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ヘンドリック・ハメル『朝鮮幽囚記』 (1668年)Internet Archiveヘンドリック・ハメル(生田滋訳)『朝鮮幽囚記』東洋文庫132, 平凡社 ヘンドリック・ハメル(Hendrick Hamel、1630年 - 1692年)は朝鮮王朝をヨーロッパに紹介した最初の西洋人である。彼はそこで13年間過ごした後、「朝鮮幽囚記、1653-1666」を書き、1668年に出版した。 ヘンドリック・ハメルはオランダで生まれた。1650年に、彼はオランダ領東インドに行き、オランダ東インド会社(VOC)の会計係として働いた。 1653年に、「デ・スペルウェール」(De Sperwer) 号に乗船して日本へ向かう途上、ハメルと35人の乗組員は朝鮮の済州島で致命的に難破したが生き残った。 地方長官の保護の下、済州島で約1年を過ごした後に、1655年6月、朝鮮王朝の首都ソウルに赴いた。そこは孝宗(1659〜1659年)が王位にあった。 当時の外国人の慣例的扱いにより、ハメルとその乗組員は国外に出ることを禁じられていた。しかし、彼らは滞在中、朝鮮社会で比較的正常な生活を送る自由を与えられていた。 1616年9月、朝鮮で13年間過ごしたハメルとその7人の乗組員は日本に逃げ出した。そこはオランダ人が出島と呼ばれる長崎の人工島で小さな貿易使節団を運営していた。 ハメルが朝鮮でのできごとを書いたのは、長崎にいたこの時(1667年10月から1666年9月)である。 1667年後半に、ハメルと乗組員は、ここからオランダ領東インド諸島のバタヴィア(現在のジャカルタ)へ出帆した。 |
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| とちおとめ | レッドパール | 章姫 | 雪香(ソルヒャン) | 梅香(メヒャン) | 錦香(クムヒャン) | |
レッドパールと章姫を交配 |
章姫と栃の峰 (とちおとめの親)を交配 |
とちおとめと章姫を交配 |
ベイジル・ホール『朝鮮・琉球航海記』 (1818年)ベイジル・ホール(春名徹訳)『朝鮮・琉球航海記』岩波文庫ベイジル・ホール(Basil Hall、1788年 - 1844年)は、19世紀のイギリスの海軍将校、旅行家、作家。インド洋、中国、朝鮮、琉球、中南米、北米各地を航海したことで知られる。 バジル・ホールと記述されることも多い。王立協会会員(FRS)。 Internet Archive |
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フランツ・フォン・シーボルト『日本』 (1832年)フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(尾崎賢治訳)『日本・第五巻』雄松堂出版, 1978フィリップ・フランツ・バルタザル・フォン・シーボルト(1796 – 1866)はドイツの医師・博物学者・旅行家。 彼は日本の植物相と動物相の研究と日本へ西洋医学を導入し著名な成果を収めた。 Internet Archive |
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イワン・ゴンチャロフ 『フリゲート艦パルラダ号』 (1858年)Internet Archive 英訳:Klaus Götzeイワン・アレクサンドロヴィチ・ゴンチャロフ(1812 - 1891)は、ロシアの作家。 1852年から1855年まで、イギリス・アフリカ・日本に旅し(1853年に長崎に来航)、プチャーチン提督の秘書官としてシベリアを経由して帰国。1858年にその紀行文『フリゲート艦パルラダ号』を刊行。 |
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宮本大丞朝鮮理事始末 四/2 朝鮮政府接遇記略及風俗概要 (明治9年, 1876年)国立公文書館アジア歴史資料センター明治9年(1876)、日本政府は、日朝修好条規を協議するため、宮本小一外務大丞をソウルへ派遣した。宮本小一は、朝鮮国にて国賓としての歓迎を受け、帰国後に、朝鮮政府接遇記略及風俗概要、を書いている。 これには、当時の朝鮮国の衣食住や人々の風俗がよく描写されており、とても興味深い。その中から朝鮮国の「宮廷の料理」について書かれた部分を抜粋する。 |
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E・J・オッペルト『禁断の国・朝鮮』 (1880年)Internet Archiveエルンスト・ヤーコプ・オッペルト(1832年- 1903年9)はドイツのユダヤ系(当時のドイツ連邦、後にドイツ帝国)の実業家。 |
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W・R・カールズ『朝鮮風物誌』 (1888年)W・R・カールズ (William Richard Carles, 1846~1929) は英国の外交官で、1867年に北京駐在英国公使館の翻訳留学生として経歴を開始し、1901年に引退するまで、ほとんど中国で中国語の専門家として活躍した。 朝鮮は二度訪れており、まず1883年11月から12月にかけて、江原道金化を中心に鉱山の調査に従事した。 いったん中国に戻ったが、翌1884年に北京総領事パークス (Harry Parkes, 1828~1885) が条約締結のため訪朝した際に同行し、5月に高宗に謁見した。 カールズは済物浦駐在の副領事に任命されたが、9月には北部旅行に出発し、平壌、義州、江界、元山を経て11月にソウルに帰着した。 当時の商工業の水準や日本人の進出、女性の地位をはじめ社会風俗に関する記述が豊富で興味深い。 |
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G・W・ギルモア『ソウル風物誌』 (1892年)Internet ArchiveG・W・ギルモア (George William Gilmore, 1857~?) は米国の神学者で、プリンストン大学を卒業しニューヨークのユニオン神学校で神学を学んだ。1886年7月、ギルモアは妻を伴い、ハルバート (Homer B. Hulbert) やバンカー (Dalzell A. Bunker) とともにソウルの育英公院の教師に赴任した。しかし学生たちの向学心のなさに失望し、1889年に帰国した。 |
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ジョージ・N・カーゾン『極東の諸問題』 (1894年)Internet Archiveジョージ・N・カーゾン (George Nathaniel Curzon, 1859~1925) は英国の政治家で、インド総督、外務大臣を歴任した。ケドルトンの男爵家に生まれ、オックスフォード大で学び、1886年に国会議員になった。1891~92年インド政務次官、1895~98年外務政務次官をつとめた。この間世界旅行をしており、1892年には日本・朝鮮・中国を訪れた。 |
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A・H・サヴェジランダー『朝鮮-静かなる朝の国』 (1895年)Internet ArchiveA・H・サヴェジランダー(1865年 - 1924年)は、イギリスの画家、探検家、作家、人類学者であった。彼は、しばしばウィットのあるスタイルで本を書いた。 彼はイタリアのフィレンツェにあるチャールズ・サヴェジランダー家に生まれ、しこで幼少時を過ごした。作家のウォルター・サヴェジランダーは彼の祖父である。 彼は15歳でパリに行き、ギュスターヴ・ブーランジェとジュール・ルフェーブルが主催するアカデミー・ジュリアンで勉強した。 その後、アメリカ、日本、韓国などの世界を旅し、多くの風景や肖像画を描いた後、イングランドに戻った際に、ビクトリア女王にバルモラル城に招かれ、冒険を語ったり、絵を描いた。 |
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時事新報 『事実を見る可し』 (明治30年, 1897年)時事新報 社説時事新報は、かつて存在した日本の日刊新聞である。1882年(明治15年)3月1日、福澤諭吉の手により創刊。 福澤諭吉は清国の圧迫下にある朝鮮国の真の独立をあくまで望んでいた。 諭吉の本来の目的は西洋列強の東侵阻止であり、日本の軍事力は日本一国のためだけにあるのではなく西洋諸国から東洋諸国を保護するためにあるというものだった。 そのため李氏朝鮮の金玉均などアジアの「改革派」を熱心に支援した。朝鮮人の慶應義塾への入塾を許可し、また朝鮮人に親近感を抱きながら接していた。 (wikipedia) この社説は、諭吉の主張とは異なっている。したがって、これは福澤の手によるものではなく、「時事新報論集」の主要な起筆者である石河幹明によるものと考えられる。 |
| 本来朝鮮人は数百年来儒教の中毒症に陥りたる人民にして、 常に道徳仁義を口にしながら其衷心の腐敗醜穢、 殆んど名状す可らず。上下一般、共に偽君子の巣窟にして、一人として信を置くに足るものなきは、我輩が年来の経験に徴するも明白なり。 左れば斯る国人に対して如何なる約束を結ぶも、 背信違約は彼等の持前にして毫も意に介することなし。 既に従来の国交際上にも屢ば実験したる所なれば、朝鮮人を相手の約束ならば最初より無効のものと覚悟して、事実上に自から実を収むるの外なきのみ。 |
イザベラバード 『朝鮮紀行』 (1898年)Internet Archive英国人女性旅行家 Isabella L. Bird が朝鮮を訪れたのは、1894年、62歳の時である。以後3年余、Bird は 4度にわたり朝鮮各地を旅した。折りしも朝鮮内外には、日清戦争、東学党の反乱、閔妃暗殺等の歴史的事件が続発する。 国際情勢に翻弄される李朝末期の不穏な政情や、開国間もない朝鮮に色濃く残る伝統的風土・民俗・文化等々、Bird の眼に映った朝鮮の素顔を忠実に伝える名紀行。 |
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リリアス・H・アンダーウッド 『まげの国の一五年』 (1904年)リリアス・ホートン・アンダーウッドは1851年6月21日にアルバニー・ニューヨークで生まれた。彼女は医学の学位を取得するためにシカゴに行き、女子医科大学(現在はノースウェスタン大学の一部)に入学した。 彼女は1888年に医療宣教師として韓国に行った。 リリアスは、韓国の仁川の済物浦に到着して間もなく、個人医師としてリリアスの診察を希望していた女王を訪ねた。 1889年、リリアスは牧師ホレイス・グラント・アンダーウッドと結婚した。ホレイスはすでに4年間韓国に滞在していて、危険な地域を旅行をする方法を知っていた。 その年の11月から翌年5月まで、夫妻は日本に滞在した。 韓国ではほとんどの外国人は信用されていなかったが、アンダーウッドは韓国の当局者に感銘を与え、北方まで遠く旅をすることが許された。彼らは変装することなく宣教師として旅をした。 |
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アンガス・ハミルトン 『朝鮮』 (1904年)アンガス・ハミルトン (Angus Hamilton, 1874~1913) は英国生まれのジャーナリストで、日露戦争中の1904年に朝鮮を訪れ、ソウルから金剛山、元山、江華島等に足を伸ばした。 本書は、日韓合邦以前のソウルの発展を示すためによく引用される。 ブルース・カミングスは、そのような発展が主に米国資本によってもたらされたことを指摘し、日本資本なら植民地化、それ以外の資本なら近代化とみなす韓国人のダブル・スタンダードを皮肉った。 |
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ウィリアム・グリフィス『隠者の国・朝鮮』 (1905年)Internet Archive
ウィリアム・グリフィス (William Elliot Griffis, 1843~1928) は米国の牧師・東洋学者で、1870~74(明治3~7)年に日本に滞在し、福井と東京で西洋式教育制度の導入に尽力した。
帰国後の1876年に出版した『皇国(The Mikado's Empire)』がベストセラーになり、東洋学者としての名声を確立した。
1882年に初版が出た『隠者の国・朝鮮』も非常によく売れ、1911年までに9版を重ねた。
グリフィスは朝鮮を訪れたことはなく、本書は英語・フランス語・ドイツ語・オランダ語等で書かれた既存文献と、日本・中国の史料に依拠している。
しかし米国では、最初のまとまった朝鮮関連書として多大な影響力を持ち、「隠者の国」というフレーズは朝鮮の代名詞として有名になった。
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荒川五郎 『最近朝鮮事情~朝鮮の人々』 (明治39年, 1906年)国立国会図書館デジタルコレクション (p.86-91)荒川 五郎(1865年 - 1944年)は、日本の政治家、ジャーナリスト、教育者。広島県生まれ。
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朝鮮の人
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H・N・アレン『朝鮮見聞記』 (1908年)Internet ArchiveH・N・アレン (Horace Newton Allen, 1858~1932) は米国の医療宣教師・外交官で、初期の米朝関係の確立に大きく貢献した。マイアミ医科大学を卒業後、一年間中国で活動したアレンは、1884年ソウルの米国公使館の医師に採用された。この年に起きた甲申政変で負傷した閔泳翊を治療したのが契機となり、翌年韓国最初の病院である廣惠院が建てられると医師・教師として働いた。1887年には全権公司・朴定陽の渡米に随行し、米朝外交に深く関与するようになった。1890年にはソウルの米国公使館の書記官となり、以後公使、総領事、全権公使を歴任した。1904年の乙巳条約によって朝鮮の外交権が剥奪されると、1905年帰国した。 |
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F・A・マッケンジー『朝鮮の悲劇』 (1908年)Internet ArchiveF・A・マッケンジー (Frederick Arther McKenzie, 1869~1931) はカナダ生まれのジャーナリストで、1904年にロンドン・デイリー・メイルの特派員として朝鮮に渡り、日露戦争が勃発すると日本軍に従軍取材した。1906年にも同紙特派員として朝鮮を訪れ、日本軍に抵抗する義兵団を取材した。英国に帰ると、マッケンジーは反日親韓派の急先鋒として論陣を張り、1907年に『東洋の正体(The Unveiled East)』を、1908年に本書(The Tragedy of Korea)を出版した。 日本に対してはきわめて批判的だが、朝鮮に対しては過度にロマンチックな幻想を抱いているように思われる。 |
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H・B・ハルバート『朝鮮滅亡』 (1909年)Internet ArchiveH・B・ハルバート (Homer B. Hulbert, 1863~1949) は米国の神学者・ジャーナリストで、ダートマス大学を卒業しニューヨークのユニオン神学校で神学を学んだ。1886年7月、ギルモア (George W. Gilmore) やバンカー (Dalzell A. Bunker) とともにソウルの育英公院の教師に赴任した。1891年12月にいったん帰国したが、1893年9月に再度来韓し『コリア・レビュー』の編集を主管した。日露戦争直後の1905年10~11月、高宗の密書を持ち米国の政府要人と接触して第二次日韓協約を妨害しようとした。1907年7月、ハーグ万国平和会議で李儁ら高宗の密使を列強諸国の代表と会わせようとしたが失敗、朝鮮に戻れなくなり米国に帰国した。1949年7月、李承晩大統領の招請で来韓したが1週間で死去、馬浦楊花津の外国人墓地に安葬された。1950年建国功労勲章を追叙された。 ハルバートは当然キリスト教至上主義者で、それが彼の反日・親韓の立場に影響しているらしい。朝鮮に比べキリスト教が普及しない日本を野蛮視し、日本の朝鮮支配を「第一級の国際的な誤謬」と非難している。欧米列強の植民地支配はキリスト教の普及という崇高な目的に奉仕するものだから善だが、非キリスト教国の日本が列強のようにふるまうのはけしからんということらしい。 |
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朝鮮総督府 『米国観光団の朝鮮人観』-『朝鮮人の思想と性格』より (大正13年, 1924年)国立国会図書館デジタルコレクション (p.10-11) |
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米国クラークス会社主催観光団一行米国人農ジエイ、ビー、ボウム外四十名は大正十三年三月二十四日午前八時京城駅着下り列車にて入城直に朝鮮ホテルに至り
同日はホテル専属鮮人通訳三名の案内にて昌徳宮、景福宮、其他著名の場所及市内を見物し翌二十五日午前八時二十五分京城駅発下り列車にて北京に向け出発したるが一行中のジエイ、ビー、ボウム外二名は左の如き感想を洩せり。
「朝鮮は常に騒然たるものありて場合に依りては余等一行の旅行にも多少の危険あるやも知れずと懸念し居たるに意想外に平穏無事なるは日本の統治宜しきを証するものなり而して朝鮮の文化が我米領比律賓に比しより以上長足の進歩を睹漸次日本化し行く状態は日本の殖民政策の成功と謂ふべし本国に於ては朝鮮の山には草木なしと聞き居たるが今回の観光に依り鉄道沿線の状況を見るに今や山野に相当の樹木茂り居るを認めたり之亦日韓併合の賜なるべし 尚渡鮮に当り異様に感じたるは朝鮮人の懶惰的民族なることなり彼等は動物の如く路上に起臥するあり又市中を徒に徘徊し何等為すことなく遊びつつあるもの多し斯くては亡ぶるも当然なり。」(大正十三年三月) |
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米国クラークス会社主催観光団一行米国人農ジエイ、ビー、ボウム外四十名が大正十三年三月二十四日午前八時、京城駅着下り列車で入城した。
直ちに朝鮮ホテルに着いて、同日はホテル専属の朝鮮人通訳三名の案内で、昌徳宮、景福宮、その他有名な場所及市内を見物し、
翌二十五日午前八時二十五分京城駅発下り列車で北京に向け出発した。一行中のジエイ・ビー・ボウム外二名は次のような感想をもらした。
「朝鮮は常に騒然としていて、場合によっては私たち一行の旅行にも多少の危険があるかも知れないと懸念していたが、予想外に平穏無事なのは、日本の統治がよいことを証明している。 そして朝鮮の文化がわがアメリカ領フィリピンに比べ、より以上長足の進歩いているのが見られる。だんだん日本化して行く様子は日本の植民政策の成功と言うことができる。 アメリカ本国で朝鮮の山には草木がないと聞いていたが、今回の観光で鉄道沿線の状況を見たところ、今や山野に相当の樹木が茂っているのがわかった。これも日韓併合の賜にちがいない。 なお渡鮮に当たって、異様に感じるのは、朝鮮人が怠惰な民族であることである。 彼等は動物のように路上で寝起きする者があったり、市中をいたずらに徘徊し何もすることなく遊んでいたりする者が多い。これでは滅ぶのも当然である。」(大正十三年三月) |
朝鮮総督府 『調査資料第二十五輯 民間信仰 第一部 朝鮮の鬼神』 (昭和4年, 1929年)国立国会図書館デジタルコレクション (p.441-463) |
朝鮮の飲食法 (迷信医療)
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W・F・サンズ, 『極東回想記』 (1930年)Internet Archiveウィリアム・フランクリン・サンズ(William Franklin Sands、1874年 - 1946年)は、日本の植民地化の前夜に韓国で奉仕したことで最も有名な米国外交官だった。 |
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