法律が美しくならないのだが
グルになっている集団を徹底的に解体して、追い詰められた一人の人に徹底的に肩入れするのが、本来の——「本来」と付いた、意味深だねえ——法です。現在の日本の法も、まあ原理というか理念は、これを追求している。でも、細かいところに入っていくと、だんだん少しずつ腐食していて、ほとんど枯れそうになっていることも確かなんだ。
子どもたちを性暴力から守りたい、その一点で行動を始めて、気がつけばおよそ4年半の歳月が流れていました(驚愕)。前半の2年は民間人として政治・政府に政策を提言し、後半の2年半は、期せずして、政府の一員としてその政策を担当することになりました。この間、民→官というフェーズをまたいで、たったひとつの政策に携わり続けてきたわけですが、それは昨年「こども性暴力防止法」として結実。既に公布され、2028年12月までには施行されることとなっています。そんなチャレンジも、個人としてはこの年度末で一区切となりました。退官し、民間にカムバックします。
役人としては、内閣官房の参事官補佐に始まり、こども家庭庁発足後は同庁の専門官として奉職の機会をいただいたわけですが、正直、まったくの実力不足で、どう控えめにいってもその役職に見合った貢献ができず心苦しいばかりでした。このうえはその経験を埋没させず、すこしでも社会に還元せねばということで、さっそく筆を取った次第。
とはいっても、たかが2年、しかも末席も末席で立法に携わらせてもらったからといって、ドヤ顔で元官僚面してなにかを偉そうに語るというのは、いかに厚顔無恥な自分といえどもはばかられるところです。ただ、自分なりに問題意識を持って提言した政策が、実際に法律として落とし込まれていくプロセスでは、多くのことを考えさせられました。
それは、本記事冒頭の木場顕教授の著書からの引用の通り、本来の法の理念である「追い詰められた一人の人に徹底的に肩入れする」というのは、実行が至難ということ。なぜなら「追い詰められた一人の人」が、世の中にはたくさんいるから。
木場教授(東大名誉教授、法学者。専門はローマ法)による講義形式の本で、本文で引用した第一回は、映画『近松物語』を題材にして、集団から不当に追い詰められる個人について木場教授と学生が語り合うといった内容。
私が政策提言を始めたきっかけは、2020年6月にあった、指導的立場にある大人たちによる、子どもたちへの許しがたい性暴力事件でした。加害者たちは、その社会的地位を利用して、子どもたちが抵抗できないようにし、犯行に及んでいました。さらに、性犯罪前科者であっても、何度でも子どもたちと関わる仕事に就けてしまうという理不尽を知り、この現状は変えねばならないと思ったのです。木場教授の言葉を借りれば、子どもたちに徹底的に肩入れしようと誓ったのでした。
政策提言の際は、ただひたすらに「子どもたちへの性暴力をなくす」という理想を語りました。その揺るぎない理想、あるいは原理原則といってもいいかもしれませんが、そこから逆算して具体策を提言に盛り込んでいきました。政策提言の際は、数え切れない障壁や抵抗がありましたが、あらゆる力を総動員してこの原理原則を押し通すことが、政策を政治日程にのせるうえで必要不可欠だったように思います。
そしてこの理想が政治に届いた結果、政府で具体的な検討がはじまります。このタイミングで自分も政府にジョインしたわけですが、この民→官にフェーズが変わったとき、風景が一変しました。
これまでは子どもの権利を錦の御旗にして突き進んできたわけですが、政府では、子どもの権利を中心に据えながらも(こども家庭庁なので)、それをとりまくあらゆる権利関係について、ひとつひとつ精緻に整理せねばなりませんでした。例えば、職業選択の自由であり、労働者の権利であり、また個人情報保護の観点も欠かせません。この国、というより人類の歴史のなかで、これらの個人の権利はあまりに長く不当に侵害されてきたものであり、ここにも、いわば「追い詰められた一人の人」がいたわけです。本法には、これらの権利と衝突する要素がいくつもありました。
長い歴史のなかで積み重ねられた非常に重厚かつ堅固な権利は、いわば、いくつもの死線をくぐり抜けてきた歴戦の強者であり、残念ながら、本邦では社会に浸透したとはいえない子どもの権利は、新兵さながらです。先方の論理を丸呑みしていては、とても太刀打ちできません。しかし我々としては、子どもたちを守るために、引くわけにはいきません。苦悩しながら、悶絶しながら、山積する問題とひとつひとつ、極めて限られた時間とリソースで、向き合っていきました。
さて、そんな悪戦苦闘の末に生み出されたのが「こども性暴力防止法」です(フルネームは、学校設置者等及び民間教育保育等事業者による児童対象性暴力等の防止等のための措置に関する法律、です。長い)。今現在も施行に向けた準備が急ピッチで進められていますが、世間からの評判は、必ずしも芳しくありません。
例えば、本法には過去に性犯罪前科がある者を本法が対象とする職種(教員や保育士、等々)に就けないようにする仕組みが盛り込まれましたが、下記のような、被害当事者や有識者の皆さまが従来から指摘していた問題をクリアできませんでした。
対象となるのは「性犯罪前科(より正確には本法が規定する”特定性犯罪前科”)」のみであり、不起訴や示談となったものは含まれない。
性犯罪前科があっても、拘禁刑であれば20年、罰金刑であれば10年間を過ぎれば、本法は適用されなくなる。 等々
こういった問題がメディアで報道されたとき、政策提言をしていたときからずっと応援してくださっていた方々から、厳しいお言葉をいただきました。「これでは子どもたちを守れない」「あなたはこの問題の本質を、なにも理解できていなかったのではないか」と。
これは、骨身にこたえました。返す言葉もない、とはまさにこのことです。本法を取り巻く様々な権利関係を調整していった結果、本法は、少なくとも被害当事者の視点からは「追い詰められた一人の人に徹底的に肩入れする」という本来の法の理念とは異なるものに思えたに違いありません。
そういったご意見は、真摯に受け止めるしかないと思っています。問題があるのは確かだからです。ただ、立法作業の一部始終を目の当たりにしてきた者としては、我が国の複雑な法体系の現状と、極めて限られた時間とリソースのなかで、本法を担当したチームは、子どもたちを守るために力を尽くしたし、これからも尽くし続けるものと確信しています。
もちろん、力を尽くせばよいというものではありません。力は尽くして当たり前だし、大事なのは、結果だからです。でも私は、これで終わりではない、と思っています。
本法を取り巻く権利関係、例えば労働者の権利にしても、それが現状のような堅固な法制を築くには、労働者たちの世紀をまたぐ長く苦しい戦いがあったし、それは今も続いています。一方、我が国で子どもの権利がはっきりと謳われた「こども基本法」が成立したのは、令和4年です。戦いののろしは、まだあがったばかり。そして実は、こども性暴力防止法には、施行後3年を目途とした見直し・検討規定が盛り込まれています。だから私は、むしろここからが本番と思っています。これは、政府だけの仕事ではありません。どのように改正すべきなのか、その方向性を定めるのは、私たち有権者の意思です。
法律は一朝一夕にはつくれませんし、たとえ成立しても、当初それを望んでいた当事者にとって、理想からは遠いものになってしまっているかもしれません。どうやっても、美しくはならない。けれど、このことを考えるとき、私はふと思い出す言葉があります。英国のTheresa May元首相の退陣演説の一説です。身体の底から溢れる想いを押しとどめ、絞り出すようにして語っていた姿が、とても印象的でした。(彼女の境遇を考えると、なおさら沁みる言葉です。詳細はぜひ検索してみてください)
“Never forget that compromise is not dirty word. Life depends on compromise.”
「決して忘れないでください。妥協という言葉は、汚れた言葉ではありません。私たちの日々の生活は、妥協によって成り立っているのです。(拙訳)」
法律とは国家のルールであり、望む望まざるとに関わらず、万人が強い影響を受けます。ということは、それだけ関係者がいて、関係者の数だけ意見があります。自分たちの思った通りにはなりません。けれど、「追い詰められた一人の人に徹底的に肩入れする」という本来の法の理念を決して諦めることなく、関係者との対話を積み重ね、できうる限り多くの人が納得する落とし所を見いだしていくしかありません。
つらいし、地味だし、すぐに成果が現れるわけでもないけれど、こうした対話の積み重ねによってしか、民主主義は強くならないのではないかと、およそ2年半に及ぶ役人生活を経て、私は思いました。
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コメント
1前田さん、任官お疲れさまでした。
さぞかし、並々ならぬご苦労と苦悩の日々がおありになった事と心中お察しいたします。
わいせつ教員防対法、日本版DBS。
ご指摘の通り、まだまだいろいろだとは私も感じます。
法そのものを強化するのか?それとも別法で水際を固めるのか?
ですが先ず、法として成立し、此処に在る事。
その事に、任官してまでご尽力いただいた前田さんに
いち被害者家族として、深くお礼申し上げます。
先ずはゆっくり、ご自愛ください。
多分お忘れかと思いますが・・・、
わいせつ教員防対法云々当時、弥生さんを通じて前田さんに私の意見をお送りしたとも伺っています。その時の者です。