【特別インタビュー】大橋太郎さんが語る『マイコンBASICマガジン』の歴史
2026/4/28 RetroPC NEWS編集部
『マイコンBASICマガジン(ベーマガ)』は、1982年に電波新聞社から創刊され、80年代のマイコンブームを牽引したプログラム投稿雑誌です。初代編集長の大橋太郎さんにその心の内を語っていただきました!
大橋太郎さんプロフィール
東海大学文学部広報学科卒。マイコンBASICマガジン(ベーマガ)の初代編集長。読者が投稿したプログラムを掲載するスタイルを確立。多くのプログラマーやゲームクリエイターを世に送り出しました。
電子ホビー入門アドバイザー代表、電波新聞社特任ライター、一般財団法人IchigoJam財団理事。
インタビューには、元ログイン編集長の「高橋ピョン太」さんと、ベーマガのDr.Dとして執筆されていたうちの一人である「7032」さんにもご同席いただきました。
高橋ピョン太さん
プログラマーとして活動し、LOGiN誌の元編集長
7032さん
ベーマガのDr.Dとして執筆されていたうちの一人
――『マイコンBASICマガジン』(ベーマガ)創刊時、「いける」という勝算はあったのでしょうか?
ええ、ありましたね。ベースとなる土壌がすでにあったんです。当時、電波新聞社が出していた『ラジオの製作』は、専門誌の中でもトップの8万部ほど出していました。読者のオーディエンスも、下は小中学生から上はずっと幅広い層がついていましたから。
――すでに「電子工作」を楽しむ下地が日本中にあったわけですね。そこに「マイコン」という新しい風が吹いてきたと。
大きかったのは、二代目社長の平山哲雄さんの存在です。創業者の平山秀雄さんの息子さんで、私より2歳年上。彼はニューヨーク支局を立ち上げたり、CES(Consumer Electronics Show)に日本企業を呼んだりと、日本の電子産業を世界に売り込む最先端を走っていた人でした。
彼が日本に戻ってきたのが、私が入社して4年目くらいの頃です。ニューヨークから帰ってきた二代目社長(平山哲雄氏)は、AppleもゲームもATARIも、完璧にマスターしていたんです。「次はこれだ」という強烈な意識を持って帰ってきた。
――そのトップの確信が、現場の編集者だった大橋さんたちにも伝わったのでしょうか。
そうですね。当時30歳くらいで、私も一端の編集者として動いていました。あるとき先輩の田代さんと二人に、日本マイコンクラブから「マイコン」を雑誌として作ってくれと、二代目社長(平山哲雄氏)から指示がありました。
どっちが担当するかという話になって、結局、田代さんとジャンケンをしたんです(笑)。そこで勝った田代さんが「マイコン」を選んだ。
二人とも秋葉原には入り浸っていましたから、街の熱気を見て「これはもう、いけるだろう」という確信は二人の中に共通してありました。
――ジャンケンで歴史が動いたのですね。しかし、当時のマイコンは今以上に高価なものでしたよね?
ええ。あの頃の日本はお金持ちでした。フルセットを揃えたら50万円なんてザラでしたが、みんな平気で「5年ローン」を組んで買っていた。親自身も欲しがったし、子供にも「これがなきゃこれからの時代は生きられない」と買い与えたんです。50万円という高額な費用を一般家庭が払えたのは、あの時代の日本くらいだったんじゃないかな。
だから、西和彦さんがビル・ゲイツを日本電気(NEC)と結びつけたのは、まさに正解でした。日本にはすでに多くのコンピュータがあったからなんです。
――当時は『ラジオの製作』が絶好調での中で、なぜわざわざ「子供向けのマイコン誌」を新しく作ることになったのですか?
正直、最初は「なんで今さら?」という気持ちもありました。私が担当させていただいた『ラジオの製作』は、ラジカセや無線ブームで月に3,000万円くらい広告が入っていましたし、先輩の田代さん編集の『マイコン』も10万部近く出ていて、月刊アスキーさんや工学社のI/Oさんもいた。
でも、秋葉原の街を見ていればわかるんです。流行り物は全部アキバから始まっていた。「これは何かあるはずだ」と。それで、半年のテスト期間に『ラジオの製作』に『マイコンBASICマガジン』 の付録をつけました。最初は得意なモールス符号の自動送受信とか、家庭で役立つタイマーのプログラムとかを載せていたんですが…。
そこで悩んで、仲の良かったCQハドソン(後のハドソン、現コナミ)の工藤裕司さんに相談したんです。彼とは歳も同じでね。
そうしたら彼が即座に「ゲームだよ」って言うんです。私は「えっ、なんで俺がゲームなんかやらなきゃいけないんだ?」と聞き返しましたよ(笑)。
――当時の大橋さんにとって、ゲームはまだ未知の領域だった。
そう。でも工藤さんは、北海道大学の学生たちが持ち込んできた自作ソフトを見せてこう言ったんです。「マイコンも、ソフトがなければただの箱なんだよ」って。
当時、ハドソンで一番安いソフトでも3,800円、今なら1万円くらいの感覚です。
それが売れすぎて、工藤さんが徹夜で全国から届く現金書留を開封し、ゲームソフトを発送するほどの大ブームでした。
さらに工藤さんに「少年少女向けの雑誌を作るにはどうすればいい?」と聞いたら、答えはシンプルでした。「ゲーム。それも、作った人のプログラムを募集して集めればいい。テープを送ってもらうんだよ」と。
――それが「投稿プログラム掲載」というエポックメイキングな手法の始まりだった。
「マイコンBASICマガジン」という名前、「BASIC」…いい名前だなあと自分で決めて(笑)。「マイコン」の看板も借りました。
すべてのメーカーの機種とプリンターを揃えて準備しました。工藤さんからは「太郎ちゃんが面白いと思ったものを載せろ。年齢は関係ない。面白くないものは載せない。」と言われてね。そこから始まったんです。
だんだん、私自身がのめり込んでいきました。
――投稿作品の選定基準は、やはり「面白いかどうか」だったのでしょうか?
雑誌が浸透してくると、投稿してくる小中高生と同じくらいの目線を持った若者たちが、「自分の方がもっといいものを書けるぞ」って売り込みに来るようになるんです。
投稿の数はすごかったですよ。月に3,000本、下手すると5,000本届きました。毎日、段ボール箱が何箱も積み上がる。そこでどんどんノウハウが蓄積されていきました。
――当時の他誌、例えば『I/O』や『アスキー』などは、マシン語を駆使した数十ページに及ぶ長大なリストを載せていた印象があります。
だから私たちは、ハドソンの工藤さんや応援してくれる人たちと相談して「プログラムは短ければ短いほどいい」と決めました。
実は、読者のほとんどが自分専用のマイコンを持っていないことを知ったからなんです。「ナイコン」ですね。
子供たちは、電気屋さんの店頭にある展示機を使っていたんですよ。そこでプログラムを打ち込んで、お店の人に頼んでテープに保存させてもらって、それを送ってくる。
だから、読者がパソコンを持っていないことを前提に誌面を作っていたんです。短いリストなら、店頭でも打ち切れますからね。
(マイコンBASICマガジン 1983/3より編集部加工)
――送られてくるカセットテープにも、当時の子供たちの事情が透けて見えたとか。
テープ自体が高価でしたから、送られてきたカセットテープは元が演歌のテープなんです(笑)。おじいちゃんやおばあちゃんの演歌テープを上書きして、自分のプログラムを入れて送ってくる。流行歌じゃなくて演歌というのが、またリアルでした。
――その熱狂が、編集部をパンクさせたそうですね。
もう、社長室長から悲鳴が上がりましたよ。すべての手紙や荷物をチェックしなきゃいけない決まりでしたから1日に何百通も届く。このスタッフの人数じゃ到底さばききれない、どうにかしてくれと。
当時の媒体資料(編集部加工)
当時の媒体資料。ベーマガの販売部数は1年で2倍に拡大するが、
読者の6割がパソコンを持っていないこともわかる。
――誌面に掲載されたプログラムについて、読者から「動かない!」という問い合わせが来ることもあったかと思います。当時はどのように対応されていたのですか?
ありましたね。電波新聞社は新聞社ですから、基本的に24時間、誰かしらスタッフが社内にいるんです。それもあってか、「動かないんだけど!」という電話が毎晩かかってきましたよ。
1日に20本くらいはかかってきていたかな。深夜に電話してくる人もいましたから、中には対応に困るスタッフもいて「昼間にしてね」と断ることもありました。
でも、私は「編集部に直接来てもいいよ」と言っていましたし、自分が当直の時は、かかってきた一本一本に親切に教えていました。
私自身は、それが苦ではなかったんです。だって、その電話でのアドバイス一つで、その子の人生や一生が変わるかもしれないじゃないですか。
――編集部には当時、かなりの数の実機が並んでいたと伺いました。
ええ、50機種、70台のマシンがずらっと並んでいましたね。及川さん(編さん、二代目編集長となります)やアルバイトの人たちがズラリと座って、その前にマシンが並んでいる光景は圧巻でした。
――移植開発の「マイコンソフト」も動き出しますね。きっかけは何だったのでしょうか?
これも二代目社長(平山哲雄氏)がきっかけです。あの人は本当に先見の明がありました。
当時、昼休みに必ずゲームセンターに行っていたんですよ。あんな中年、当時は一人もいませんでした(笑)。
ある日、私のデスクに100円玉を富士山みたいに高く積んで、こう言うんです。「これは業務命令だ、今からゲームセンターへ行ってくれ」と。
――業務命令でゲーセンへ(笑)。一人で行かれたのですか?
さすがに一人では心細くてね。ライターの梶原さん(後にTBSの技術部長になられた方です)を誘って二人で行きましたよ。
二代目社長(平山哲雄氏)は「なぜ日本でこれほどパックマンが流行っているんだ?」と、その可能性を確信していたんですね。
当時の日本はゲームの著作権の意識が低く、すべて無許諾でした。それでナムコさんから15タイトルのライセンスをまとめて買ってきてしまった。
「はい、これで作ってください。資本はこれだけかかっていますから」と。
開発先には資料もなく、お願いすると「基板は売ってるからそれをみて作ってね…」という世界でした。(笑)
――まさに「目コピー」の世界ですね。そこからどうやって開発チームを作ったのでしょう。
ちょうどその頃、藤岡忠さんと道浦忍さんが入ってきてくれて。地下室に「マイコン開発室」を作りました。そこに行けば最新のゲームが遊べるもんだから、始業前に行ってゲームをする人もいました(笑)。その熱気が今の「マイコンソフト」の原点なんです。
創業者の意向もあったのか、ミュージックラボ、マイコンソフト、ベーマガ編集部は、何かあるとすぐに地下へ追いやられていたんです。最終的には7階に上がりました。その頃にはもう、社内で誰も文句は言わせない。一番稼いでいましたからね。「マイコンルーム」も作ってもらいました。
フロアの3分の1くらいを仕切ってマイコンソフトが開発をしていて、中に入ると青少年ばかり。ハードに強い断空我(だんくうが)さんや、ツールを作る人たちもいて、彼らとの交流から次々と優秀なソフトが生まれました。
――特に衝撃的だった出会いはありますか?
古代祐三(YK-2)さんや永田英哉(Yu-You)さんのような超天才たちが来てくれたことですね。一気にレベルが上がりました。面白いのは、天才が現れると、同レベルの人がどんどん集まってくるんです。
そこで私は「原稿はわかりやすく書くんだよ、難しい言葉は使っちゃダメ。どうしてもダメなら俺が直すから」と伝えて、どんどん自由にやってもらいました。
流行り廃りがものすごく早い世界ですから、「ここで終わりじゃない、次がある」ということは常に意識させていましたね。
「ラジオの製作」で多くのことを学ばせていただきました。ベーマガでも当時の筆者のみなさまのサポートをいただきました。
「ベーマガ」がソフトウエアを取り入れたのは、山下章先生をはじめ、「軍団」のみなさまのおかげですね。
――誌面の構成も、読者の声をシビアに反映されていたそうですね。
読者アンケートは全部読んで、人気順に並べました。漫画誌と同じ手法です。下位の2つは毎月入れ替えて、期待の新人枠をそこに割り当てる。
でも、持ち込みや提案に対して「No」と言ったことは一度もありません。彼らの方が私より絶対優れているし、こちらの興味をそそるプレゼンをしてくれたら、もう即決ですよ。
――大堀康祐(うる星あんず)さんのハイスコアランキングも、そうした流れだったのでしょうか?
彼はハイスコアランキングをやりたいがために、電波新聞社に近づいてきたんです(笑)。今ならわかります。私は当時『ゼビウス』を移植したかったから彼を雇ったんですが、その話も即決でした。
当時はまだゲームセンターが「不良の溜まり場」なんて言われていた時代でしたが、私はトップに相談せず事後報告で進めました。
二代目社長(平山哲雄氏)がゲームファンだったのが大きかった。
「ゲームは映画に次ぐ新しい芸術であり、テクノロジー開発の原動力だ」と理解していましたから。
――『ベーマガ』や『マイコン』という雑誌を通じて、電波新聞社はNECや富士通といった電機メーカーとも密接な関係にありましたが、やはり当時から特別な繋がりがあったのでしょうか?
電波新聞社が生まれたのは、日本の電機業界が戦後、復興に向けて立ち上がった時期と同じなんです。業界と共に歩み、共に成長してきたという歴史がありますから、当時のメーカー各社とはものすごい絆で結ばれていました。
面白いエピソードがあります。当時の電波新聞社のビル、その1階と2階には富士通さんの電算機センターが入っていたんですよ。
しかもそこは、どこのメーカーの人が来ても、富士通のコンピュータを使って計算ができるようになっていました。
※「コンピュータ・サロン」コンピュータ専門ライブラリでもあり、マニュアル、コンピュータ関連雑誌も置いていた。
――最後に、今の大橋さんを突き動かしているものは何でしょうか。
「自分が夢中になっていることを、一人でも多くの人に教えたい」という気持ち。
これは、あの頃も今も、全く変わっていません。
校正・校閲協力:大橋太郎さん、高橋ピョン太さん、7032さん
参考
- 電波新聞社
- マイコンBASICマガジン(Wikipedia)
- 大橋太郎さん (Wikipedia)
- 大橋太郎さん (X.com)
- 一橋大学、大橋太郎第一回インタビュー前半
- 一橋大学、大橋太郎第一回インタビュー後半