「反生成AIの人へ。あなた、もうAI使ってますよ」— “法以上の自主規制”と、その前にある不都合な現実 —
はじめに
※この記事は一部有料です。
前回・前々回の記事を踏まえた内容になっています。
前回:
👉 「AIは今すぐ規制すべき?」生成AI法整備で見落とされがちな論点
前々回:
👉 生成AIの活用を阻害する「法以上の自主規制」は、日本衰退への道
これまでの記事では、
* 「法以上の自主規制」がイノベーションを阻害する構造
* 予防立法ではなく、判例蓄積を基盤とした現実的な法整備
について整理してきました。
今回はそこから一歩踏み込みます。
「その規制論、自分自身に適用できていますか?」
という問いです。
生成AIは危険だ。
規制すべきだ。
無断学習は許されない。
その主張自体は理解できます。
しかし同時に、
* 同人文化はある程度許容され
* X (Twitter) や Facebook は日常的に使われ
* その上で倫理や規制が語られている
この状況を見ると、どうしてもこう思うのです。
その基準、本当に“原則”で動いていますか?
本稿では、この違和感を「ダブスタ」として切り捨てるのではなく、
構造として分解していきます。
同人・SNS・言論に共通する「選択的な正義」
まず、日本における同人文化から見ていきます。
同人文化は「グレーゾーン」と言われますが、法的にはそれほど曖昧ではありません。
多くの二次創作は著作権法上の「翻案」に該当しうる行為であり、本来は著作権者の許諾が必要です。
実際、ポパイネクタイ事件 でも示された通り、
パロディであっても依拠性が認められれば侵害は成立し得ます。
それでも同人文化が成立している理由は何か。
それはシンプルで、
権利者が権利行使をしていないからです。
* ファン文化としての価値
* 市場拡張への寄与
* 社会的な許容
こうした要素が重なり、「止められていない」状態が続いている。
つまり同人文化は、
制度として守られているのではなく、“お目溢し”によって成立している極めて脆弱な均衡です。
ここには表現の自由の側面もあります。
二次創作は単なるコピーではなく、批評や再解釈として機能してきた歴史もある。
しかし、それでも結論は変わりません。
「権利は絶対」と言いながら同人を肯定するなら、どこかで例外を設定している。
これはすでに、「原則ではなく運用」で判断している状態です。
同じ構造はSNSにも見られます。
Facebook は、
Mark Zuckerberg が学生時代に作った「Facemash」から始まりました。
それは、
女子学生の顔を並べて評価する“品評会”でした。
現在の倫理観であれば明確にアウトでしょう。
しかし、その本質的構造は今も変わっていません。
* 他人の情報を収集し
* 可視化し
* 評価・拡散する
この仕組みは、
* プライバシー侵害やハラスメントの温床にもなり
* 同時に社会問題の告発装置にもなる
という両義性を持っています。
だからこそ、
問題を批判する人ほど、その装置を使わざるを得ない。
さらに、X (Twitter) 上で反米を語る構図も同じです。
これは一見滑稽に見えますが、本質は単純です。
そのプラットフォームが、批判を許容する価値観の上にあるから成立している。
つまり、
批判対象の自由に依存して批判している。
ここまで見てくると共通点は明確です。
人は、
原則で一貫しているのではなく、対象ごとに倫理を調整している。
「AIは使うな」と言いながらAIの上に立つという現実
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