そもそもレバノンはどんな国か?
では、イスラエルと激しく対峙するレバノンとは、どんな国家なのでしょうか。
面積は岐阜県と同程度の1万450平方キロメートル、人口は兵庫県とほぼ同じ580万人。フランスの委任統治を経て1943年に独立しました。多くの宗教、宗派が共存する「モザイク国家」として知られています。フランス時代の建築物がたくさん残り、首都ベイルートは「中東のパリ」と呼ばれていました。
レバノンの特徴は、多様な宗教です。イスラム教のスンニ派とシーア派、キリスト教もマロン派、ギリシャ正教、ほかにもドゥルーズ派などさまざま。憲法は18の宗派を公認しています。
独立の際、宗派間で不文律の「協定」が結ばれました。大統領はマロン派、首相はスンニ派、国会議長はシーア派から選出するという内容です。この取り決めは現在も踏襲されています。国会の議席も各宗派に割り当てられています。シーア派のヒズボラ出身の国会議員もいます。
この地域はオスマン帝国時代から宗派間の紛争を抱えてきました。複雑に絡み合う宗派間の利害を調整する仕組みがつくり上げられてきたのです。
しかし1948年にイスラエルが建国されると、土地を追われた大勢のパレスチナ人が難民として隣国レバノンに流入しました。イスラム教徒が増え、キリスト教徒との人口比は逆転しました。イスラム教徒はより公平な権力配分を求め、宗派間の緊張が高まりました。
そして1975年、緊張の糸が切れ、暴力の応酬が始まります。マロン派の民兵組織がパレスチナ人児童の乗るバスを襲撃したのです。それから15年にわたって「レバノン内戦」が続き、各宗派の武装組織が血で血を洗う戦闘をやめませんでした。
その混乱に乗じてレバノンに侵攻したのがイスラエルです。
1982年、「パレスチナ解放機構(PLO)の掃討」を掲げ、首都ベイルートにまで攻め入りました。同年9月には、イスラエル軍が黙認する中、マロン派の民兵組織がベイルート近郊の2つのパレスチナ難民キャンプを襲いました。3日間で少なくとも1000人のパレスチナ人が殺害されました。キャンプの名を取って「サブラ・シャティーラの虐殺」と呼ばれ、パレスチナ難民の悲劇として語り継がれています。
この前後にイスラエルへの抵抗勢力として台頭したのがヒズボラです。1979年にイスラム革命を成し遂げたばかりの国家・イランの支援を受けていました。ヒズボラはイスラエル軍だけでなく、レバノンに駐留していた欧米の部隊も「占領者」とみなし、大規模な自爆攻撃を仕掛けるようになりました。