陶工伝習書

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釉薬

釉薬は陶磁器の素地の上に0.1~0.5mmくらいの厚みで表面をコーティングするガラス状の薄膜であり、その役目は美しく飾ること、丈夫にすることである。装飾性にかかわるものとして、多様な着色、光沢、艶、透明、失透などの諸性質があり、他の材料では得られない独特の見場を与え、耐久性については硬くて傷のつきにくいこと、耐酸・耐アルカリ性にすぐれていること、汚れにくいことなどの特徴がある。


古代のガラスと釉薬

陶磁器の被膜を構成するガラスとは、どれほど前に、どのような成り立ちで誕生したのか定かではないが、古代のメソポタミアかエジプトの船で行き交う人々が休む浜辺や岸で、煮炊きや暖をとる焚火の風除けに囲った岩塩が熱さで溶けて珪砂と反応し、旅立ちの火の跡始末をするときに、キラキラと輝いて現れた事に始まると言われもする。
 古代ガラスについて岡山オリエント美術館のブログでは、画像を参考にその時代と技術を紹介しているが、高温状態で粘性のあるガラスを常温化で意図した形に作る古代の技法は、膨大に費やす時間と手間から作品を生み出しており、現代の作家が捨て忘れた大事なものを思い出させる。


古ガラス

大英博物館蔵の新アッシリア前721-前705年(イラク)の王サルゴンⅡ世の時代に作られた世界最古の透明ガラスとして著名な作品
[アッシリアガラス]
古代エジプトの色ガラス鉢
[エジプトガラス]

アッシリアのガラス壺の画像は、大英博物館所蔵の新アッシリア王サルゴンⅡ世(前721-前705年 イラク)の時代に作られた世界最古の透明ガラスとして著名な作品だが、実は古代のガラスは、その隣のエジプトで作られた古代ガラス鉢の様に、 原料となる砂に金属の不純物が混じっているために不透明で青緑色に着色されたガラスが主であり、ガラスの発明から光を通す無色透明に近いガラスが作られるようになるには、約1500年以上もの長い時の経過が必要だったといえる。
 ガラスは、基本的には液体が固まった無機物質といえるが、後に述べる青い釉薬が施されたエジプト・ファイアンスに見られるように、現在の陶磁器に施されている釉薬もガラス質であり、有機物質の陶器の肌にガラス質で被膜するものだ。今あるガラス器や陶磁器が宝玉に見紛う程に造られたかどうか、その答えは、その後のガラス器と施釉陶磁器の発展上に残された多くの美しい器が証しており、色が鮮やかで美しいガラスと釉薬の進歩が多くの人々の社会生活を彩りのあるより豊かな世界に変えたのは確かだ。


古代の釉薬

古代メソポタミアで聖なる青い石として珍重されたラピスラズリは、遠くアフガンからもたらされる宝石であったことが粘土板文書や古代エジプトの文献から明らかになっており、ガラスが発明されると、人々を古より魅了してきた宝玉を権力と富の象徴として造り出す試みを抱くようになったと考えられる。

古代エジプトでトルコ石を模した護符形ファイアンスと古代エジプトのタイル
[ファイアンスと古タイル]
 青い聖なる宝石への憧れはガラスの技法を高度に進化させ、長い時間の末に様々な色彩の天然宝石を色ガラスで造る技術に結びつくが、聖なる青い石のラピスラズリでは、耐火性のある石の上に、珪砂や石英の粉末を主原料に天然熔剤のナトロンを加えた低火度の青釉を施して再現している。
 この様な紀元前4000年頃の古代エジプトで始められた初期釉薬は、王家が独占する宝石を生み出す秘法として宮殿内のガラス工房で造られており、ナトリウムと銅からなる青い色の釉薬は、滑石などの石に施釉して焼いたのが始まりと伝えられ、その後の王朝時代には、石の代わりに可塑性の乏しい土で型を取った成形品に青釉を施し、左の画像に示した「エジプト・ファイアンス」(エジプトの焼き物)と呼ばれる装身具や副葬品を作り出すまでになり、また王墓の壁面を飾った「最古のタイル」は、約4650年前にエジプト古王国時代の「階段ピラミッド」の地下にあったもので、製法を調べると、エジプト・ファイアンスと同じ技術で作られたものと考えられている。(エジプト最古のタイルや古代ガラスについては「INAXライブミュージアム」の掲載記事や図画を参照している)


古代釉薬の推移

ペルシャブルー

14世紀頃の古ペルシャ青釉鉢
古ペルシャ青釉鉢

左の図は、12世紀末から13世紀初頭イラン中部で焼かれたペルシャ青釉鉢だ。ペルシャの政治圏、文化圏に含まれるメソポタミア地域のイスラム時代になると、このような青釉は、代表的な釉薬として様々な形で広がり、アルカリ系トルコ青釉を施した単色の陶器は、ペルシャ陶器と総称するようになる。
 この時代はユーラシア大陸の東西文明圏の文物交流が盛んに行われ、ペルシャに大量に輸入される中国の青磁、白磁は、ペルシャ陶器の装飾と器形に大きな影響を与え、同時にペルシャ陶器のデザインや青釉は、中国の元時代の染付に反映され、ペルシャのトルコアーズ青釉の技法は孔雀釉を生み、その後の三彩陶に繋がっている。


唐三彩とマヨルカ

右画像は鳥をイスラム風に描いた皿。オルヴィエート産。1270年-1330年ごろ。ヴィクトリア&アルバート博物館・左は東京国立博物館蔵の唐三彩
[マヨリカ鳥紋皿と唐三彩]

800℃前後で溶融する低火度釉薬の始まりは、先に挙げた古代タイルの釉原料に示した天然のソーダ(ナトロン)と珪酸鉱物より成るアルカリ釉とペルシャ陶器に施された鉛釉の二通りが用いられている。
 アルカリ釉は、銅を添加することでトルコの青釉が生まれ、また、錫が添加されてイタリアでは左の画像のマヨルカ(マジョリカ)陶器が生まれ進展している。
 鉛釉によるペルシャの青釉技術は、紀元6世紀ごろの中国北斉時代に早くも三彩の前身となる施釉陶器が作られるが、紀元十世紀から十三世紀初頭に銅を添加することで漢の緑釉が安定して作られ、それは唐、宋の時代に、赤、緑、白の三種の色釉が焼成で混ざり溶けた模様を装飾とした唐三彩へと引き継がれている。


原始青磁

18世紀、秦時代の灰陶彩文壷 商代晩期に作られた白陶双耳壺
白陶高台鉢と灰陶彩文壷

イスラムの文物と影響しあった古代中国の釉薬をみてみると、今から約3500年前に、土器の焼成時に燃料となる木の灰が溶けた自然釉を発端として、最古の釉薬となる灰釉が施された灰釉陶が多く作られている。
 中国で窯の焼成温度が1200℃以上で焼かれていたことを示す灰釉ができたのは夏時代といわれているが、この灰釉は長い時間を要して施釉するに適した胎土原料となる白素地を手に入れ、さらに灰釉に他成分を加えて安定させた釉薬の開発が合致することで、青磁の端緒を掴むことにつながり、次代の灰陶(かいとう)と呼ばれる青銅器を写した高火度還元焼成の灰褐色の陶器が作られている。
 商時代晩期になると安定した高温焼成の窯と原料土、釉薬が改良され、左に示した画像の白陶雲雷紋彫刻高台鉢(河南省安陽県出土)の様に素地に鉄分のない白陶が生まれ、この白く硬い素地は西周時代に作られる原始青磁壺の胎土を構成したといわれる。


西周時代の原始青磁壺
原始青磁壺

陶磁器の研究をされている関口広次さんが、東洋陶磁学会三十周年記念として出版した「東洋陶磁史」の第Ⅰ章、中国陶磁の項に、「原始青磁と青磁」の表題で寄稿しているが、この原始青磁に関する論考によると、「原始青磁とは胎土に後のカオリン質に近い原料を使用し、器面に青緑色、青黄色あるいは灰青色、黄褐色などの色合いを呈した灰釉を施した焼き物である。青磁の技術的な出発点がここにあるとの見方から、「原始青磁」との名称も付されているのである。1200℃以上の高温で焼成された、高温度釉陶の始まりであり、また磁器の起源を示すものでもあって、陶磁史上きわめて重要な焼き物である」と述べ、灰釉成立後の革命的展開を示している。詳細は関口広次さんの論考を読まれたい。


初期青磁

後漢越州窯の青磁壺
[青磁印文四耳壺]

古代ガラスの道程に似て、灰釉に始まった中国古代の釉薬は、低火度から高火度焼成が可能な窯へ改良されると共に、透明釉と白素地にたどり着いて青磁から白磁へと進化し、更に、その白磁に色釉が掻き分けられた彩釉陶磁器や下地に絵図を描いた染付に至る道筋を知ることができる。
 ただし、低火度焼成の灰釉は灰釉陶であり、高火度焼成の灰釉でも素地と灰釉調合の改良が明らかなものを原始青磁と呼ぶようで、その境界は、あまりはっきりとしていないのが現状のようだ。
 左図の後漢時代に越州窯で焼かれたという青磁印文四耳壺(大阪市立東洋陶磁美術館所蔵)の釉薬は、薄く均一な透明感のある施釉がされており、灰釉陶から原始青磁への長い試行錯誤を終えて、青磁釉として確立してゆく先駆けの青磁壺といえるのではないか。


古代の釉原料

珪砂や石英の粉末に天然熔剤を加えて低火度釉を造った古代の釉薬原料は、採掘道具や運搬手段を人力か家畜に頼る事から、物理的に生産工房に近い場所で初期に作られた釉薬原料は採取されている。


天然熔剤のナトロン

天然溶材として古代タイルに使われた鉱物のナトロンは、生産地域内で原料供給がされていた「トロナ鉱石」と呼ばれる天然のセスキ炭酸ソーダナトロン(natron)を指している。
 主成分は、炭酸ナトリウム水和物(Na2CO3·10H2O)と約17%の炭酸水素ナトリウム(NaHCO3、重曹)で構成される鉱物だ。現在のナトロン産出国はエジプトを初め、ケニア、南アフリカ、アメリカ、メキシコ、ペルーなど広く60ヶ所以上に及んで産出されている。
 鉛釉の代表するペルシャ陶器については、総合研究大学院大学の論考「初期および中期ラスター彩陶器白色釉薬の化学組成」PDFの論考でアルカリ鉛釉であることが分析され、その原料も陶器生産に近い域内で埋蔵されており、生産現場と原料供給が狭い地域内で収まっている。


カオリンの発見

下の青白磁刻花蓮花文碗は南宋時代の12~13世紀に景徳鎮窯で造られたものだが、素材となるカオリンの発見は、その後の陶磁器発達に原料として大きな役割を担っており、その初期採掘状況を今少しだけ記述する。

南宋時代の12~13世紀に景徳鎮窯で造られた青白磁刻花蓮花文碗
[青白磁刻花蓮花文碗]
 釉薬原料として大事なカオリンの採掘初期の状態は、中国を代表する景徳鎮窯の磁器原料を現地調査で記された、産総研地質調査総合センターの地質ニュース「中国景徳鎮の磁器原料(2)カオリン」PDFの報告書に、「かっては景徳鎮周辺の概ね30km以内の高嶺村や浮梁県にカオリンが豊富に賦存し、これを利用して磁器産業が興り発展してきた」と初期生産時には近場の原料を用いていた事を述べている。
 現在の採掘は江西省北東部全域にうつり、古来採掘され続けた鉱山は枯渇状態となっているが、いずれの中国産カオリンも絹雲母と石英からなる粘性に乏しい瓷石(じいし)と呼ばれる鉱物で、日本の単体で磁器原料となっている陶石と成分性質は異なり、溶融点も高く単体では磁土とならないため、磁化を促進する溶融原料を加えて日本の陶石に相当する溶融温度に調整し磁土として用いる。この瓷石についての報告が、同じように地質ニュース「中国景徳鎮の磁器原料(1)瓷石」PDFで記されているので、参照されたい。また、現在カオリンの産出は世界規模でなされ、日本に輸入される供給国も中国以外に広がリ、その性質も異なるので、使用には注意が必要だ。


日本の釉薬

低火度釉

奈良三彩・愛知県陶磁器資料館蔵
[奈良三彩壺]

奈良・平安時代は多くの大陸文化が伝播されたが、平城京(767年)の東院玉殿の建築に際する技術移転に於いて、関連する付帯技術として瑠璃瓦が初めて焼かれたと伝えられ、その瓦窯跡の発掘調査では、古瓦の出土をはじめ、緑釉、三彩釉、灰釉なども一緒に採取されて、7世紀後半より中国や朝鮮半島からの渡来物、もしくは技術導入で製作されたものと裏付けされる。
 中国より伝わる彩釉の三彩や緑釉は日本では青瓷(あおし)と呼ばれ珍重されたが、技術者の招来により左図の奈良三彩の誕生に至リ、その鉛釉技法は後に低火度釉の楽焼を生む基礎となり、さらに高火度釉の発色添加材として影響を与えている。


高火度釉

猿投灰釉長頸壺
[猿投灰釉長頸壺]

日本における独自の釉薬は、低火度の土器から高火度焼成に移った灰釉から始まる。それは、朝鮮半島から5世紀半ばに伝えられた須恵器の技術を取り入れた窯の構造改革を含め、当時の高度技術を結集して大陸から舶来する青磁の国産化を初めて企図した過程で生まれたもので、大阪府の陶邑窯跡群、愛知県の猿投古窯址群などの8世紀後半の遺跡から発掘された、高火度焼成による灰白色に焼き締まった白瓷(しらし)と呼ばれる施釉陶器で明らかだ。
 大陸から伝播する技術で日本の焼き物は進展するが、それは古代の中東地域で誕生した低火度釉と古代中国の高火度釉の技術が、海に囲まれた東の果ての日本の文化と混載し、陶邑や猿投の高火度灰釉は中国や朝鮮の高火度釉の影響の基、鉄を添加した黄瀬戸、銅を添加した織部、長石類を主体にした志野など幾種類かの色彩を帯びた独特の陶磁器を発達させたといえる。


江戸期の釉薬

貴族社会から武家社会へと変遷する日本社会で、中国大陸や朝鮮半島からの文化と技術伝播は、文禄慶長の役で朝鮮半島から連れて来られた陶工達によってカオリン質の陶土が発見され、磁器生産の先進的な技術がもたらされた大きな変革を最後に、江戸時代に入ると鎖国政策で大陸文化は制限された流入となる。しかし、奈良三彩に見られる大陸からの様々な技術と多彩な色釉は、以降に生まれた交趾焼や楽焼などの低火度釉ばかりか、基本となる高火度の透明釉や色釉の誕生にも影響を与え、安定した江戸期には、それまでに培った技術と融合し、さらに鉱物顔料による彩色技術が進み多種類の釉薬を派生させた完成度の高い陶磁器に発展させている。

桃山期の黄瀬戸ドラ鉢
[黄瀬戸銅鑼鉢]
古織部の蓋物
[織部蓋物]
古志野向附
[志野向付]
古伊万里柳絵茶碗
[古伊万里柳碗]

 安定した政治経済は国民生活を豊かにし文化芸術の花を咲かせる。陶磁器も生活器具を安価で大量に供給させる能力を付けるが、工芸品としての色絵磁器や京焼などの高級品の多くは、デザインと釉薬が織りなす完成度の高い作品として、朝鮮や中国大陸から欧州に渡り珍重され、後の江戸末期から明治初期の外貨を得る重要産品になっている。
 このような初期の陶磁器は、生産現場近隣の窯業原料を以て成り立っているものの、藩財政が窮迫を始める江戸中期から後期に殖産事業として乱立する地方窯業の成立には、窯業原料に恵まれた猿投や瀬戸、美濃地方から、陸路や海路の運送も整備され、遠距離の原料供給が容易になり、先進地の技術指導を受けて多くの窯ができている。
 しかし、一般社会が必要とする生活雑貨の価格競争は、地方で産出される安価な原料を素地原料や釉薬の原料として利用工夫して開発する基となり、それまで使われなかった地方原料の釉薬が発見され、磁器は染付を主体に、陶器は灰釉を主体に地域特有の陶磁器を作り上げている。これらの全国に拡散した国焼きと呼ばれる窯場は幕藩体制の崩壊と共に大多数は民窯に縮小され、明治時代を迎えて欧州の窯業技術が入ることになる。


近代の釉薬

近世欧州の国々による「地理上の発見」もしくは、「大発見時代」といわれ、日本では「大航海時代」と区分される歴史は、17世紀中ごろまでに終焉を迎える。侵略的発見と産業革命と宗教改革に彩られ、とりわけ植民地として侵略された国々からの膨大な富と資源を基に、欧州は、いち早く近代化を達成し、驚異的な発展を遂げて世界に覇を唱えたが、そこには、文化技術の面でも同じく、侵略された国々の多くの技術や知識も包括されている。


柿右衛門の色絵草花文皿 マイセン写しの柿右衛門色絵草花文皿
[色絵柿右衛門草花文皿とマイセン写し]

このような17世紀欧州の国々で、中国や日本の磁器は、「白い黄金」として王侯貴族にもてはやされ、その製法を競い原料と共に移入に努め研究された結果、1708年にドイツのヨハン・フリードリッヒ・ベドガー(Johan Bottger)によって製法が確立されている。
 1709年にドイツ東部のマイセンでカオリン鉱床が発見されると、翌1710年には、欧州初の硬質なマイセン磁器を誕生させ、続けて、フランスでも1768年にカオリン鉱床をリモージュ(Limoges)近郊において発見し、1770年からはセーヴルで硬質磁器を生産している。


セーヴル窯、竹透かし彫ティーセット
[セーヴル窯、竹透かし彫ティーセット]

日本が1878年(明治11年)のパリ万国博覧会に出品した美術工芸品の影響は、19世紀後半の異国的要素を熱狂的に受け入れたフランスを中心として、欧州にジャポニスムの流行が起こり、中でも大量の陶磁器が明治政府の外貨獲得の重要な品目でもあり輸出されている。
 しかし、欧州における錬金術的な化学分析から始まる近代科学の芽生えは、合理的な技術開発を進めて同時期の産業革命の端緒となるが、取り分け欧州で作れない黄金の値打ちがある陶磁器生産に大きく影響し、それまで模倣品の域を出ない軟質磁器から、東洋の専売であった有田の柿右エ門や景徳珍に似た硬質磁器を欧州にもたらした。
 18世紀末には、ジャポニスムの流行も下火になり、開発されたマイセン磁器やセーヴル磁器などの西洋磁器が完成度を高め、その品質が市場で支持されると、欧州に流入していた東洋陶磁器を市場から押し出すことになった。(ジャポニスムについては今井祐子さんが神戸大学表現文化研究会に「19世紀後半のフランスにおける日本陶磁器コレクションの形成」PDFの研究論文があり参照されたい)


オールドノリタケディナーセット「SEDAN(セダン)」(1914-1921年)
[オールドノリタケディナーセット]

西洋が近代科学を基に産業革命を開き、その合理的な技術開発は欧州の文化を背景にした斬新なデザインと高い完成度で模倣から脱却した西洋磁器を誕生させ、かって欧州の人々が羨望した東洋陶磁器を作り上げた人々は明治11年のパリ万国博覧会に於ける西洋磁器の完成度に衝撃と驚嘆を受けている。
 日本における明治期初年は、その様な近代科学で補完された西洋磁器の美しさに惹かれ、革新的な陶磁器の生産技術の導入は時代の求める急務とされるようになる。
 現在の高級洋食器を手掛けるノリタケの社史「ノリタケのあゆみ」には、『1889年(明治22年)に、パリで開催された万国博覧会を視察した森村市左衛門らは、美しく精緻に画付けされたヨーロッパ製の磁器に目を見張り、「この美しい磁器を日本で作りたい」という思いを強くしました。その8年後、最新技術を学ぶため技術者をヨーロッパに派遣し、国産原料を使った白色硬質磁器への挑戦が始まります』と記され、その後、近代的な設備を備えた大工場を建設し、長い試行錯誤を経て、10年後の1914年(大正3年)に左図に見られる日本初のディナーセット「SEDAN(セダン)」を完成させている。


モダニズム以降の釉薬

日本が初のディナーセットを完成させた19世紀前後の欧米に於ける近代化の展開は、植民地からの潤沢な利益と科学技術の産業力を背景に、アメリカの独立やフランス革命にみられる市民革命などの政治経済への影響に留まらず、20世紀初頭にはフランスを中心にモダニズム(近代主義)と云われる、絵画、彫刻、工芸、建築などの過去の様式に捉われない、総合的な芸術運動に波及している。

バウハウスのカリキュラム図
[バウハウス カリキュラム]
 欧州におけるモダニズムの大きな時代の波を象徴する存在に「芸術の総合作品は建築である」との持論の建築家ヴァルター・グロピウスが学長となる、「バウハウス」(Bauhaus1919年設立)があり、その教育目標は、建築を構成するあらゆる造形との調和のために、左の教育カリキュラム図で示された、さまざまな形態の芸術と実用としての工芸の見直しを促す総合的な教育を行った。
 基礎教育(形態教育)は半年、実技教育は3年履修の実践的な教育機関だが、その中心的な教育傾向は工業デザインや大量生産に合致する合理主義・機能主義で行われ、ナチスにより1933年に閉ざされる14年間の短期活動であったが、教えられた思想と実証的な文化芸術は、広く後世に影響を残している。
 現代では、その人間中心、進歩主義、産業中心、画一化などの指導が批判対象とされることもあるが、芸術に科学的な合理性で捉える視野を持たせた意義は大きく、20世紀以降の広い芸術領域の造形活動に大きな影響を与え、且つ先進的な作品を生む基礎を造ったといえる。
 近代科学の技術を取り入れた陶磁器は、様々な素地や釉薬を作りだすことで、陶磁器の利用領域を、単なる器や生活道具から建築装飾、機械・工作素材、そして抽象的な造形の表現素材として革新的な展開を見せ、外の様々に開発される素材に影響され、時と共に変わり続ける社会に於いて、新たな思考方法による造形世界を生んでいる。


現代の釉薬

現代の釉薬の役割は陶磁器素材に限らず、異なる素材の表面処理として活用分野を拡げ、その用いられ方は多種多様と言える。ただ、商工業的な意味合いから離れ、個人が陶磁器で芸術表現した近代の作品を観ると、人々に感銘と夢を与える造形に果たす釉薬の役割は大きい。

「ピンク線文鉢」(1980年)
[ピンク線文鉢]
 陶磁器を素材とした造形世界の展開は、1975年当時の現代を対象にした鈴木 健二(著)「ファンタジーとマチエール 現代陶芸の解剖」に詳しいが、あとがきに「現代意識を持つ焼き物はその思想内容、発想の根拠を尋ねなければならない」の一文があり、それは前衛から古典まで常に他者に問われる根拠を作者は有せねばならない事を教えており、また思索を形象化する創造の難しさを伝えている。
 左に示した作品は、単純で繊細な形態に、艶やかなピンクの釉薬で軟らかく包み込んだルーシー・リー(LUCIE RIE)が1980年に製作した鉢だが、この作品形態の様にモダニズム以降に開発された多種多様な釉薬装飾が独自の思索により開発され、それぞれの作家の表現方法を決定する素材となっている。(千葉市美術館が2015年7月に「ルーシー・リー展]PDFを開催し案内パンフレットに同作品も掲載されている。)ユダヤ人の彼女が歩んだ戦前戦後の困難な時代を、現代美術の表現作家として生き抜いた思考が、人々を魅了する作品表現となっていると思われる。


加守田章二の壺
[加茂田章二の彩陶壷]

戦後世界の前衛芸術に触発され、1948年に日本に於いても京都で前衛陶芸団体として走泥社が八木一夫を中心に鈴木治、山田光、叶哲夫、松井美介らの参加で結成され、また荒木高子の聖書シリーズなどに見られる多くの作家が陶磁器を構成する素地と釉薬を造形の表現手段として、思索と発想から広く世界に共有する現代陶芸の作品を発表し後に続くものが創造を継いでいる。
 左の加茂田章二(1933年4月16日-1983年2月26日)の彩陶壷の製作方法は、素焼きした象形作品に耐火泥を塗り石灰釉を掛けて高火度で焼成し、焼成後に表面の施釉泥を剥がして無光沢の「本焼土器」と名付けた状態の仮作品を作り、この仮作品の焼成変化した形と焼色に応じて、表面に上絵の具や泥に顔料を混ぜた彩色泥で装飾を象嵌や筆で描いて焼成を再度行っており、作者の意図した表現を丹念な作業で完成させている。
 製作した加守田章二が1971年の個展会場に於いて、「私は陶器は大変好きです。しかし私の仕事は陶器の本道から完全にはずれています。私の仕事は陶器を作るのではなく陶器を利用しているのです。私の作品は外見は陶器の形をしていますが中身は別のものです。これが私の仕事の方向であり、又私の陶芸個人作家観です」と表示した「私の陶芸観」と題した言葉は、古典も現代も含めた現在進行形の陶芸に求められる一つの認識として受け止めることもできる。
 2015年以降の陶芸は、人種・民族・宗教を混載した時代の変化を胎蔵し、その時々の精神的、物質的な発見を身に纏って人の未来を啓示する、斬新的な表現を創造する方向に進むのだろうか。


あとがき
アマルリック・ワルターのパート・ド・ヴェール手法による蜻蛉ガラス灰皿
[パート・ド・ヴェール]

この項は釉薬のガラス質を知るため古代ガラスから初めたが、その手法が生み出す表現は19世紀末のアール・ヌーボーで復活している。なかでも紀元前1500年頃にメソポタミアやエジプト、シリアなどで使われた、パート・ド・ヴェール(鋳込み硝子)と呼ぶ、粘土型にガラス粉を入れて溶かした工法や、溶けたガラスを押しつけて成型する「型押し法」などの手法は、モダニズム以降の時代を代表する斬新的なガラス工芸を誕生させ、将来に影響を与えている。
 パート・ド・ヴェールの様な古代ガラスは膨大な時間と手数を要して完成されているが、近世の工芸も手間暇掛て作られ、近年の伝統的な窯場の作品が長い年月で培われた技法で成立し、それも工房の抱える分業された多くの職人技術で作品が完成している事は、その様な器は個人が費やすことができない製作時間の上に完成しているのも確かだ。
 創作作業に時間を費やせば意図した表現が作られるわけでないが、それでも単純に繰り返される作業が造り出す表現や幾つもの工程を経て完成する象形は、作家の意識下で行うことで人の感性に訴える造形物に成り得る。
 次の項では、基本的な原材料の特性を示すので、そこから、添えられた産地別の原料名と、その成分表から各々が工夫し、簡単なゼーゲル式や三角座標を補完技術として成分選別する知識を身に付け、名品の産まれた原材料とそれを活かした方法を想像し、合理的な釉薬のテストピースで確認しながら、複合的に原料が反応し、無限にある組み合わせの中から普遍的な美しい自分だけの釉薬を造られたい。


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