朱霊たちが(曹操の元へ)帰還すると、劉備は徐州刺史・車胄を殺し、関羽を下邳の守りに留め、自らは小沛へ帰還した。
胡沖の『呉歴』にいう。
曹操はたびたび親近の者を遣わせては、密かに諸将を見張り、賓客を招いて酒食を共にする者がいれば、それにかこつけて殺していた。劉備はその時、門を閉ざし、人とともに蕪を育てていたが、曹操は人を使ってその門の中を窺わせていた。(その者が)去って、劉備は張飛と関羽に言った。
「私がどうして野菜を育てているだけの人間であるだろうか? 曹操は必ずや私の意向を疑うだろう。留まっていることは出来ない」
その夜のうちに裏手の棚を開け、張飛たちとともに軽装の騎馬で立ち去った。下賜された衣服などはことごとく、封をして残し、小沛へ赴くと兵士を集めた。
臣・裴松之は思う。
魏の武帝(曹操)は、劉備に諸将を統率させて遣わせ、袁術を攻撃させたが、郭嘉たちが居並んでこれを諌めたものの、(曹操は)従わなかったことは、歴然とした事実である。野菜を植えていて、逃げ出したわけではない。胡沖の伝えるところの、なんと甚だしくかけ離れていることか。
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東海の昌覇が謀反を起こすと、郡県の多くが劉備のために、曹操に叛いた。数万人もが集まり、(劉備は)孫乾を遣わせて袁紹と講和して連合した。
曹操は劉岱と王忠とを派遣してこれを撃たせようとしたが、失敗した。
五(200)年、曹操は東征して劉備を攻め、劉備は敗れた。
『魏書』にいう。
この時、曹操は官渡で急を告げていたが、諸将を分配して官渡に留め、自ら精鋭を率いて劉備を撃った。劉備は初めのうちは、曹操が大敵に当たっていて、東へ来ることは出来ないと考えていたが、斥候の騎兵が慌ててやって来て、曹操が自ら来たことを伝えた。劉備は大いに驚いて、それでもなお信じられなかった。(劉備は)自ら数十騎を率いて出陣し、曹操の軍勢を眺めたが、麾旌を見つけると、人々を見捨てて逃走した。
曹操はその軍勢をことごとく収用し、劉備の妻子と関羽とを捕虜として、帰還した。
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まず、前者から。
裴松之が突っ込んでいるように、胡沖(こ・ちゅう)の『呉歴』は事実誤認です。
『魏書』「武帝紀」でも、『蜀書』「先主伝」でも、裴松之の言う通りの内容となっています。『呉歴』の記事は劉備を貶めるのを意図した創作と言ってもよいでしょう。
胡沖は、呉の侍中・偏将軍だった胡綜(こ・そう)の子で、呉末期から晋初の人物。呉では中書令、晋の代には尚書令・呉郡太守を務めた人物です。
『呉歴』の題の通り、呉の人物伝の注釈で時々登場します。次回から登場する『江表伝』も同様なのですが、呉の人物を褒め称え、他国の人物を必要以上に貶めるような記事が登場します。注意が必要です。
後者の『魏書』(著者は王沈)も魏寄りなので、同様の注意が必要です。
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劉備は青州へ逃走した。
青州刺史の袁譚は、劉備が以前に茂才としたので、(袁譚は)歩騎を率いて劉備を出迎えた。劉備が袁譚に付き従って平原(県)に至ると、袁譚は袁紹に使いを馳せさせて報告した。袁紹は将を派遣して道に出迎えさせ、自身も鄴を出て二百里先(まで)、劉備と相対した。
『魏書』にいう。
劉備が袁紹に帰属すると、袁紹親子は心から敬い、重んじた。
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「茂才」というのは、地方から中央政府への人材推薦制度である「郷挙里選」の科目のひとつ。
郷挙里選の科目には孝廉、賢良、方正、直言、文学、計吏、秀才などがあります。茂才は、後漢を建国した光武帝・劉秀の名を避けて、秀才から改名されたもの。
推薦者は郡太守や国相。
後漢では特に「孝行で廉直である」とされる「孝廉」が重視され、『三国志』でも孝廉として推薦された人は多くいます。
有名なところでは、曹操、陶謙、袁術、公孫瓚、荀彧、荀攸、孫権、張昭、張紘、黄蓋など。他にも、劉虞、朱儁、陳登、鍾繇、張脩、楊阜、鄭泰、蘇則、張既、郭淮などがこれで推薦されています(必ずしも出仕したわけではありませんが)。
余談ですが、司馬懿は計吏のひとつである上計掾として郡太守の推薦を受けるも、出仕せず。曹操からは文学掾として辟召(高官からの推薦)されて出仕しています。他には、陳羣や田豊や沮授は茂才として、郭図は計吏として推薦を受けています。
孝廉は、毎年、二十万当たり一人を推薦するというもの。茂才は州刺史が毎年1人を推薦するというもの。
たとえ袁氏が「四世三公」の家柄とはいえ、郷挙里選で推薦されなければ出世どころか出仕すら出来ません。茂才として推薦できるのは州刺史なので、劉備が豫州刺史か徐州刺史の頃、すなわち興平元(194)年の頃と思われます。後に袁譚は曹操から青州刺史に任じられますが、その前振りを作っていたのが劉備。感謝するのも当然のことで、その段階で恩を売っておいた劉備、なかなか侮れませんね。
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一ヶ月余りも駐在していると、失っていた士卒たちが次第に集まった。
曹操は袁紹と官渡で相まみえていたが、汝南の黄巾賊である劉辟たちが曹操に叛逆して袁紹に応じた。袁紹は劉備の軍勢を遣わせて劉辟たちとともに許の付近を略奪させた。
関羽が(曹操の元から)逃亡し、劉備の元へ帰ってきた。
曹操は曹仁の軍勢を遣わせて劉備を撃たせ、劉備は袁紹の軍勢の元へ戻ったが、袁紹の元を離れたいと密かに思い、南方の荊州の牧である劉表と連合すべきと袁紹に説いた。
袁紹は、劉備と(劉備の)もともとの将兵たちを遣わせて再び汝南へ行かせ、賊の龔都たちと合流すると、数千人ほど集まった。
曹操が蔡陽を遣わせてこれを撃とうとしたが、劉備によって殺された。
曹操はすでに袁紹を撃ち破り、自ら劉備を撃とうと南進した。
劉備は麋竺と孫乾を遣わせて劉表と相対させると、劉表は自ら郊外まで出迎え、上賓の礼をもって待遇し、その兵士たちを増やしてやり、新野(県)に駐屯させた。
劉備に帰属しようとする荊州の豪族たちが日ごとに増えると、劉表は(劉備の)心境を疑い、密かに警戒した。
(劉表が劉備に)夏侯惇や于禁たちを博望で防がせた。
これよりしばらくして劉備は伏兵を設け、一旦自ら屯地を焼いて遁走すると、夏侯惇たちがそれを追いかけてきたが、伏兵によって撃ち破った。
『九州春秋』にいう。
劉備が荊州に住むようになって数年が経ち、あるとき劉表の(宴の)席から廁へと立ち、内側の髀に肉が付いているのを見付けると、慨然として涙を流した。
席に戻ると、劉表が(劉備の様子に)怪しんで劉備に訊ねた。劉備は言った。
「私は常に鞍から身を離したことがなく、髀肉はみな落ちておりましたが、今ではもう馬に跨ることもなく、髀の裏側に肉が付いてしまいました。月日は馳せ、老いもまさに間近というのに、功業を立てることも出来ず、そのことのみが悲しいのです」
『世語』にいう。
劉備が樊城に駐屯していたとき、劉表は彼を礼遇しながらも、(劉備の)人となりを憚って、あまり信用しなかった。
あるとき劉備を宴会へ招いたが、蒯越と蔡瑁とが宴会を利用して劉備を処分しようとした。劉備はこれに気付くと、廁へ行くふりをして、密かに遁走した。乗馬の名を的盧といい、その的盧に跨って走り、襄陽の城西にある檀溪の水中を渡ろうとしたが、溺れて脱出できなくなってしまった。
劉備が「的盧よ。今日は厄日だ。努力しろ!」と言うと、的盧は一躍して三丈も飛び上がり、ついに抜け出すことができた。馬に乗って浮かびながら河を渡り、中ほどまで来たところで、追手の者が来て、劉表の意向を伝えて陳謝し、「なんと逃げ足の速いことか!」と言った。
孫盛はいう。
これは不自然な言葉だ。劉備はこのとき羈旅の身であり、客人と主人とでは勢力が異なるものであって、もしこのような異変があれば、どうして劉表の世を安穏と過ごして無事でいられるだろうか?
これらはみな世俗の妄説であって、事実ではない。
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展開は、演義系作品でもほとんどそのまま採用されている内容なので、周知の方も多いでしょう。
『九州春秋』と『世語』の記事も、同じく演義系作品でも採用されていますね。
『九州春秋』にある、長らく馬に跨らなかったために髀(ふともも)に肉が付いてしまったと嘆いた話から、「実力や手腕を発揮する機会に恵まれないこと」や「本領を発揮できずに、むなしく日々を過ごして悲しむ様子」を表す
髀肉之嘆(髀肉の嘆)
という言葉が生まれました。
『世語』の記事についての孫盛の意見には、賛成です。
孫盛は西晋から東晋の頃の人物で、博学として名を知られ、戦場にも数多く従軍した人物で、様々な書物を残し、『三国志』の批評でもよく引用されます。ただし、勝手に創作した(のではないかと疑われるような)伝承を引用したり、批評についても当人のことを知り尽くしているかのように断言したもの(というより決めつけ)を書いたりと、そのまま鵜呑みにするのは危険だと思われます。インテリ風コメンテイターが、実際の現場を見聞きしたわけでもないのに、又聞きや他者の書物を読んだだけで、あたかも自分が発見したかのように偉そうに話しているようなもの(もっとも孫盛は博識で、実務経験者もでありますが)。
ただ、この場合の孫盛の意見は、受け入れてよいと思います。
劉備はこれまでにも、呂布や曹操に帰属しながらも、決して心服せず、むしろ密かに曹操と手を組んで呂布を追い落とし、その曹操も欺いて徐州へ逃げのびています。袁紹の元からも(理由は不明ですが)さっさと見切りを付けて、言葉巧みに脱出しています。こうした経験を持つ彼が、後にも劉表の元にいるとは考えづらいです。
後に魯粛との会談でも(本気かどうか分かりませんが)、南の果ての交州に行くつもりですと答えている。彼は決して、安泰でない場所であろうと留まるような生真面目な性格でも、迷い続けて行動できないような優柔不断な性格でもなく(優柔不断に見えるのは演義補整と思ってもらえれば)、機があればさっさと飛び出してしまう。そんな彼が、なにゆえに身の危険性を感じてまで、しかも部下が勝手にやったというのなら上司としての劉表の能力に疑問視して、荊州に留まる必要があるのか。
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改めて見ると、劉備のフットワークの軽さが分かります。
危険地帯にはいつまでも留まってはいない。
軽快であるし、機を見るに敏とも言えるし、あるいは、行き当たりばったりで動いているテキトー男とも見受けられる。
彼に安住の地はあるのか?
荊州での争乱が始まります。
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