歩道に空き缶が転がっている。
そのままにしておけばコロコロと風に吹かれ、通学の子どもたちが蹴って遊ぶ。車道に転がれば車が踏み潰していく。缶を避けて走り去る車もある。転がると危険だからと、道端に潰して置いておこう。それとも近くのゴミ箱まで持って行こう。人が見ていようがいまいがそうしよう。
良い行いをすると必ず良い報いがある、と爺ちゃんがよく言っていた。
どんなに小さく目立たないことでもいい、自分のためではなく、人の役に立つことをしなさい、それは必ず自分に返ってくるからと。果たして返ってきたのだろうか。
「陰徳あれば陽報あり。」
迷信かも知れないと子どもの頃は思った。今は反省の日々である。
ご先祖さまが積んでくださった徳も50歳を過ぎると底をつく。
「徳切れ」と呼ばれているが、50歳から先は自分がそれまで積んできた徳が人生に反映されるという。今からでも遅くない・・・。
徳という字は、もと扁(へん)がなく、旁(つくり)は直と心との合成である。また、「トク」という発音は得(とく)と通ずるという。つまり真(ま)っ直(すぐ)な心、わが身に獲得したもの、の意味がある。(日本大百科全書)徳は直心なのである。禅語に『直心是道場』があるが、徳を積む行為はそれ自体が自分を鍛える道場という意味と勝手に捉えている。
人間の条件/安岡正篤
食を欲し、色を好む様なことは、未だ人間の一般的な低い性能に過ぎない。徳を好むに至って始めて人に高き尊き大いなる生があるのである。人間は性能の低きに走ると、この徳を好むことが出来ない。
才を愛し得ても徳を解しない。
これがなければ人間は人間でない、というものが本質であって、結局それは徳性というものである。人が人を愛するとか、報いるとか、助けるとか、廉潔であるとか、勤勉であるとか、そうような徳があって初めて人間である。又その徳性というものがあって、初めて知能も技能も生きる。
高い徳を身につけた人は徳を意識していない。
そういうわけで徳がある。
低い徳を身につけた人は徳を失うまいとする。
そういうわけで徳がない。(老子)