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【追悼】『タナカハウス』からのファックス◎元シルバースターC田中文悟さんを偲ぶ
フットボールの話題
2026.04.22
【追悼】『タナカハウス』からのファックス◎元シルバースターC田中文悟さんを偲ぶ
【追悼】『タナカハウス』からのファックス◎元シルバースターC田中文悟さんを偲ぶ
上村弘文(ハドル編集長)
話題
4月2日、秋田県の酒蔵で従業員が酒造りの作業中にタンクの中に落ちる事故で亡くなったというニュースが報じられた。事故にあったのは従業員ではなく、酒造会社の田中文悟代表取締役社長(享年49歳)だった。
田中さんは鎌倉学園、関東学院大学でアメリカンフットボールに取り組み、OLとして活躍。大学4年時には主将を務め、1部リーグ昇格初年度のチームを率いた。1999年アサヒビール株式会社に入社と同時に、アサヒビールシルバースター(当時・現オリエンタルバイオシルバースター)に入団。その年にライスボウル制覇を経験している。

2005年シーズンには副将を務め、2006年シーズンを最後に引退。引退後はアサヒビールの敏腕営業として活躍。当時、後継者不足や出荷量減少に苦しむ日本酒業界の状況を知り、2008年に友人が立ち上げた阪神酒販に転職。2010年に同社のグループ会社として株式会社田中文悟商店(現・SAKEアソシエイツ)を設立し、経営に苦しむ酒蔵をM&Aという形で酒蔵の運営と事業再生事業に取り組むようになった。

2019年には独立し株式会社日本酒キャピタルを設立。大納川(1914年創業)、魚津酒造(1925年創業)、紫波酒造店(1903年創業)、日當山醸造(1902年創業)の再生に取り組んできた。

M&Aで伝統的な事業を再生するには、伝統を引き継いできた酒蔵の人々の信頼を得ることが不可欠であり、それが容易ではないことは想像に難くない。一方で、田中さんの人柄を知る人ならば、相手の懐に飛び込み、誠実に向き合って信頼を勝ち取っていく姿が思い浮かぶだろう。

明るく、バイタリティに溢れ、義理堅い。そんな田中さんの性格はフットボール選手時代から滲み出ていた。
【カバー写真】2004年、前年のジャパンエックスボウル(当時の社会人決勝)で苦杯を喫したオンワードスカイラークスを延長タイブレークで破り2年連続ジャパンエックスボウル進出を決めた時の田中さん。【写真上】現役時代は大型Cとして活躍。2005年には副将を務めた。photo:Kiyoshi Ogawa
田中さんが関東学院大で主将を務めていた時の話だ。専門誌の月刊タッチダウン(当時)が田中さんを取材した日の夜、編集部に一枚のファックスが届いた。発信元は田中さんだった。取材に対するお礼が直筆で記され、シートの隅には発信元として『タナカハウス』の文字と時刻が打刻されていた。

3月31日でサービスを終了した『iモード』が世に出る前年。スマートフォンなどもちろんなく、携帯電話が普及しはじめた時代だ。少なくとも当時、取材のお礼を文面で、しかもファックスで送付してきたのは田中さんが最初で最後だった。

『タナカハウス』という発信元の表記のコミカルさと相まって、田中さんの存在は編集部全員が認知するところとなった。

そんな律儀な姿勢は社会人になってからも変わらなかった。シルバースターで活躍していた田中さんを取材した数日後、編集部にスパークリングワインがケースで届いた。送り主はもちろん田中さんだった。

「編集部の皆さんでどうぞ」と、担当者の私だけでなく、編集部全員にいきわたるように。そんな気遣いができる人だった。

選手引退後はシルバースター関連でメールのやりとりを数回した程度の交流だった。しかし、人を思い、誠実に自分の役割を全うする姿勢は選手時代と何ら変わらなかったはずだ。訃報に際し、たくさんの酒蔵関係者や酒販店関係者のSNSが、田中さんを偲ぶ投稿であふれたことがそれを証明していた。

「街から酒蔵の灯を消さない。酒造りは街造りである」「日本酒を「NIHONSHU」に」という志の実現に、命がけで挑んだ田中さんの御冥福をお祈りいたします。
攻撃のハドルを招集する66田中さん。引退後は日本の伝統文化でもある日本酒業界で、大きなハドルを創ろうとしていた。photo:Kiyoshi Ogawa
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2026.04.22
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上村弘文(ハドル編集長)
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4月2日、秋田県の酒蔵で従業員が酒造りの作業中にタンクの中に落ちる事故で亡くなったというニュースが報じられた。事故にあったのは従業員ではなく、酒造会社の田中文悟代表取締役社長(享年49歳)だった。
田中さんは鎌倉学園、関東学院大学でアメリカンフットボールに取り組み、OLとして活躍。大学4年時には主将を務め、1部リーグ昇格初年度のチームを率いた。1999年アサヒビール株式会社に入社と同時に、アサヒビールシルバースター(当時・現オリエンタルバイオシルバースター)に入団。その年にライスボウル制覇を経験している。

2005年シーズンには副将を務め、2006年シーズンを最後に引退。引退後はアサヒビールの敏腕営業として活躍。当時、後継者不足や出荷量減少に苦しむ日本酒業界の状況を知り、2008年に友人が立ち上げた阪神酒販に転職。2010年に同社のグループ会社として株式会社田中文悟商店(現・SAKEアソシエイツ)を設立し、経営に苦しむ酒蔵をM&Aという形で酒蔵の運営と事業再生事業に取り組むようになった。

2019年には独立し株式会社日本酒キャピタルを設立。大納川(1914年創業)、魚津酒造(1925年創業)、紫波酒造店(1903年創業)、日當山醸造(1902年創業)の再生に取り組んできた。

M&Aで伝統的な事業を再生するには、伝統を引き継いできた酒蔵の人々の信頼を得ることが不可欠であり、それが容易ではないことは想像に難くない。一方で、田中さんの人柄を知る人ならば、相手の懐に飛び込み、誠実に向き合って信頼を勝ち取っていく姿が思い浮かぶだろう。

明るく、バイタリティに溢れ、義理堅い。そんな田中さんの性格はフットボール選手時代から滲み出ていた。
【カバー写真】2004年、前年のジャパンエックスボウル(当時の社会人決勝)で苦杯を喫したオンワードスカイラークスを延長タイブレークで破り2年連続ジャパンエックスボウル進出を決めた時の田中さん。【写真上】現役時代は大型Cとして活躍。2005年には副将を務めた。photo:Kiyoshi Ogawa
田中さんが関東学院大で主将を務めていた時の話だ。専門誌の月刊タッチダウン(当時)が田中さんを取材した日の夜、編集部に一枚のファックスが届いた。発信元は田中さんだった。取材に対するお礼が直筆で記され、シートの隅には発信元として『タナカハウス』の文字と時刻が打刻されていた。

3月31日でサービスを終了した『iモード』が世に出る前年。スマートフォンなどもちろんなく、携帯電話が普及しはじめた時代だ。少なくとも当時、取材のお礼を文面で、しかもファックスで送付してきたのは田中さんが最初で最後だった。

『タナカハウス』という発信元の表記のコミカルさと相まって、田中さんの存在は編集部全員が認知するところとなった。

そんな律儀な姿勢は社会人になってからも変わらなかった。シルバースターで活躍していた田中さんを取材した数日後、編集部にスパークリングワインがケースで届いた。送り主はもちろん田中さんだった。

「編集部の皆さんでどうぞ」と、担当者の私だけでなく、編集部全員にいきわたるように。そんな気遣いができる人だった。

選手引退後はシルバースター関連でメールのやりとりを数回した程度の交流だった。しかし、人を思い、誠実に自分の役割を全うする姿勢は選手時代と何ら変わらなかったはずだ。訃報に際し、たくさんの酒蔵関係者や酒販店関係者のSNSが、田中さんを偲ぶ投稿であふれたことがそれを証明していた。

「街から酒蔵の灯を消さない。酒造りは街造りである」「日本酒を「NIHONSHU」に」という志の実現に、命がけで挑んだ田中さんの御冥福をお祈りいたします。
攻撃のハドルを招集する66田中さん。引退後は日本の伝統文化でもある日本酒業界で、大きなハドルを創ろうとしていた。photo:Kiyoshi Ogawa