会話

【日章丸事件 小さな勝利が開いた日本とイランの大きな関係】 🚢1953年、イランのアーバーダーン港に日本のタンカーが入港した。一見、ごく普通の貿易活動かに見えたが、実はこれは、後に「日章丸事件」と呼ばれることになる大きな事件だった。 これは、当時、自国の主体性を死守しようとしていたふたつの国の利害が一致した瞬間だった。 イランには、これは政治的な勝利に匹敵した。モハンマド・モサデク首相が石油国有化を行った後、イランは英国の厳しい封鎖に遭い、事実上、自国の石油を販売手段を失っていたからだ。出光興産という買い手の登場は、単純だが極めて重要なことを意味していた。それは、イランは完全な孤立状態にはないこと、そして、前の宗主国が押し付けたルールに従わずに行動する覚悟がある者がいるということだった。 日本にとっても、これはビジネス以上の意味を示していた。確かに、イラン産石油は市場価格より30%安く、有利な取引ではあった。が、ここで踏み出した一歩は小さくても、戦後の日本の精神には重要な、自立への道だった。英国資本のアングロ・イラニアン・オイルカンパニーは裁判を通じて、輸出を封鎖しようとしたが、日本側は頑として譲らなかった。これに一番大きく貢献したのは出光興産社長の出光佐三氏の勇敢さだった。 日本経済がイランをも含め、石油輸入への依存度を高めるにつれ、出光など他の日本企業の利益を政府が公式的に擁護し始めた。日本は西側の「仲介」を廃し、石油の優遇的な買い上げやイランの油田開発についてイラン国営石油会社(NIOC)と直接的に話をつけようと試みた。 こうしたことを背景に1958年、イランのモハンマド・レザー・シャー・パーレビー国王の日本公式訪問までが実現。1960年11月には、皇太子同妃殿下がイランを訪問した。1960年代末には、イラン側が日本に油田開発を提案するまでになる。この道筋を振り返ると、日章丸事件はイランに対する日本の独自外交の端緒となったと言える。この外交路線は1979年、イスラム革命が起きた後でさえ、変わることなく維持された。
日本の石油タンカー「日章丸」と新田辰夫船長
引用
Sputnik 日本
@sputnik_jp
【日本とイラン 危機乗り越え、長年続けてきた友好の歴史】(1/4) 日本とイランは、複雑なイランの対米関係にもかかわらず、何十年にもわたって良好な関係を築いてきた。イランにとっては日本は昔から「東方のパートナー」だった。 x.com/sputnik_jp/sta…
2019年、訪日したイランのロウハニ大統領と握手する安倍首相(いずれも肩書は当時)【Charly Triballeau/Pool Photo via AP, File】
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