2026.03.19
雑談する能力と説明する能力の反比例
「雑談」と「説明」はまったく違う能力である。そして両方とも得意な人は稀である。ヤンキーと優等生は両立しない。雑談はヤンキー的なもので、説明は優等生的なものである。雑談は話が終わらずに延々とじゃれ合いが続いていく。それに対して、説明とは、結論づけて終わらせることである。ここには人間の永遠の対立がある。そして、考えてみると、女はヤンキー的なのである。女の発達障害は気づかれないと言うが、女は表面的にはまともなのだ。露骨に変わり者の女というのは滅多にいない。われわれは女にきれいな格好をさせて、優等生ぶらせており、そういう社会のエゴもある。つまり女は他人を騙して猫を被っているのではなく、表面だけまともに振る舞える能力があり、われわれも実はそれを望んでいるのだ。ともかく、ヤンキーがモテるのも話が続くからなのであり、女は根がヤンキーだから、相性がよいということになる。そもそも時間がかかると褒められるのだから、随分変な話だ。世の中の大抵のことは、短時間でやるのが推奨される。一秒でも短くしようと思っている。しかし、雑談だけは例外で、延々と終わらないのが褒められる。3時間の雑談にそこまで価値があるのかわからないが、たぶん人間関係の重要性ということなのであろう。世の中の大半のことは短時間で終わらせた方が良いが、人間関係は終わってはならず、ダラダラが望ましいのである。そして、こういう風潮の結果として、逆に女の人はよく話を打ち切るのである。手短に済ませるのではなく、キレて終わらせるのである。おそらくダラダラ続くイメージでやっていて、その思惑通りにいかないからキレて終わらせる。男同士だとそういうことはない。あまり話が続かなければ、一応の結論を事務的に出して、さっさと終わらせるだけで、キレたりしない。話が短時間で終わるのは、男としては、それはそれでよいし、話が弾まなくても、怒る理由ではない。
2026.03.18
0.1秒で考えたことを30秒掛けて話す
人間は非言語的に考えている。道を歩いていて「ジュースを飲みたい。でも健康に悪い。お金もかかる」とか色々考えるとして、それをひとつひとつ言葉にしてもいいのだが、おそらくたいていは言葉として展開しておらず、非言語的に圧縮したままである。もちろん「ジュースを飲みたい」「健康に悪い」「お金もかかる」と独り言を呟いてもいいし、そういうこともあるが、たいていは言語化しない。言語化するというのは要するに説明的な行為である。友人知人が横にいたら「ジュース飲みたいなあ」と言って、「飲めば?」と言われ、「いや、ジュースは角砂糖の塊だ。虫歯とか糖尿病が恐い。特に炭酸飲料だと酸味料もあるから、まさに虫歯になるための毒薬だよ」みたいに言葉に出して言うかもしれないが、われわれは生きていて大半は、そういう言語化をしてない。頭の中で「炭酸飲料」「砂糖」「酸味料」「虫歯」「糖尿病」などの言葉が浮かんだとしても、その言葉は、わざわざ語られるのではなく、発声される前のイメージとして処理されているはずである。隣りにいる友人に話すとしたら30秒かかることを、自分の頭の中では0.1秒で処理している。もちろん30秒とか0.1秒というのは厳密に計測した数字ではない。話をわかりやすくしているだけだ。ドラマなら30秒掛けて独白するシーンでも、現実なら0.1秒だ。なぜそれだけの差があるかと言うと、やはり、言葉として展開すると30秒でも、圧縮したままなら0.1秒なのである。頭に浮かんだことを、名詞とか動詞とか形容詞とか副詞とか使って組み立てて300倍の時間を掛けるのが言葉なのである。
2026.03.14
階段を「無意識」に昇り降りするという使い方
フロイトのせいなのか、無意識という言葉は使いづらい。人間のかなり深い深い深い潜在意識、という具合である。その一方で、人間が自動化している作業を無意識と呼ぶのもわりと一般的である。たとえば階段を昇り降りする時、われわれは自分の身体動作について、実はよくわかってないが、駅の階段を駆け足で降りるような危険な作業も難なく「無意識」にできている。そういう非言語化された自動処理があるのである。われわれの日常生活の大半は、そういう自動処理に任せている。現在わたしはブラインドタッチでキーボードを打っているが、A-Zが並んでいる箇所を即答せよ、と言われたら、やや難しい。もちろん答えられるが、やはり「指が憶えている」ので、多少の時間はかかる。頭の中で指を動かしてみて、キーボードの位置を回答することになりそうだ。ブラインドタッチは言葉の入力なのに、非言語的処理なのである。この非言語的処理をなんと呼べばよいのか、とりあえず、そのまま「非言語的処理」と呼ぶしか無いであろう。読書も本当は非言語的処理である。文字を読んでいるので、非言語的処理のわけがない、と言われそうだが、やはり文字とは別の位相で思考が走っている。読書でさえ言葉ではない。登山に例えると(わたしは登山をしないので良い例えが浮かばないが)ハーケンとかザイルを使って、崖を登ったりするわけである。言葉とはそういう道具であり、とりあえず楔として打ち込んでいる。楔が本当の真相ではないし、その楔の先にあるものを目指しており、それは非言語的なものである。
2026.03.11
現代文の得意・不得意
たとえば将棋を指すのは(ルールを把握する気になれば)誰でも出来るが、将棋がすごい出来る人は、なにかしらイメージ化して手順を「圧縮」して指している。手順を虱潰しに意識化すると、人間の頭がついていけないので、うまい具合に「圧縮」して整理していると思うのである。「無意識」といってもよいが、自覚のない無意識ではないから「圧縮」と呼んでおく。将棋が下手な人はこの「圧縮」の才能がなく、すべての手順を意識化しているので、すぐに頭がパンクしてしまう。この「圧縮」とは、なにかしら特殊なメモリー領域と言っても良い。ワーキングメモリーに近いかもしれないが、よくあるワーキングメモリーのテストは数字を覚えて、それを言わせる、そして逆から言わせるわけだ。たとえばテストする側が578249という数字を言ってみて、回答する側はそれをそのまま復唱して、「では逆に言ってみてください」と言われて、942875と答えられればいいわけである。将棋の手順の「圧縮」はこれとは違う。ただの短期記憶ではなく、特殊な圧縮方式で手順を覚えている。さて、本題に入るが、現代文という科目は、古文・漢文と比べて、努力しても点数が上がらないという。おそらく現代文にも現代文のワーキングメモリーがある。数字のワーキングメモリーではなく、将棋の「圧縮」に近いものである。文章の暗記ではなく、「こういうことが書いてある」と圧縮できるメモリー領域である。もちろん、一度読んだだけで、一字一句暗記できるならしてもいいのだろうが、それはサヴァン的な能力だろうから、普通は「ここにこういうことが書いてある」という圧縮イメージである。そういう現代文メモリーが優れていると、現代文は勉強しなくても高得点が取れる。
2026.03.01
発達障害者の発見
なぜ最近になって発達障害者(知的に問題がない自閉)が発見されたのか。おそらく発達障害者は融通が利かない性格で、健常者よりモラルが高かったと思われる。これが最近の世の中、具体的には、西暦2000年過ぎたあたりから、段階的にコンプライアンスが厳しくなり、健常者も真面目になってきた。昭和の頃とか平成初期だと、暴力が跋扈していたので、逆に、融通が効かないことを長所と捉える風潮があった。最近では暴力があるたびに警察である。昭和の頃なら暴力を振るわれても、警察には連絡しないし、喧嘩に負けた敗北者という扱いなので隔世の感がある。西暦2026年現在で考えると、社会全体が真面目と言えば真面目である。もちろん人間そのものが進化したわけではないので、根っこは変わってないかもしれないが、暴力団が暴力団の格好をして歩くようなことは考えられないし、街で喧嘩を売られても警察を呼べばよいだけである。やはり表面は真面目になったのである。決して人間が素晴らしい存在になったわけでもないから、そこが現代の息苦しさでもあるのだが、ともかく全体的にマナーがよいから、融通が利かないタイプの人間はただの変わり者であり、頑固で堅物だから真面目人間だという評価のされ方は消えた。過去に頑固者だった人間は軌道修正を迫られているし、空気を読めなければならない。生物学的には暴力的な昭和の頃と変化してないにしても、われわれを取り巻く環境が一変した。泣き寝入りという言葉が死語になった。訴訟社会において損害賠償に怯えつつ、暴力とは別のものに首を絞められているのだが、ともかく暴力が消滅したことで、かなり周囲への目配りが必要になっており、かつては比較的害が少なかった発達障害者が危険人物として取り除かれるようになった。