北斗の拳の良さを語りたい | 北斗の拳好きすぎるブログ

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北斗の拳を心から敬愛するブログ。

たまに他のアニメも語っちゃいます。

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最近、少しだけ心理学に興味を持ち、色んな人のブログや本を読んでいてあることに気付いた。


北斗の拳ってすごいな。


ということで、北斗の拳に対するもう全ての感情をここにぶつけたいと思います。

全くまとまりのない記事になると思うけど。





※自粛期間中に見た好きなワンシーン



まず、なんと言ってもそのストーリーだが、これはもう原作者である武論尊氏を崇め奉りたい気持ちでいっぱいである。

武論尊氏曰く、北斗の拳という漫画は後付けに後付けを重ね完成した作品で、ラオウ死後は記憶にないほど大変だったのだそう。

天才とはこういうことなのだろう。

「それでこれ?完成度たけーなオイ」である。


しかも後付けとなると、たとえば“ラオウとトキの生まれ育った場所”のようにどうしても多少の矛盾が生まれるのだが、勝手な考察や解釈で何故かうまいこと謎解きが出来てしまうのがまた凄い。

後付けの割にキャラもストーリーもブレないどころか、寧ろ北斗ファンの北斗愛で更に深みが増し、勝手に伏線貼ったり回収したりと無限に楽しめる所も良き。

私の場合あまり頭が良くないので、蒼天の拳を混ぜてしまうとちょっとしたパニックとなるのでやらないが、いつか賢くなって「混ぜるな危険」に挑戦したい願望がある。

こうして『北斗の拳』という作品は、無限に私たち北斗ファンを楽しませてくれるのだ。


最初にも書いたが、武論尊氏はインタビューでラオウで終わると思ってたから2部はもう必死すぎて覚えてないと言っていた。

確かに、ラオウ昇天後はリンが双子で実は天帝だとか、ファルコの最期とか、サヤカの存在なんて衝撃である。

展開としてはラスボスをカイオウとすることでラオウを引っ張り、更に北斗神拳の歴史が掘り下げられ奥深い内容となったが、サヤカ雑やなと思ったこは否めない。

ただ、覚えてないほどに目まぐるしい日々の中がむしゃらに書いておられたのだと思うと、そういった無茶感すら愛おしく思う。


また、グロテスクなシーンだったり、人が死にまくるという描写が多いのだが、それ以上にキャラクターの個性や生き様、死に様がとにかく凄まじくて、北斗の拳がグロいというイメージはあまりない(知らんけど)。

苦手な人も勿論いるんだろうけど、グロさなど霞む濃さが北斗にはあるのだ。


私はドラゴンボールも大好きで、その理由は主人公である悟空の安定感と、人が死んでも生き返るからである。
人が死ぬというのは漫画でもアニメでも、感情移入しすぎる私にとっては辛いもの。極力避けたい。

少年ジャンプは特に、努力・友情・勝利に加え何かしらの奇跡で生き残って欲しいと思う。

だから誰も死なないと思ってたワンピースでエースが死んだ時はかなり引きずった。ルフィは乗り越えているというのに、乗り越えられない私は2万円でフィギュアを買った。俺の中で生きよ、と。

だが、北斗の拳はその真逆。

主要キャラ死にまくりである。

ケンシロウのせいで死ぬ者、ケンシロウの為に死ぬ者、死亡フラグが立つもなにも、登場した時点で死亡フラグというほどとにかく死ぬ。

ジュウザ登場時にはその死亡フラグにも慣れていたし、死ぬんだろうな思っていたし、覚悟もしていた。それでも僅かな希望を抱き、本気で勝って欲しいと願ってしまったが、案の定やっぱり死んだ。

そう、死ぬのだ。

それでも私が北斗の拳を面白いと感じ、見れば見るほどにハマるのは、それぞれの死に様に美学を感じたからである。


北斗の拳を知る人には説明する必要などないが、敢えて言わせてもらうと、全員が「我が生涯に一片の悔い無し」と死んでいる。(悪を除く)

私自身納得するまでに時間がかかったファルコの死でさえ、ファルコ本人にとってはそうなのだ。

特にレイなんかは外見も技も美しいからか、死に様ランキングではダントツで1位である。
これは私が女だからかも知れないが、友(ケンシロウ)の為に命懸けで闘い、愛(マミヤ)の為に延命し死ぬという、究極の義へのこだわり。

レイが死ぬのは本当に辛かったし、本当に悲しかった。でも、レイは最後まで堂々と生き、義の宿命に美しく散っていくのだから受け入れるしかないのだ。

レイ本人が死を受け入れ、マミヤのためにと願っているのだから。そう思うと不思議と、私の心にもレイが生き続ける気がするのだ。

死に様ランキング2位のジュウザもそうだった。
彼は死に様も自由でハンサム。

自由とハンサムにこだわって死んだと言っても過言ではない。

ジュウザに恋していたので、私は彼の死に様について色んなことを考えた。

ジュウザはユリアを思いユリアの為に死んだのではなく、ユリアが生きてるなら守りたい、ただそれだけなのだと感じた。
死んだと思ったから生きていたけど、生きているなら死んででも守りたい。

ただ、死ぬ覚悟するかどうかは自分で決めるという、自由。

その覚悟が決まったのは、ラオウの凄まじい強さを体感したことと、ケンシロウがどういう男かを知ったからだった。

やりたいからやる、選ばされない、他人軸にはならない。俺は俺の意思で動くという生き方で、人生の終わりも意思のみで決めた為、ラオウの足止めを出来たかどうかなどの結果はどうでもいい。
将の正体がバレたとかもどうでもいいのだ。それがジュウザの美学である。


最初の強敵となったシンもだ。
ケンシロウは「同じ女を愛した男だから」という理由で、婚約者を死に追いやった敵の墓をつくってあげた。

少年バットが理解できなかったように、当時の私もただ、「ケンシロウいいやつかよ」としか思っていなかったが、成長するにつれ、死とは何かを考えさせられたのだ。

シンだって、ただユリアが好きなだけで性根は悪などではない。シンは、シン本人が言った力こそが正義という時代の犠牲者なのである。

そう考えると、シンがユリアを奪ったことや、 ケンシロウの胸に7つの傷をつけたことに意味を見出し、それがユリア殺しの悪名をかぶったことに繋がるのだ。

結果的に愛に殉ずる死を迎えたことは、シン自身がそのように生きたからである。これもまた、美学である。

そして、そこからケンシロウがシンの墓を作ったという所まで戻ると、シンという人物を深いところまで掘り下げることが出来、もう愛さずにはいられないという結論に至る。

これはシンに限らず、ほぼ全員に対し私は、愛さずにはいられない状態になる。

どうしてだろうとふと考えてわかったのが、ケンシロウが最後に許すからである。

いい人すぎるシュウを殺したサウザーなんて、悪でしかないと思っていた。

過去に同情はしてもシュウにしたことは絶対に許さんからなこのタンクトップ野郎!と思っていた。
が、ケンシロウは違った。

許すんです。

ケンシロウが許していなかったら、サウザーの死に様は大きく変わっていただろう。何も報われず、自分を許せず、認められないまま死んでいただろう。
でもケンシロウが許すことで、サウザーは愛を取り戻し愛を認め、愛の中で死ぬ。なんと美しいことか。カイオウも然り。

要は、愛さずにはいられない。

死をポジティブには捉えられないが、北斗の拳の「どう死ぬか」という死に様の重要さは、「どう生きたか」という証を残してくれる。

犯した罪や過ちなどは問題ではない。

死に方で全てが報われる、人は誰もが素晴らしい存在であると証明されることが、「死」に対する救いとなるのである。


まぁ、だからと言ってジャギやアミバという悪まで許していたらそれはもうケンシロウも悪である。

「過去に何があったとしても、やっていいことと悪いことがあるからね」という線引き。

ケンシロウの許せない悪いことをしたらあのような目にあうのだ。
自分都合で逆恨みすると、幸せになんかなれないよという秘孔を突かれてしまうので、気をつけてください。

そしてケンシロウが許さなかったことで、納得のいく結末となり、徹底した分逆に人気者となったジャギとアミバ。

これもある意味悪という美学であり、愛さずにはいられない。彼らにさえも名言を残させるあたり、やはり愛である。



私が最近ハマっている心理学は、人は皆生まれた時から素晴らしいというもの。

素晴らしいからこそ自分が大切であり、自分の人生も大切にする。自分を許し生きることで、争いは生まれない。

これは、他者や出来事で自分の価値は変わらないというもので、堂々と生きるということである。

ところが、他者を攻撃したり、自分自身を大切に出来ない人、生きることに苦しむ人が多い。それは何故かというと、「愛」を知らないからだ。

生きているだけで価値があるということを忘れてしまっているからだ。

本来与えられるはずの愛を知らずに育つと、愛を見失い愛に飢え、心の弱さの行き着く先は虐待や殺人となる。

これを読んだ時、私はケンシロウとカイオウが頭に浮かんだ。

ケンシロウは、無力な自分、弱い自分、すべてを否定せず許していて、目の前の現実に対し感じるままに生きている。

北斗神拳伝承者はこうでなければならないという縛りも一切なく、彼の言う宿命とは受け入れることである。

自分のせいでレイはラオウと闘い死ぬことになった、自分のせいでシュウは両目を失ったなどと、自分を責めることはない。

それは、レイやシュウのしたことを尊重できているからだ。
100%信じているのだ。
何故なら、「俺なんかの為に」がないから。

ただ、その上でどうするかが、ケンシロウにとって大切なことであり、常に過去ではなく未来に目を向けている。

殺されかけた敵にも情けをかけるのは、起きてしまった過去に執着せず、自分自身と向き合っているからであり、それが甘さだと責められてもケンシロウは変わらない。恨まない闘いは愛である。

一方、カイオウは母の愛を受けず、ジュウケイに虐待され育った。それがトラウマとなると心が歪んで当然なのである。

どんなに強くても評価されない、価値がない。頑張っても誰も認めてくれないなら、認めさせてやるという復讐に変わり悪となる。

しかし、ケンシロウはそれらも全て認め、許したのだ。もう一度言う。恨まない闘いは愛である。

憐れむのではなく、認めて許す。人が幸せに暮らすにはもう、それがすべてなのである。


ケンシロウが愛されるのはそこなのだろう。

北斗神拳の歴史や、他流派に全く興味がないのもそういうこと。過去何があったか知らないし、みんな何してるか知らないけど、俺はこうしたいからこうする、それがケンシロウの闘いなのだ。

そんなケンシロウが主人公である北斗の拳が素晴らしいのは当然。

決してブレることのないケンシロウがいて、このストーリーがあって、この人物がいて、面白い。ただ面白い、ただ感動する、ただ泣けるというだけではなく、学ぶことが本当に沢山ある。

小学校の道徳の時間なんてもう、6年間北斗の拳を流しときゃ犯罪減るんじゃないかと思っている。

要所要所で先生が解説し、生徒の質問に答える。そして、こんな時ケンシロウならどうするか?という問いかけを繰り返し、どんな答えにもバツを付けない。
 


皆さんは全員が等しく価値のある存在なんですよ。お金持ちでも貧乏でも、お父さんいなくてもお母さんいなくても、家がなく施設でも、大家族でも、虐待受けても過保護でも、皆さんは生まれてきたことで感謝されて当然の存在なんですよ。
だから何があっても大丈夫なんですよ。


もう何の話かわからなくなってきてるので、終わります。








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