東浩紀が「現代のオタクは批評を求めなくなった」と語って久しい。
この言葉をめぐる議論は尽きないが、問題の所在はもっと単純で、もっと厄介だ。
現代の由々しき自称オタクたちは価値を問う前に、数で判断してしまう。
いま話題の映画『超かぐや姫!』に対して、「ファンを数字としてしか見ていない」という批判が起きた。
だが見落とされているのは、その“数字の回路”が観客側にも内面化されているという事実である。
それらは本来、作品がどれだけ届いたかを示す一つの指標に過ぎない。
「伸びている=良い」
この短絡が、判断を肩代わりする。
判断を委ねられるのは楽だ。
なぜ良いのかを考えなくていい。
ただ「伸びている」という事実に乗れば、外れない気がする。
その瞬間、何が起きるか。
受け手は数で選ぶ。
両者が同じ回路で接続されるとき、作品は均質化し、消費は加速する。
ここで批評はどうなるか。
批評とは、本来「なぜそれが価値を持つのか」を言葉にする営みだ。
だが価値の判断がすでに数に委ねられているなら、その問いは必要条件ではなくなる。
要求されなければ育つこともない。
そこでは差異は摩擦になる。
摩擦は居心地を壊す。
したがって優しさを維持するには批評の圧を弱める方が合理的になる。
結果として残るのは、「好き」と言うことだけが流通する空間だ。
それは居心地がいい。
これは怠慢ではなく、構造だ。
数は便利である。
数は速い。
数は裏切りにくい。
そして使い続けるうちに気づく。
数で足りてしまうことに。
なぜ良いのかを問わないまま良いとされるもの。
なぜ悪いのかを考えないまま避けられるもの。
数に従わない。
流行に媚びない。
それは、ある種の孤独を前提とした態度だった。
なぜなら数が、それを代行してくれるからだ。
「伸びているものを好きでいればいい」
「皆が好きなものを好きでいればいい」
気づけば、私たちは数に寄り添いながら、
数に抗う。
己の好きを貫き通す。
そうした武士道のような清さを持ったオタクは、既に死に絶えつつあるのだ。
昔のオタクならAI使わずに書いてた
オタクって、歩くアニメ百科事典みたいな人なんじゃないの? 満足いかずに自分で作るのがマニアって感じ。 anond:20260421182930
今「オタク」と言ったら、主としてアニメ・漫画を多く見てる人程度の意味しかない。 絵を描く人は絵師呼びになったし、ゲームに熱心なのはゲーマーになったし、オタクという語が残...
オタクならほっぺちゃんを見てる筈だものな