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【レビュー】『プロジェクト・ヘイル・メアリー』とSF映画への静かな絶望について

小説を読んでいる時と、映画を観ている時では、脳の使い方が違う。無論こんなことは自明な事実ではあるが、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』という作品の原作と映画を見比べた時、そのような実感を顕著に持った方も多かったのではないだろうか。

原作小説を読んだことのある人間なら、あの小説が要求していたものを覚えているはずだ。ページをめくる手が止まる瞬間が何度もあった。止まって、考えた。グレースが立てた仮説の意味を、自分の頭で追いかけようとした。追いかけられないことも多々あっただろう。それでも読み続けた。そしてグレースが正しかったと判明する瞬間に、奇妙な達成感があった。自分は何もしていないのに、自分がたどり着いたような感覚があった。そんな感覚を覚えた人も多いのではないだろうか。

小説一般に言えることだが、"意味"とはテキストの中に存在するのではなく、読者が自力で構築するものだ。文字は素材に過ぎず、脳がそれを推論し、類推し、記憶と照合し、検討することで初めて意味が生まれる。小説の冒頭を思い出してほしい。目覚めたグレースは自分がどこにいるのかわからない。彼は推論する。振り子を使って重力を測り、窓の外の星の配置を確認し、船内の構造を観察し、少しずつ証拠を積み上げて「ここは宇宙だ」という結論にたどり着く。

読者はこの演繹のプロセスを一緒に歩む。グレースが何かに気づく前に、読者もすでに同じ手がかりを握っている。答えが出た瞬間の納得は、自分も同じ結論に向かっていたという感覚を伴う。映画の冒頭では、観客は数十秒のうちに宇宙船の内部を視覚的に把握する。ゴズリングの表情と映像の文法が、説明より先に状況を伝える。勿論、あれは演出として間違っていない。むしろ映画的に正しい。しかしその「正しさ」の中で、グレースとともに推論する体験は静かに消えてしまっている。

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映画もまた観客の能動的な関与を要求するが、その関与の質は、おそらく異なる。映画が観客に求めるのは感情的な反応であり、物語的な予測であり、視覚的なパターンの読み取りだ。しかしハードSF小説が読者に求めるものはそれとは別種の能動性で、科学的推論の再走、仮説の検証、数値の意味の咀嚼、そして何より、答えが出ないまま「わからない」状態に留まり続ける忍耐とでも言うべきものだ。

「わからない状態」に観客を置き続けることは、莫大な製作費の回収と、おそらく相性が悪い。映像が答えを見せることを拒否し続ける映画は確かに存在するが、それらの多くは興行の論理の外縁をどこかで意識しながら作られているところもあるだろう。難解さは客席を空にしうる。科学的プロセスの忠実な再現は、チケットを売りにくい。フィル・ロードとミラーがハードSFの認知的な困難さを丁寧に取り除いていったのは、怠慢ではなくおそらく必然だったといえよう。小説が最も豊かに機能する認知状態と、映画が最も豊かに機能する認知状態はずれており、そのずれをブロックバスターという条件がさらに押し広げた、と言ってしまうのは少しナイーブだろうか。


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ウィアーの真に卓越した点は、科学的思考の循環を物語の「背景」として処理しなかったことにある。グレースが何かを測定するとき読者も数値の意味を考え、グレースが矛盾に気づくとき読者もすでにその矛盾の手触りを感じており、グレースが仮説を立てるとき読者は無意識に別の候補を探している。これは感情移入とは異なる、認知的な深さでの並走だ。感情移入とは他者の感情を自分のものとして引き受けることだが、ここで起きているのは他者の思考プロセスを自分の脳で再走することであり、だから答えが出た瞬間の興奮は自分がたどり着いたような感覚を伴う。読者はグレースの発見を目撃するのではなく、グレースとともに発見する。あの眩暈は、参加の報酬なのだ。

さて、そしてロッキーである。

言語は概念の器であり、概念は生の様式から生まれる。まったく異なる存在が同じ記号体系を共有していても、その記号が指し示している経験の質が同一である保証はどこにもない。ファーストコンタクトというテーマが本来内包している最も深い恐怖はここにある。相手が話せるようになったとしても、相手を理解できるかどうかは原理的に保証されない。他者が自分と同じように内的状態を持っているかどうかは、行動をどれだけ観察しても証明できないという問題は、地球外生命体を前にした時、途方もない深さで口を開ける。ロッキーが友情を理解しているように見えるとき、それは人間的な意味での友情と同じものなのか。ロッキーが悲しむとき、その内側には何があるのか。

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映画のロッキーは美しく、愛らしく、感情的に読みやすかった。そしてそれゆえに、この問いは早い段階で消えた。キャラクターは視覚的に完成しており、観客はその姿を見た瞬間から感情的な関係を結び始める。ロッキーが感動的であればあるほど、ロッキーの異質性は後退していく。これは演出の失敗ではなく、映像という媒体が持つ根本的な性質なのかもしれない。見えてしまったものは、もう怖くないのだ。

そもそもの話である。SF映画の歴史を振り返った時、ハードSFが持つその真の魅力を映画として再現、いや体現することに成功した作品が、果たして存在しただろうか。ハードSFの体験を映画として昇華することに成功した作品が、一本だけあるかもしれない。キューブリックの『2001年宇宙の旅』である。『2001年宇宙の旅』は映画技法の範疇の中でだが一定の科学的な正確さを保ちながら説明を徹底的に排し、観客を未決の緊張の中に長時間放置することに成功した。しかしキューブリックにそれが可能だった条件を辿ると、逆説的な事実が浮かぶ。1968年、製作費はおよそ1050万ドル。公開当初、批評家の多くは困惑し、観客の反応も割れた。キューブリックは興行の論理と真正面から戦い、その戦いの傷跡を作品に残したまま公開に踏み切った。『2001年』が映画史における革新的な達成であることと、その達成が現代のブロックバスターにおいて再現しがたいことは、矛盾しない。あの映画が可能だった世界は、もうおそらく存在しないのかもしれない。

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これらは監督の力量や製作費の問題ではない。映画の時間は監督が支配し、観客はその時間の中に置かれる。小説の時間は読者が支配し、読者はいつでも立ち止まり、考え、戻ることができる。科学的思考とは本来、自分のペースで立ち止まることのできる行為であり、この差異は技術の進歩で埋まるものではないだろう。莫大な製作費を回収するためには広い観客に届く必要があり、広い観客に届くためには感情移入しやすいキャラクターと明確なカタルシスが要る。並走する思考の困難さをそのまま映画に持ち込むことは、観客を失うリスクと直結する。したがって、ハードSFは"変換"される。そしてそれは脚本の冥利であり、決して悪いことではない、というのはそれはそうなのだが、ある意味始末に追えないとも私は感じてしまうのだ。

『プロジェクト・ヘイル・メアリー』はその変換を、これまでのSF映画史上最も高いクオリティで行った作品であると言っても過言ではないだろう。完成度が高い映画ほど、そこに存在しないものの輪郭が鮮明になる。楽しめた。本当に楽しめた。だがその楽しさは、サイエンスの困難さが丁寧に取り除かれた後に残った、無菌培養された感動だったのかもしれない。

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念のため言い添えておくと、本作を否定したいのではない。むしろ率直に言えば、高く買っている部類に入る。劇場が明るくなって、隣の席の人が「面白かったね」と連れに話しかけていたことを思い出す。面白かった。本当にそう思う。だが、あの小説を深夜に読んでいたときに起きていたことは、「面白い」ではなかった。グレースが何かに気づきかけている、その手前で読む手が止まる。自分の頭の中でも何かが動いている。答えはまだ出ない。出ないまま、ページを閉じて天井を見上げた。脳の奥で何かが軋んでいた。答えが出ないまま布団に入り、眠れずにもう一度本を開いた。あの時間は快適ではなかったし、清潔でもなかった。わからなさの中に長く置かれ、それでも手放さずにいた者だけに訪れる、不衛生な歓び。ハードSFというジャンルが長い年月をかけて読者に植えつけた、あの眩暈への渇望。

そして忘れてはならないのは、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』はハードSFの中では比較的間口の広い作品だということだ。ウィアーの筆致は硬派な科学を扱いながらもどこか陽性で、読者を突き放すことがない。その作品ですら、映画化にあたってこれだけの認知的変換を必要としたのだ。より峻烈な硬度を持つ作品群のことを思えば、あの眩暈が映画館の座席に届く日は来ないのだろうと、静かに了解せざるを得ない。隣の席の「面白かったね」は正しい。だがあの深夜の天井に向けて吐いた息の中にあったものを、私は映画館で一度も吸ったことがない。おそらく、どれほど優れた映画の中でも吸うことはないのだろう。


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Joshua Connolly 物理学者が映画について本気で考える、ちょっと変わった記事を書いています。「面白かった」と思っていただけたら、それだけで十分ですが、チップをいただけたらコーヒー片手にもう1本書きます。

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深水湖水

今回も面白く読ませていただきました。 原作をまだ始めの方しか読んでいないのですが、なるほどと唸りました。 素人作家なら冒頭は説明セリフと設定を説明する地の文で埋めていただろうと思います。いわゆるインフォダンプです。 作者は主人公を記憶喪失にすることで作品の冒頭がインフォダンプに…

【レビュー】『プロジェクト・ヘイル・メアリー』とSF映画への静かな絶望について|Joshua Connolly
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