太平洋戦争80年 アーカイブスでたどる 終戦までの道
1942年
1942年 1月
1942年1月2日(金)
日本軍 マニラ占領
アメリカ支配下のフィリピンへの攻略も12月8日から開始。日本軍は台湾を基地とする航空機で米空軍を攻撃して、1日目で制空権を確保しました。(これは海軍が採用した航続距離が延長された戦闘機 零戦により、台湾からルソン島への往復が可能となったため。)そして陸軍第14軍の先遣隊が12月10日ルソン島北部に上陸します。主力は12月22日にリンガエン湾、24日にはラモン湾に上陸。米極東軍司令官マッカーサーは日本軍との決戦を避け、12月27日に首都マニラを無防備都市と宣言し、マニラ湾口のコレヒドール島要塞とバターン半島へ立てこもります。日本軍は退避する米軍は追わず、首都に向かい1942年1月2日にマニラを占領しました。リンク先は、日本ニュース第84号から「特報マニラ陥落」
1942年1月2日(金)
「連合国共同宣言」に26か国が署名
アメリカ、イギリス、ソビエト、中国が発議した「連合国共同宣言」に22か国が加わり、日本、ドイツ、イタリアに対して協力し戦争を遂行すること、単独で講和や休戦をしないことを決めました。この「連合国共同宣言」の骨子は、前年8月にアメリカ大統領ルーズベルトとイギリス首相チャーチルが合意し発表していた「大西洋憲章」で、これが出発点となり戦後「国際連合」が成立することになります。この宣言に参加した26か国は、アメリカ、イギリス、ソビエト、中国、オーストラリア、ベルギー、カナダ、コスタリカ、キューバ、チェコスロバキア、ドミニカ、エルサルバドル、ギリシア、グアテマラ、ハイチ、ホンジュラス、インド、ルクセンブルク、オランダ、ニュージーランド、ニカラグア、ノルウェー、パナマ、ポーランド、南アフリカ、ユーゴスラビア です。 ※写真は、ワシントンで署名した各国の代表。
1942年1月16日(金)
日本翼賛壮年団結成
この日、大政翼賛運動を推進する青壮年を結集して組織した日本翼賛壮年団が結成されました。陸軍省軍務局長武藤章らにより、ナチスの親衛隊にならって作られ、大政翼賛運動の有力な実践部隊として町村末端まで組織化し、4月に行われる第 21回衆議院総選挙(翼賛選挙)では多くの団員を当選させ一大政治勢力となります。※写真は、陸軍軍務課長の教訓を受ける長野県の翼賛壮年団員。(写真週報207号 昭和17年2月11日より)
1942年1月24日(土)
ラバウル占領
オーストラリアの委任統治領だったニューブリテン島の首都ラバウルはオーストラリアとアメリカを結ぶ、重要地点で、日本軍はここに基地を置くことで、両国を分断しようとします。これは「対米英蘭蒋戦争終末促進二関スル腹案」(1941年11月15日、開戦前1年をたどる企画に関連動画あり)に基づいたもので、日本軍はラバウルを拠点にニューギニア本島への進出、フイジー、サモアやオーストラリア大陸の要地を占領しオーストラリア、アメリカ、イギリス間の補給線の遮断を目指すことになります。これは、緒戦の有利な戦況の進展を受け、開戦前に目標とした持久不敗体制の確立にとどまらず、さらに戦線の拡大をもたらすものでした。リンク先は、日本ニュース第84号の「ラバウル敵前上陸」です。
1942年1月31日(土)
マレー半島 ジョホールバル占領
マレー半島北部に上陸した日本の第二十五軍、3万5千の将兵は、英軍8万と戦いながら、1100キロの行程を自転車などを使ってわずか55日で突破し、1月31日、シンガポール対岸のジョホールバルを占領しました。対する英軍は、シンガポールとジョホールバルつなぐコーズウェイ橋を爆破してシンガポール島に立てこもります。日本軍は空から爆撃を加えた後、2月9日から上陸をはじめ、紀元節にあたる2月11日に完全占領という目標を立てていました。しかし、シンガポールのブテキマ高地でのイギリス軍の強力な抵抗にあい、一進一退が続き、その目標は達成されませんでした。リンク先は、日本ニュース第88号の「ジョホールバハル突入」です。
1942年 2月
1942年2月2日(月)
大日本婦人会発足
この日、それまで管轄の違った婦人団体、愛国婦人会(内務省)大日本連合婦人会(文部省)大日本国防婦人会(陸海軍省)を統合し大日本婦人会が発足しました。これは婦人たちを総力戦体制に動員することを目指したもので、会員は、20歳以上の未婚者を除く日本婦人で、多くは強制的に加入させられました。「国防思想ノ普及」「家庭生活ノ整備刷新」「国防二必要ナル訓練」を掲げ、軍部・官庁の監督の元、廃品回収・国防訓練・兵士の慰問・遺族の援護などを行っていきます。※戦争中の婦人会は国防婦人会の白い割烹着のイメージがありますが、大日本婦人会の「制服」は紺色で、左胸に日の丸をあしらった会章を付けていました。(写真参照)
1942年2月14日(土)
パレンバン占領
この日、陸軍落下傘部隊がオランダ領インドネシアの最大の油田地帯であるスマトラ島のパレンバンの飛行場と精油所に二波に分かれて降下し占領します。開戦の目標はオランダ領インドネシアの石油資源の確保でしたので、パレンバン製油所は無傷で手に入れることが求められました。そのため落下傘部隊で奇襲占領する作戦が行われます。落下傘部隊は「空の神兵」と呼ばれ、軍歌になり映画も作られ人気を集めます。日本は南方の石油を確保しますが、この後、多くの輸送船が潜水艦の攻撃などで失われ、日本本土への輸送手段が失われることになります。リンク先は、日本ニュース第89号の「陸軍落下傘部隊出動!」です。
1942年2月15日(日)
シンガポール陥落
山下奉文将軍率いる第二十五軍は、2月8日からシンガポールに上陸を開始、立てこもるイギリス軍(イギリス本国軍、英領インド軍、オーストラリア軍に加えマレー人シンガポール人により編成された軍もありました。)との激戦が続きます。そして、2月15日、イギリス軍を率いるパーシバル将軍から降伏の申し出があり、シンガポールは日本軍の占領下におかれました。イギリスのアジア侵略の拠点と言われていたシンガポール陥落の報が届くと、東京では宮城前広場や靖国神社に多くの人が集まり祝うなど、日本全国をわきたたせました。戦争証言アーカイブスに寄せられた高知県の地裁判事の夫人の日記によると、翌16日、町内会から陥落祝いの清酒が配給されたので、お祝いに御馳走でもと街へ出かけたが、牛肉も魚もなかったと記しています。リンク先は太平洋戦争ヒストリーマップ内にある、日本軍のシンガポール占領関連の動画をまとめたページです。
1942年2月18日(水)
衆議院選挙候補者の推薦制度が閣議決定
この日、東條内閣は帝国議会を挙国一致の戦時体制とするため、4月に行われる衆議院選挙の候補者を推薦制度により選ぶことを閣議決定しました。しかし、政府が候補者を推薦すると重大な選挙干渉となるため、別の政治団体による推薦制度をとります。そのため、2月23日に軍部・大政翼賛会・財界・農業団体・貴衆両院などの代表を招集し、元首相の阿部信行陸軍大将を会長とした翼賛政治体制協議会を結成します。民間人による自発的運動という体裁をととのえるため,道府県単位の支部をつくり,地元の有力者を支部長に任命。政府に替わって候補者の推薦や選挙活動を行なっていきます。※画像は翼賛政治体制協議会推薦候補者の演説会告知のチラシ
1942年2月27日(金)
スラバヤ沖海戦
この日、ジャワ島攻略に向かった輸送船団を護衛する日本の艦隊を、スラバヤ沖で連合国のアメリカ、イギリス、オランダの混成艦隊が迎撃しました。これは、太平洋戦争で最初の水上部隊同士の海戦で、連合国側は巡洋艦5隻、駆逐艦10隻。対する日本側は巡洋艦4隻、駆逐艦14隻の戦いでした。7時間にわたって大砲や魚雷による交戦がつづき、連合国の巡洋艦2隻、駆逐艦5隻が沈没、連合国側の司令官、オランダのドールマン少将は戦死します。日本側の損害は駆逐艦1隻が損傷を受けただけでした。この翌日発生したバタビア沖海戦で、連合国はさらに2隻の巡洋艦を失い、日本は東南アジアの制海権を確保します。※画像は攻撃を受け沈没したイギリスの巡洋艦エクセター
1942年 3月
1942年3月1日(日)
日本軍ジャワ島上陸
日本軍は南方作戦としてイギリス領のマレー半島とアメリカ領のフィリピンを急襲、足場を築いたうえで、オランダ領インドシナの石油資源を確保する計画でした。シンガポール陥落後、2月18日にフランス領インドシナを出航したジャワ島攻略軍の輸送船団は、27日のスラバヤ沖海戦 28日のバタビア沖海戦の影響で、予定より2日延期し3月1日に上陸を開始しました。(バタビア沖海戦では味方の魚雷で輸送船が沈没しました。)ジャワ島に第一次上陸した日本軍の兵員は5万5千、それに対しジャワ島にのオランダ、アメリカ、イギリス、オーストラリア軍の兵力は8万千でした。リンク先は、ジャワ島で日本軍と戦い、捕虜になった元イギリス軍兵士の証言です。
1942年3月6日
大本営 真珠湾での特別攻撃隊を発表
この日、大本営が、真珠湾攻撃に特殊潜航艇(甲標的)で参加し帰還しなかった9名を英雄として発表しました。当時のマスコミは彼らを「九軍神」として讃え、戦艦アリゾナの撃沈がその戦果と報じられました。特殊潜航艇は乗員2名の小型潜水艦で、5隻10人が出撃しましたが、うち一人はアメリカの捕虜(太平洋戦争で日本人の捕虜第一号)となったため、日本国内ではどの存在を一切抹消されることになりました。また、真珠湾攻撃の飛行隊隊長淵田美津雄は回想録に、アリゾナの轟沈は飛行隊によることを皆知っていたが、特殊潜航艇を軍神として宣伝するため、手柄を譲るように求められたと記しています。リンク先は日本ニュース第92号の「特別攻撃隊」です。
1942年3月8日(日)
ビルマの首都ラングーン占領
中国国民党軍に物資を送る「援蔣ルート」を遮断するため、イギリス領ビルマに侵攻した日本軍は、この日首都ラングーンを占領しました。「日タイ同盟条約」を交わし、タイの国内を通過してビルマへと進攻した日本軍にはイギリス植民地からの独立を目指す[ビルマ独立義勇軍]も参加していました。連合国側はイギリス軍を支援するためアメリカ軍と中国軍も戦いに加わりますが、日本軍は住民の支援も受け、5月にはビルマのほぼ全域を制圧、イギリス軍はインド東部インパール方面に退却することになります。リンク先は、太平洋戦争ヒストリーマップ内にある、ラングーン占領のページです。関連する当時のニュース映画や戦いに加わった元兵士の証言がまとめてあります。
1942年3月9日(月)
ジャワ島の連合軍オランダ軍が全面降伏
3月1日、ジャワ島に大部隊を上陸させた日本軍は、首都バタビアやバンドンを攻略、3月9日にオランダ軍は全面降伏しました。アメリカによる石油の禁輸から、東南アジアの石油資源を求めることになった日本は開戦から3か月ほどでその目的を達することになりました。ジャワ攻略作戦では日本軍は謀略放送を実施。サイゴンの放送局からジャワの放送局と同じ周波数で電波を発信し、ジャワの放送局になりすまし日本軍に有利な情報を放送しました。これも、オランダ軍の早期降伏の要因とされています。日本は終戦までオランダ領インドシナを占領し続けましたが、次第に、海上交通路を連合軍に断たれ、日本本土への石油輸送の手段を失っていきます。リンク先は、太平洋戦争ヒストリーマップ内にある、ジャワ島の連合軍降伏のページです。当時のニュース映画や戦いに加わった元兵士の証言の動画がまとめてあります。※サムネイルは降伏したオランダ軍司令会ポールテン中将
1942年3月17日(火)
マッカーサー将軍 オーストラリアに脱出
アメリカ極東軍の司令官だったダグラスマッカーサーは、日本軍から攻撃を受けていたフィリピン、コレヒドール要塞から大統領の命令で脱出します。3月11日にコレヒドールから魚雷艇で出発、ミンダナオ島でオーストラリアから派遣されたB17爆撃機に乗り換え、この日、オーストラリアに到着。記者会見をしたマッカーサーは、攻勢のための新たな部隊を編成しフィリピンを開放する 「I shall return!(私はまた帰る)」と語りました。マッカーサーは連合国南西太平洋軍最高司令官に任命され,日本に対する反抗作戦の指揮をとることになります。※画像はオーストラリアに退却したマッカーサー