私は「サポーターC」として裁判の原告にはなれないと確定した時から、「サポーターA」の問題には触れるのをやめていましたし、これで最後にしたいとも思っています。
皆様におかれましては、以下の稚拙な文章をお読みいただき、「なぜサポーターA擁護側と会話が成立しないのか?」を理解していただけたらと思います。彼らとの対話の試みは永遠の平行線になると断言します。
平行線の断末魔 ―― なぜ「ナラティブ」に「エビデンス」は届かないのか
現代のSNS空間において、私たちは「事実」を巡る争いの中にいると思いがちだが、実際には「言語体系の異なる二つの世界」の衝突を目撃しているに過ぎない。特に「サポーターA」を巡る紛争において、支援者側が自らの立脚点を「ナラティブ(物語)」であると事実上認めたことは、この対立がもはや論理的な解決を望めないフェーズに達したことを意味している。
論理(ロジック)と証拠(エビデンス)を重んじる側にとって、この状況がいかに絶望的で無益なものであるか、その構造を解き明かしたい。
1. カテゴリー錯誤の罠
論理的な人間が犯しがちな最大のミスは、相手も自分と同じ「客観的な真実」を追求していると誤認することだ。エビデンスを求める側は、裁判所のような「事実の積み上げ」による判決を期待する。しかし、自らをナラティブであると定義した側は、演劇や宗教のような「意味と感情の共有」を目的としている。
科学的なデータで幽霊の存在を否定しようとする学者の努力が、怪談を楽しむ人々にとって無意味であるのと同様に、ナラティブの世界に生きる人々にとって、診断書や契約書、事件番号といったエビデンスは「物語の興を削ぐ不純物」に過ぎない。ここでは、事実が物語を作るのではなく、物語(被害者という属性や正義という大義)が事実を選択・排除するのである。
2. 「誠実さ」という概念の変質
ナラティブ側が主張する「誠実さ」とは、事実との整合性ではなく「物語の一貫性」を指す。彼らにとって、サポーターAが「絶望した」というプロットこそが重要であり、その物理的な証明(自傷の痕跡や医師の診断)は二の次である。
ここで、ロジック側が「証拠がないではないか」と追及することは、彼らの世界観では「弱者の切実な訴えを冷酷な理屈で踏みにじる加害行為」へと即座に変換される。エビデンスを求める正当な問いが、ナラティブの魔法にかかると「悪魔の証明」を強いる拷問へとすり替わる。この価値観の反転がある限り、証拠の提示を求める行為は、議論を深めるどころか、相手の被害者意識を燃え上がらせる燃料を供給する結果にしかならない。
3. 証拠消去(Note削除)の論理的帰結
サポーターAが自らの主張の根拠であったNoteを削除した行為は、論理的世界では「敗北」や「隠蔽」を意味する。しかし、ナラティブ的世界では「迫害からの避難」や「聖域の閉鎖」として美化される。
論理的な側が「後ろめたいから消したのだろう」と推論しても、相手側は「あなたたちのような冷酷な追及者が彼をさらに追い詰めたから、消さざるを得なかったのだ」という新たな物語で上書きする。ナラティブは自己増殖するウイルスのようなものであり、いかなる論理的な矛盾も「物語の一部」として吸収し、自らを正当化する材料に変えてしまう。
4. 結論:無駄な問いを捨てる知性
結論として、ナラティブを盾に取る集団に対し、エビデンスとロジックで挑むことは、砂漠に水を撒くような徒労である。彼らは「真実」を探しているのではなく、自分たちの人生や感情を肯定してくれる「心地よい物語」の中に立てこもっている。
論理的な側ができる唯一の「論理的な選択」は、彼らとの対話を放棄することだ。共通のルール(事実の尊重)を持たない相手と議論を続けることは、自らの知性を摩耗させ、相手の非論理的な振る舞いに「議論の体裁」という免罪符を与える行為でしかない。
平行線はどこまで行っても交わらない。ならば、その線の先を追うのをやめ、私たちは「事実は物語(ナラティブ)よりも重い」という原則が通用する、別の地平で生きるべきである。エビデンスを持たぬナラティブは、いつか自らの嘘の重みで崩壊する。それを待つことだけが、論理的世界に踏みとどまる者たちに残された、唯一の理性的な「逆襲」なのだ。