自由に生きる重要さ

最近の世の中、ずいぶん不自由になっていると思う。ニワトリには”ケージ飼い”というのと、室内などでいくらかの動き回れるところがある”平飼い”というのと、屋外を歩き回っている”放し飼い”というのがあるわけだが、ニワトリも、後ろが振り向けないような一生は地獄だろう。これは現代人にも、そういう人生に押し込まれている人がけっこういる。

『型に入れられないようにする』のはそうとう強い意志的な生き方が必要になる。うかうかして、大勢に迎合しているとすぐ”平飼い”。平飼いからケージ飼いまではすぐだ。

世の中、『無理強い』されることがすごく多くなってきた。昭和20年代30年代生まれの人は、こう私が言うと納得するだろう。10年かそのぐらいで、デジタル・カメラの適合するSDカードがなくなる。いま4ギガなどというのは手に入りづらくなっている。フィルム・カメラは規格が100年以上変わらなかった。私は半世紀ほどフィルムカメラを使った。いまもまだ数台手元に残してある。昔、友人にもらったスマート・メディアがあるのだが、そこにはヨーロッパで写した自転車の風景がある。しかし、いまの私の機材では見ることが出来ない。

自転車の世界でも、ディスク・ブレーキなど私の使い方では不要。自転車にもっとも詳しくうるさい人たち、インプレ・ライダーであるとか、自転車雑誌の編集主幹、もとメーカーの人、自分で自転車をオーダーするような人たち、こういう人たちでディスク・ブレーキを使っている人は、私のまわりではほとんどいない。ディスク・ブレーキは同じメーカーでもグレードが変わると部品が互換性がない。年式が変わると合わない。メーカーが変わるともっと合わない。

しかし、100年前の英国のロードスターは、日本の実用車であるとか、インドのアトラスとか、部品の互換性はいくらでもきく。

これは家電でも携帯電話でも、みんなそうなってきているようにみえる。世界人口のトップ0.数パーセントの人たちの意向で、残りの人たちが動かされている。私には『必要のないモデルチェンジ、必要のない進歩』。

テレビの受像機はずいぶん進歩して、きれいに見えるようになった。しかし、そこで流れている番組がどうにも薄っぺらく面白くない。私は現在、ほぼまったくテレビを見なくなった。それでも何の不自由もない。ラジオはもっと聴かない。

これは意外に気が付かれていないが、街を歩くと、かなりの人が耳にイヤフォーンをしている。これは、『ヒツジが牧羊犬にひとところに集められているように、流されている情報で操作されている』のではないか?現代は”均質化”の時代と言える。電車に乗ると8割以上の人がスマホをいじっている。なかなか中毒性があるようだ。

お隣の国が新しいハイブリッド車を発表した。プリウスにそっくり。自動車も服も自転車も、選択の自由がない。画一化、均質化の時代。グレンチェックのダブルのスーツが欲しいと言っても、ペンシルストライプのウールのスリーピースが欲しいといっても、現代ではそうやすやすとは買えない。あるいは剣襟のディナー・ジャケットはどこに売っているのか?それなしで、どうやってヨーロッパの大使館のパーティーに呼ばれたら出かけるのか?アメリカだったら”ヘチマ襟”でもいいけれど。夜だったらエナメルの靴。どこで売っているのか?そういう世界とは無縁で一生を終えるなら、問題はない。華麗な世界はなかなか愉しい。大統領の晩餐会に集まっている人たちの2026年の服装を見てみるとよい。そういう可能性を放棄しますか?どこへでも出ていって恥ずかしくない、むしろその場を活躍の場にするくらいの”起爆力”が自由を生むのではないか?

全世界、どこへ行っても巣多場かネロのコーヒー?同じ無味の服?一本調子でつまらないだろう。

私の世代、自転車旅行で、疲れると、場合によってはお堂の軒下とか賽銭箱のわきのヌレエンのようなところで一夜を明かすことがあった。いまそんなところで寝ていたら警察が調べに来る(笑)。

自由はどんどん蒸発している。自転車の青切符なども、むかしからしたら考えられない。無灯火だと、やはりとがめられたが、壊れていて点灯しないと、警察官は『押して帰りなさい』と指導していた。そこへ罰則を導入しないといけないほど、悪質化したということだ。それによって不自由になった。

私は思い出すのだが、世の中で”無灯火”が増えたのは、MTBとロードレーサーが前照灯無しで車両を販売し始めてからだ。私の少年時代。こどもたちは自分たちのランプを自慢しあっていた。手提げランプを差し込むタイプのこどももいれば、ダイナモ式でヘッドライトがひとつのこどももいた。それが2灯式(デュアル・ヘッド・ランプ)だったらたいへんな高級品。テールが反射鏡だけではなく点灯するものなら最高級品で、暗くなるのが待ち遠しかった。時代ははたして進歩しているのか?

先週、店の中で、アメリカの東海岸、おそらくメイン州あたりのアクセントの人が、スマホの翻訳機能を使ってお店の人に質問していた。私がじかに英語で話していろいろ説明したのだが、おそらく、AI翻訳機能で会話するのの、10倍以上の情報量だったろう。しかもじかに会話する愉しみ、自由もあるわけですから。翻訳機能は便利だが、自分で話せる自由のほうがもっとたのしいはずだ。私は翻訳機能で会話をして楽しいとは思えない。しかし、それは機械の進歩まかせでは到達できない。

かつて、自転車の電気信号変速システムがあらわれたとき、ある出版社のインプレ・ライダーに『人間をダメにする機械だ』という印象を述べた。ホイールなどでも、高価な機材ほど速く走れますから、これは金の勝負にしかならない。

そのお店にいたアメリカの方、『どうして、そんなに英語が出来るのか?』と訊いてきた。答えたのは『亀のこうより、歳のこう』を英訳した。これは入試問題にしてもよいのではないか?

『日本にはこんなsaying(ことわざ)がある。Even a slow-minded (頭の血のめぐりの悪い)カメでも、歳をとるとwise & cleverになるというぜ。年取った日本人が、英語でtalkativeになっても不思議はないさ。』と言った。彼は笑って、『そのancient(古代の)哲学者のようなヒゲも気にいったぜ。』と言われた。『これもwiseなふりをするための重要な小道具だ』。ラリーは続いた。これはスマホまかせだったら続かない。

自動翻訳機などはなかったから、”自由”にしゃべれるように勉強した。完組ホイールがなかったから、自分で自転車のホイールを組むのを勉強した。機械の進歩と言うのは、どうも人間の努力をとめてしまうもののように思えてならない。そこでなくしてしまう自由も大きな損失だろう。


プロフィール

roughton

自然と調和して、自転車の上のEthicalな生活をして、健康長寿。

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