[2018年12月]
伴野といた3ヶ月間は短いようで長い3ヶ月間だった。最後は警察沙汰になって別れることになったが、稀有な経験をさせてもらった。こんな経験もいつかは役に立つだろう。
#01
すぐに大家さん、区長さんの家に行き、簡単に事情を説明してから退去する旨を伝えた。もちろん理解できないようであったが、いずれ分かるだろうと思った。その後、珠洲市役所に行き、転移届を提出し、お世話になった移住推進課にも行って事情を説明した。珠洲市から移住手当もあったので、その解約の手続きもあった。
#02
さらに珠洲警察署に行って「この度は何かとお世話になりました」と挨拶をして、能登不動産にも事情を説明してから退去届を提出し、「伴野はそのまま住むそうです」と伝えた。
「もう2度と珠洲市に来ることはないだろう」
と思いながらも、自然豊かな町で人々は優しいかったと複雑な心境でもあった。
#03
私が持っているものは、ガラケー、スマホ、財布、布団くらいで、ほぼ逃げるような形で輪島市に向かった。伴野のことだから輪島市に現れるかもしれないと不安になったが、車は持っていないから大丈夫だろうとも思っていた。
#04
金沢市の伯父に事情を説明し、住ませてもらうことになった。まあ、基本的に集団ストーカー・テクノロジー犯罪を理解できる人はいないので、誰に説明をしても理解されない。それでもこの犯罪を知ってもらわなければ、この国家犯罪を撲滅することはできないので、分かりやすく説明をしていこうと思っていた。
#05
輪島市にある父の実家も空き家になっていて、ゴミばかりだった。それでも加害者組織の準備はまだできていなかったので、水道水に毒はまだ混入されていないし、電磁波攻撃は衛星からだけなので、まだ弱い状態であった。電磁波攻撃の強度は射程距離に反比例する。
「久しぶりに水が使えるし、顔も洗える」
ただそれだけで最高の気分だった。
#06
近所の人にも簡単に挨拶をして廻った。1番近くの国田さんは「ちょっと飲もうぜ」と誘ってくれた。詳しく経緯や事情について説明したので、多少は理解してもらえた。
「何か分からないことがあったら、俺になんでも聞いてくれ。どんなことでも協力するし助けてやるからな。ただ電磁波攻撃だけは助けてやることはできないな〜」
と言ってくれたので、理解してもらっただけでも心が軽くなった。
#07
町野スポーツクラブには1月から勤務することになっていたが、12月中も何度も行って、古くて遅いパソコンを直していた。要らないデータが多く、その消去だけでも何時間もかかるし、パソコンもなかったので、生活に必要なものを注文したりもさせてもらった。そこの社員は1人しかいなかったので、その補充のために私が採用されたのだった。
#08
輪島市で一人頑張って生きていこう、そんな思いを強くしながら、家の整理や仕事の準備、落ちた体力維持で軽いランニングなどをしていた。
#09
一番大きいのは水が使えるということである。近くのスーパーまで行って野菜を買い、野菜炒めやご飯を作って食べた。加害者組織が私に普通の生活をさせておくわけはなく、近所の人にこの犯罪を知られたら困るわけで、今後も普通の生活ができるとは思っていなかった。
#10
ただ突然、輪島市に移住したので、始めの3週間だけは一般人と近い生活ができた。その後、早めに年末は実家に帰った。
#11
今までは実家に帰るのは年に1〜2回くらいで日帰りがほとんどだったが、2018年は何回実家に帰って泊まったのか。また、5月の電磁波攻撃で立てなくなったときは、年末までは生きれないだろうと覚悟をしていたが、生き延びることができた。
#12
ただ毎日、電磁波攻撃の防御や食品への毒物チェックなどで先のことを考える余裕はなく、その日のことだけを考えていたら、年末まで生きれたと言ったほうがいい。
#13
実家に帰ってからは、古い友達に連絡して会い、事情を説明し、「もう会えないと思うから」と最後の挨拶のつもりでいた。それ以外の時間はただ毎日歩いていた。1日に5時間ほど歩いていたので、足の豆が潰れるくらいだった。
#14
頭のいい小寺の家に行ったら、本人はいなかったが、母親が出てきた。ただ連絡先を聞こうと思ったのだが、平日の昼間に私が来たので、誰だって不審に思う。
「タクちゃん、お仕事は?」
と聞かれた。まあ、誰だってそう思うだろう。仕事どころの話ではない。
「実は政府に命を狙われていて……」
と詳しく経緯について説明した。普通は理解できないが、小寺の母なので頭はいい。大まかな事情は分かってもらった。その後、小寺から電話があった。
「仕事もしていなくて家族とも別れたって母から聞いたぞ。何があった?」
#15
私ができることはこの犯罪を周知することである。2018年はそんな余裕もなく、ただ逃げているような日々だった。
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