチとはまた別のメカニズムで動いていることになる。
 さらに言えば、対処にも困る。VtuberアンチがVTuberを罵倒していたとしてもVtuberの評価は下がらない。一般人は「なんか、気持ち悪くて、頭のおかしい人がVtuberを攻撃してる」と思うし、発言に惑わされて扇動される人は、同レベルの馬鹿なので無視しても構わない。
 ただし、信者の妄言は、そうはいかない。〇〇信者が、頭のおかしい理論を振りかざしながら、××ファンを非難しているとする。これを放置してしまうと「〇〇ファンは、頭が悪いのか? こいつらは民度が悪いのだ」というマイナスのイメージが付いてしまう。さらに、信者偽装やファンに見せかけた対立煽りもあると収拾がつかない。だから、より厄介な存在と言える。アンチは放置して通報が鉄則だが、自分たちの好きな箱の民度を下げるような発言に対しては自浄が必要となると思う。
敵よりも無能の味方の方が害悪というのは本当らしい。

画像

 たとえば、これは私が引用ポストで窘めたスクショである。何人もの集中的な批判でアカウント削除まで追い込むことに成功した。
 ちなみに、このアカウント主は、にじさんじ信者のホロライブアンチというわけではなく、男性Ⅴを賛美し、女性Ⅴはにじホロ構わず罵り嘘を吹聴するアンチであった。

 今さらではあるが、私は個人的に、言葉を次のように定義している。

信者=配信者の悪い行いすら肯定し、一切の批判を許さない馬鹿。
ファン=一般的なファン。悪い行いは窘め、良い行いは褒める。
アンチ=配信者の良い行いすら批判する馬鹿。

 まずは、信者の思考メカニズムというものを心理学によって紐解いていこうと思う。

 ①の件では、粗品が馬鹿なことを言った。しかし、彼を批判する人の中に、このようなポストも混ざっていた。
 「粗品は、にじさんじのファンだからホロライブを攻撃する」

 これには何の証拠もない。このポストは、炎上を利用し、にじさんじを不当に下げようという目論見がある。
 粗品に限らず、ホロライブに少しでも否定的なポストを見つけると、彼らは発言者を『にじさんじリスナー』と仮定する。アカウントを遡り、過去数年のうちに、にじさんじのポストが一件だけでも見つかれば、その人は『にじさんじ』に忠誠を誓い、それゆえにホロライブを攻撃する悪人になるそうだ。

 中学生レベルの知性を持ち合わせている人ならば、改めて教える必要はないが、普通の人間はA社の商品を気に入ったといって、その瞬間にB社とC社の商品を貶そうと考えたりしない。
 にじさんじのライバーをフォローしていても、『にじさんじ』というグループを知らなかったということは普通にある。当然、にじさんじ、ホロライブ両方が好きという人もいるし、加えてぶいすぽが好きな人、ななしいんく、個人勢が好きな人もいる。誰もが箱単位で好きになるわけではない。
なんでも信者認定してしまうのは、その人が別の箱の信者だからに他ならない。

 ホロライブが批判されている→にじさんじファンのリスナーの嫌がらせに違いない→1件ポストが見つかった。やはり間違いなかった。
 ホロライブ信者は、このような、おめでたい思考回路をしている。
 
 「利用可能性ヒューリスティック」という心理学用語がある。わかりやすい情報を信じやすくなる傾向のことだ。
 たとえば、とある人のXは、ホロライブ5割、ぶいすぽ4割、その他1割、にじさんじは過去数年のうちに2,3件のポストをしていたとする。あるとき、その人はホロライブの運営に物を申したくて批判的なポストをしたとする。それを見たホロライブ信者は、まず「どうやって、こいつをにじさんじと関連付けようか」と考える。そして「にじさんじ」で検索して少しでも触れてるポストを見つけると『にじさんじファンが嫌がらせをしている』証拠が見つかったとして、それを嬉しそうに拡散するのである。実際、そのポストがどこの箱ファンかはどうでもいいのである。

 アンチの考察にて、フラットアースという陰謀論者の話を出したが、彼らも幾千もある「地球が丸い」という科学的な証拠を無視して、周りが爆笑するかのような妄想(NASAが隠蔽している等)を頼りにしている。その点でも彼らは陰謀論者と脳内構造が似ていると思う。

 あくまでも自分は被害者側、あるいは正義側だと主張する

 これは、アンチの特徴で私が挙げたうちの一つであるが、これは信者の攻撃方法にも当てはまる。 
 彼らは”俺は『にじさんじ』が嫌いだ!”とは言わないし、単純な罵倒をしない。一手間加えるのだ。
 あくまでも”『にじさんじ信者』が、ホロライブに対しネガキャンをしているので、正義心から俺はそれを難詰する”という建前で工作活動をする。もちろん、中には、本当にそういう悪い『にじさんじ信者』はいるだろうし、その不正を指摘することは、ホロライブファンとして正しい。
 ただし『ホロライブ信者』は、にじさんじファンでない人も『にじさんじ信者』と見做すし、倫理的に問題がないことでも(最近だとグッズの不良在庫による損失)言及してネガティブキャンペーンを行う。また、ホロライブに不祥事があったときは、何年も前の、既に当事者同士で解決済みのにじさんじの不祥事を持ち出して拡散しようとする。さらに言えば持ち出した内容は、捏造を含んだり、針小棒大に語ったものである。つまり『不正を指摘する』という建前を忘れて、”ライバル企業を攻撃したい!”という本音を露わにしてしまっている。
 加害したいという己の本音を隠しながら、「彼らが俺たちを加害してくるんです」と吹聴して回ることで、マイナスイメージを植え付けさせ、嫌がらせを遂行するのである。なんとも卑屈な連中である。

 ちなみに、1件でも「にじさんじ」に関することを呟いたら、『競合他社に対して攻撃的なほどに妄信的な信者』と見做されてしまうが、触れなかったら触れなかったで、信者認定される場合もある。
 かなえ先生という有名な個人Vtuberがいる。この人が、ホロライブについては語るのに、にじさんじについて”語らなかった”という理由で、贔屓を疑われた。

 ちなみに、こちらの動画で取り上げられたマシュマロに書かれていることも、にじさんじに対する捏造が多く含まれている。かなえ先生の『ホロライブに対する誹謗中傷』の証拠すら捏造である。上記の動画内では当該シーンを同時視聴して、その捏造が露呈した。マシュマロを送ったホロライブ信者は、皆の笑いものである。

 『にじさんじグッズの保留在庫による評価損』の失態について語らないことを理由に、かなえ先生を『にじさんじ信者』認定する人もいた。かなえ先生は、法務省職員で少年院に勤務した経験を持つ、犯罪学や精神分析において信頼のおけるVTuberであるが、その人に何を期待しているのだろうか? もし、彼が経営コンサルタントVtuberだったり株取引の専門家だったのならば、わからなくもないが。
 彼の専門外の『経営』に関してまで解説を求めるのはおかしな話であるし、解説をしなかったことで『にじさんじ信者』だと認定するのもおかしな話である。『ホロライブ信者』は、そんなことすら理解できないのだ。

 私には既視感があった。アニメ界隈でも、同じような対立が存在する。美少女しか存在していないアニメのファンが、女性人気の高いアニメを執拗に貶めていたのを覚えている。おそらく、メカニズムは同じなのだろう。
 にじさんじを目の敵にする『ホロライブ信者』は、イケメンの男性と女性が仲良くしている光景に劣等感や嫌悪感を覚えるのかもしれないし、自分たちには見向きもしないで、イケメンの男性たちにラブコールを送る女性ファンを恨んでいるのかもしれない。女性しかいないグループに夢中になっている自分にコンプレックスを感じ、男女混合である『にじさんじ』ファンを妬み、低く見積もることで、自己正当化をしているのかもしれない。
 私を含め、ホロライブをエンタメとして捉えている99.99%のリスナーは、そんなことを思いもしないだろう。しかし、エンタメではなく”逃げ場”としてコミュニティにしがみ付いている連中に、そのような悪しき感情が芽生えてもおかしくない。

 フラットアースの陰謀論者のほとんどが、過去にテロに巻き込まれたり、いじめの対象になって、心に傷を負った人だという。おそらく、特定の箱の信者もコンプレックスを抱え、救いの場として箱というコミュニティに縋りついた人たちなのだろう。
 そこまで酷い境遇でなかったとしても、何かしら、コンプレックスを抱えていたり、自分に満足していない不安定な人が多いに違いない。それは当然な話で、自分自身に満足しており精神的に安定しているならば、他者を陥れ
てやろうと画策する必要がないからだ。

 ブランド忠誠心

 これは『ブランド忠誠心』という心理効果で説明が付く。ブランド忠誠心とは、特定の企業に対して抱く親近感のことである。高価な製品などで起きやすいのだが、私はこの商品を「選択」して買った(VTuberの場合は、時間を費やして応援した)という事実があると、購入後に「他の選択のほうがよかったのかもしれない」という『認知的不協和』を抑え込もうとする。そして、自分の選択が間違っていなかったと思いたいために、選択した物を過大評価し、しなかったものを過小評価するというバイアス(選択支持バイアス)がかかる。

 心理学書『思考のトラップ』の文章を引用する。

 たとえばアップルの広告では、アップルコンピュータのどこがすごいかなんてことは問題にされない。そこに出てくるのは、どんな人がこのコンピュータを買っているかという実例だ。
 「そうだ、おれは退屈で保守的なオタクとはちがう。趣味がよくて才能があって、大学では芸術のクラスをとったんだ」と見る人に言わせようとしているのである。
 アップルのコンピュータはマイクロソフト系のコンピュータよりすぐれているのか。データや分析やテストや客観的な比較に基づいて経験的に見た場合、どっちかがどっちかよりすぐれていると言えるのだろうか。
 そんなことはどうでもいいのだ。なぜなら、自分はそれを所有するような人間だと人が思いはじめたあとでないと、そういうことは問題にならないからである。自分はアップルを持つような、ハイブリッドカーに乗るような、キャメルを吸うような人間だと思うとき、人は焼印(ブランド)を押されている。そしていったんブランドを押された人は、そのブランドを擁護しはじめる。ほかの商品のあら探しをし、自分の持つ製品のよさを言い立てるようになるのだ。

『思考のトラップ』ディヴィッド・マクレイニー

 惨めなアニメオタクが、好きなアニメの円盤が売れていることを自分の功績かのように誇り、売上が振るわなかったアニメを扱き下ろすのを見たことがある。彼は自分自身に何も誇れるものがなかったから、せめて『売れてるアニメを視聴できた私』を強調することで、面子を保っているのだと納得できた。
 VTuberが流行ってからは、そういう人たちは、肥溜めのような掲示板内で、登録者数や同時接続者数を必死に見比べて、その他人の数字を使って自分の面子を保っているのだろう。

 この本によれば、ネットで対立煽りのような議論をするのは、一般に男性であるようだ。確かにアニメでも、女性人気の高いアニメを罵る美少女アニメオタクを見たことがあるが、その逆は見たことがない。
 『ホロライブは全力で擁護し、にじさんじに対してはネガキャンを企てるためだけのアカウント』はそれなりに見たことがあるが、逆に『にじさんじは全力で擁護し、ホロライブのネガキャンを企てるためだけのアカウント』は全く見たことがない。
 だからといって、にじさんじがホロライブと比べて民度が良いと結論づけるわけではない。(そもそも0.01%の例外的なゴミだけで全体を語れない)これは男女比によるものだと思う。
 男は面子を守る動物である。「これを選択した私」の面子を保つために、推しコンテンツを高く見積もり、競合他社のコンテンツの荒探しに必死になる。
 その一方で女性は『ブランド忠誠心』は薄い。自分の面子よりも、推しを応援するのに夢中であり、隣は眼中にないのである。彼女たちが暴力的になるのは、基本的に自分たちの縄張りが侵略されたときである。
 これに加えて、次の要素も関係していると思う。 
 ホロライブはVTuberとして、一丸となって成長していくアイドルグループであり、その結束は固い。故に箱の『ブランド』が確立され、ファンも箱推しになりやすい。
 逆に、にじさんじはVTuberとして高みを目指すのではなく、各々が、バーチャルを通して目標を達成することを理念としている。コンテンツは千差万別であり、緩い連帯感によってまとまっている。よって、箱の空気が好まれても、全て高クオリティというような『ブランド』イメージは付きにくい。それは大きな理由だろう。
 
 『思考のトラップ』では『ブランド忠誠心』を次のように締めている。

 そういうわけだから、携帯電話でもテレビでも自動車でも、自分の持っているもののほうが、すぐれていると主張したくなり、その理由を並べたくなっても、次からはもうやめにしておこう。なぜならそういうとき、人は相手を説得しようとしているのではないからだ。自分で自分を説得し、納得させようとしているだけなのである。

 どちらか片方を無理やり擁護したり、不当に貶めようと、荒唐無稽な陰謀論を唱えたり、意味不明な理論展開をしているポストを見かけたとしても、私たちはこう思うことにしよう。
 「ああ、彼は自分の面子を保つために必死な可哀そうな人なのだ」
そして『にじさんじファン』は『にじさんじ信者』に対して、『ホロライブファン』は『ホロライブ信者』に対して「俺たちのコミュニティから出ていけ!」と追い出して民度の維持をしていければ理想的だと思う。

 最後に

 昨今は、VTuberに誹謗中傷をしたアンチの愚かな末路、つまり開示請求のニュースが話題になる一方で、アンチはいくらでも湧いてくる。
 ぶいすぽが伏字のアンチコメントに対しても、開示請求が認められたことは、大きな抑止になったと思う。小賢しく罪を逃れようとしてた連中は、今頃慌てているだろう。
 しかし文章というものは、どこまでも巧妙に書き出すことができる。

 〇〇が、××疑惑で炎上してるけど、彼女の性格的に、それはないと思う。これは偶然か捏造だと思ってる。

 例えば、こんなポストがあったとする。ファンによる擁護に思えるが、このポストの目的が『〇〇が××を行っている』ということを拡散することにあったとしたら? 反論の根拠を漠然と説得力のないものにして、〇〇のマイナスイメージだけを印象付けて拡散させる。この悪意を批判しようとも、「僕は、彼女の潔白を広めようとしたんです!」と白々しく主張するだろう。

 〇〇は「要素A」がある。一方で△△は「要素A」がないので、私は〇〇の方が好きだな。

 このようなポストは、一見すると信者による他社のヘイトに見えるかもしれない。しかし、これはダブルスタンダードではないし、根拠が明示されている。単に個人的な好みの話しかしていない。よって、その要素Aの有無が妥当であるならば、まともな文章だろう。実際、私も気軽に男女コラボできる空気がある『にじさんじ』ばかり見て『ホロライブ』をあまり見ないと言っているが、これを対立煽りと捉える人はいないだろう。しかし、頭のよろしくない人はヘイトスピーチと捉えるだろうし、悪意のある人間は、この文章を引用し、歪曲させてヘイトスピーチを展開させるかもしれない。

 このように、善意が悪意を狙っていたり、逆に悪意のない文章に悪意を見い出そうとしたりするSNSは息苦しいものである。これを見抜くのは至難の業であるし、はっきり言って不可能である。(頭の悪い人の文章は丸わかりであるが)それでも私たちは、推しに迷惑をかけないことは当然として、自分自身のストレスを溜めないように、付き合っていかなければならない。SNS断ちをしない以上は。
 アンチは無視して通報。コミュニティの民度を下げるような信者は嗜めて追放させる。どうしても理不尽に耐えかねたときは、noteを書き、論理的に主張してみるのもいい。
 このコラムも、私自身の理論整理であると同時に、感情整理の場でもあった。そして『頑張っている人を応援したいと思うことに、恥ずべきことはない』という気持ち強めることができた。頑張っている人を冷笑するアンチよりも、頑張っている人を熱狂的に応援できる自分のほうが素晴らしいと、皆もわかって欲しいと思う。理解できないコンテンツを馬鹿にしたり、特定の箱に対し粘着的に嫌がらせする連中が、いかに惨めで取るに足らない負け組であるかをわかって欲しい。このコラムが、その助けになったとしたら幸いである。

 これを書いている途中に、とんでもなく大きな出来事があった。ホロスターズの体制立て直しである。最後に、この件にも軽く触れたい。
 ホロスターズに関しては、運営のサポートが妥当であったかが論争になるが、一番痛手だったのは、ホロライブが最初から歓迎ムードでなかったことだと思う。『ホロライブの配信者からは触れないので安心してください』と言ってるかのようなアナウンスで、ホロライブファンからは、コミュニティの破壊者かのような印象が付いた。
 しかし、体制が変わったのをいいことに、皆がレジスタンスかのように、大暴れしたことは、さすがに笑みが零れた。④で『性淘汰』の話をしたが、生物的にも女性は弱い男には惹かれない。そして危険な男を好む傾向にある。このアピールは、面白い男としても魅力的な男としても上手く行ったと思う。彼らのVTuberが、いままで以上に良いものになることを祈る。


 参考文献
『善人ほど悪い奴はいないーーニーチェの人間学』 中島義道 角川oneテーマ21
『文学理論とは何か?』 ジョナサン・カラー 岩波書店
『批評理論入門 『フランケンシュタイン』解剖抗議』 廣野由美子 中公新書
『心のトラップ』 ディヴィッド・マクレイニー 二見書房
『われわれはなぜ嘘つきで自信過剰でお人好しなのか』 ウィリアム・フォン・ヒッペル  ハーバー・コリンズジャパン
『レトリックと詭弁』 葛西秀信 ちくま文庫

 また、陰謀論については、Youtubeチャンネル『積読チャンネル』https://www.youtube.com/@tsundoku-ch/videos
の動画『陰謀論に勝つ方法、教えます。』を参考にしている。


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コメント

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 彼らは”俺は『ホロライブ』が嫌いだ!”とは言わないし、単純な罵倒をしない。一手間加えるのだ。  あくまでも”『にじさんじとか知らないV粘着』が、ホロライブに対しネガキャンをしているだけなので、それらは誰も悪いという話ではないし、仕方ない、なんでもかんでもにじリスのせいにしている…

最近のVTuber関連のこと、まるごと評論する。|わぐ
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