「早稲田奉仕園の理事長は、八咫烏の鶴派と亀派の2大勢力を戦わせて利益を得る工作員の役割でした。早稲田奉仕園の理事長は、早稲田大学総長経験者が就く場合もあり、早稲田大学も戦わせて暗闇にする八咫烏の組織だったと見ています。八咫烏のベースにはキリスト教があり、2つの勢力を戦わせて封印する役目だったのです。」
早稲田奉仕園-wikiに記述がある早稲田奉仕園の2代目理事長の「山本忠興(やまもとただおき)」を追跡していきました。早稲田奉仕園-wikiには、『1935年には、奉仕園2代目理事長で、早稲田大学理工学部長を務めた山本忠興の働きにより、早稲田大学と協力して園内に「早稲田国際学院」を開校。1941年3月に日米関係悪化のためベニンホフが帰国した。
戸山ヶ原の陸軍施設に隣接する早稲田奉仕園は軍の接収の対象となるが、理事長の山本忠興が機知を働かせ、奉仕園を存続させるため尽力する。山本は、1942年に早稲田奉仕園の土地建物を早稲田大学に譲渡し、そこに軍の要求の応える名目で「早稲田大学理工学部石油工学科」を新設したのであった』と記されています。
山本忠興は、芝浦製作所(現東芝)入所し、機械式(機械式走査方式)のテレビジョン研究が有名です。日本基督教青年会同盟委員長にも就きました。山本忠興の経歴の詳細はwikiに記載されています。『山本忠興(1881年-1951年)は、高知県香美郡岩村(現・南国市金地)出身。日本の電気工学者、発明家、教育者。[略歴]政治家山本忠秀の長男として生まれる。
しかし、母親の山本さがは入籍前に死去したため、忠秀の養子として育てられる。 1893年(明治26年)高知県尋常中学校進学、野球やボートなどスポーツに取り組み、英語や体操は得意だったが、数学や図画は不得意だった。1898年(明治31年)同校を首席で卒業し上京、1899年(明治32年)9月第一高等学校入学、剣道や野球、ボートの選手として活躍する。
1902年(明治35年)9月東京帝国大学工科大学電気工学科入学、在学中に植村正久の指導でキリスト教に入信。1905年(明治38年)同大学を卒業、芝浦製作所(現東芝)に入所。1907年(明治40年)9月11日に土田綾子と結婚し、後に3男3女を授かる。1909年(明治42年)4月から2年間、ドイツや米国などの欧米に留学した。
ドイツ・バーデン大公国カールス・ルーエ市工科大学のアルノルト教授やアメリカ・ニューヨーク州スケネクタディ市ジェネラル電気会社スタインメッツ教授から電気機械設計を学んだ。1912年(明治45年)6月に帰国し、同年7月に芝浦製作所の技術部製図係主任に就任。その後、叔父である竹内明太郎が新設に尽力した早稲田大学理工科に招かれ、1912年(大正元年)9月教授に就任。
1916年(大正5年)8月、逓信省電気事業主任技術者検定委員に就任。1917年(大正6年)7月16日、工学博士の学位を取得。1922年(大正10年)に早稲田大学理工学部長に就任、電気工学科教務主任も歴任した。1923年(大正12年)4月、鉄道省教習所講師に就任。電気機械の発明者として知られ、とくに機械式(機械式走査方式)のテレビジョン研究が有名。
1928年(昭和3年)に川原田政太郎とともに研究に着手、翌年の1929年(昭和4年)映像の出力に成功、2年後の1930年(昭和5年)3月17日には東京朝日新聞大公会堂にて、テレビジョンによる1.5m角の画面に受像する公開実験に成功した。同年12月11日、この発明により十大発明家の一人として宮中賜餐の栄に浴した。1931年(昭和6年)に昭和5年度の朝日賞を受賞。
山本と川原田のテレビジョン研究は1937年頃まで続いた。1932年(昭和7年)10月には、発明奨励委員に就任している。1940年(昭和15年)5月には工業所有権利制度調査委員会委員に、翌年の1941年(昭和16年)4月には学術研究会議議員に、1946年(昭和21年)3月には学術研究会議学術文献調査研究特別委委員会委員に、それぞれ就任している。
同年9月には文部省社会教育委員に、翌年の1947年(昭和23年)2月には文部省社会局職業教育委員会委員と外務省主管日本代表学術文献目録監修に、それぞれ就任する。同年9月には文部省社会局通信教育委員に就任している。1944年(昭和19年)2月11日、電気工業に関する発明および改良等の功績により、藍綬褒章を授与されている。
1934年(昭和9年)に早稲田大学を辞任し、7月に日本基督教青年会同盟委員長を務める。翌年の1935年(昭和10年)9月に私立早稲田国際学院長に就任し、12月には内閣調査局専門委員を務めた。1937年(昭和12年)10月4日に臨時電力調査会委員に就任し、1938年(昭和13年)2月に東京基督協会青年会理事、4月には電力審議会委員に就任した。
1943年(昭和18年)5月、再び早稲田大学理工学研究所所長に就任する。1944年(昭和19年)5月1日には早稲田大学の名誉教授を授与される』。奉仕園2代目理事長の山本忠興の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「プレアデス」と伝えられました。闇の叡智を有するプレアデスの存在がサポートしていた工作員の役割だったようです。
次に、元早稲田大学総長・元早稲田奉仕園理事長の「村井資長(むらいすけなが)」をピックアップしました。早稲田奉仕園-wikiには『早稲田大学理工学部石油工学科の設立には、応用化学科に所属していた村井資長、山本研一、大坪義雄が主となって尽力した」とあります。村井資長は、統一教会と間で法廷闘争を通じたプロレス工作の疑惑が浮かびます。
村井資長の経歴はwikiに記載されています。『村井資長(1909年-2006年)は北海道茅部郡石倉村(現・森町)出身の工学者、早稲田大学名誉教授、日本カナダ教育文化交流財団理事長。早稲田大学第10代総長、早稲田奉仕園第6代理事長、恵泉女学園大学初代学長。キリスト教プロテスタントである。次男村井吉敬は早稲田大学客員教授を務めた。
旧姓日野西。[経歴]〈生い立ち〉北海道茅部郡石倉村(現・森町)濁川の広大な日野西牧場で農場を経営していた日野西長輝(日野西光善三男)の三男として生まれた。日野西家は京都の堂上華族。1916年に父親が日本統治下の朝鮮・慶尚南道の村井進永農場の農場長に就任したため翌年から一年間、現地の内地人用小学校に通う。
小学校3年より叔母の家があった岡山県成羽町で暮らし、旧制岡山県立高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)を経て、父親の帰国により東京の私立高千穂中学校に転校し卒業。在学中に肋骨炎を患い4か月ほど病床で過ごした。叔母日野西薫子が妻に先立たれていた村井吉兵衛のもとに嫁いだことで日野西家と村井家の関係が生じた。
村井吉兵衛は当時のタバコ事業で成功した新興財閥である。16歳で村井吉兵衛の孫の禎子と婚約(婿入り)。村井家で暮らしはじめ、第一早稲田高等学院を経て1933年に早稲田大学理工学部応用化学科(燃料工学専攻)卒。早稲田大学大学院理工学研究科修士課程修了、早稲田大学大学院理工学研究科博士課程修了。養祖父の村井は大隈重信夫妻の遠縁で親交があり、早大の維持員も務めていた。
〈村井家に婿入り〉1938年村井薫子の養女となっていた禎子とかねてから決まっていた通り婿養子縁組婚姻、村井資長と改姓した。千葉県市川市に新居を構え、禎子の恩師・河井道の指導の下、キリスト教伝道所と日曜学校を始め、幼稚園を開設した。早稲田大学理工学部助手、専任講師、助教授を経て、1954年早稲田大学理工学部教授に就任。
第一理工学部長、教務部長、常任理事を経て1970年-1978年に第10代総長を務める。総長として、早稲田大学100周年記念事業として、新キャンパス造成、新学部設置計画を推し進めた。〈第3次早大闘争〉1972年の早大リンチ殺人川口大三郎事件に端を発した第3次早大闘争時には、総長団交を求める一部学生に授業中に拉致される騒ぎに遭った。
同年、リンチ被害者の母親を館長に「川口記念セミナーハウス」の建設を早大原理研究会から提案され、主旨に賛同した村井夫妻は自身の伊豆の別荘を提供、被害者母に大学から払われた見舞金と原理研系の「早稲田学生新聞会」による街頭募金を原資に建設が進められ、1976年に完成したが、登記簿に統一教会の修練場とあるのを知った。
驚いた村井が別荘地を売り払おうとしたところ、セミナーハウス建設委員会と妻の禎子の署名入りで建物と土地を統一協会に寄進する旨の「お願い書」の存在を知る。妻ともども騙されたと感じた村井は1978年にルポライターの茶本繁正らと「原理運動を憂慮する会」を結成し、その代表世話人となった。
会員には上智大学長ヨゼフ・ピタウ、評論家松浦総三、元ルーテル神学大学長岸千年、東京神学校校長尾山令仁、矯風会会頭谷川和子、参議院議員市川房枝、学者家永三郎、隅谷三喜男、映画監督岡本愛彦、作家吉原公一郎、牧師森山諭らが名を連ねた。「週刊ポスト」1978年9月1日号の記事「私たちは地獄の底で統一教会の正体を知った」でこの川口記念セミナーハウス事件が報じられた。
発行元の小学館とともに統一教会から名誉棄損で提訴され、10年の係争ののち、1988年に東京高裁の仲介で和解、1992年には「週刊文春」7月16日号に「統一教会 桜田淳子、山﨑浩子にダマされるな!--元早大総長が集団結婚を徹底批判」と題された手記が掲載され、再び統一教会から名誉棄損で版元の文芸春秋社とともに訴えられ、8年の裁判の末、和解した』。
個人的には、村井資長と統一教会との法廷闘争は、裏で繋がっているプロレス工作だと見ています。支配層・八咫烏は、一般大衆を騙して暗闇にするために、法廷闘争を通じた真実を隠す工作手段としていると感じます。係争対象となった「川口記念セミナーハウス」は埼玉県川口市にあります。
《川口警察署の壁にある統一教会のマークは人々が支配層に気づくための有名人のコルナサインと同じヒント》にありますが、埼玉県川口市は、サンカ工作員のクルド人が多く居住する場所であり、背後に統一教会が松利権を握っていると見ています。埼玉県川口市に「川口記念セミナーハウス」を建設する段階で、背後の統一教会の存在は分かっていたと推察します。
元早稲田大学総長・元早稲田奉仕園理事長の村井資長の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「統一」と伝えられました。やはり、支配層・八咫烏亀派の胴元工作組織・統一教会の工作員の役割だったようです。次に、第6代早稲田大学総長(1946年-1954年)の「島田孝一(しまだこういち)」を追っていきました。
早稲田奉仕園-wikiには、下記のように島田孝一についての記述があります。『1949年4月1日に早稲田大学と基督教新生社団(日本バプテスト伝道社団の後身)の間で、早稲田奉仕園の土地・建物(1943年/昭和18年1月取得)の返還契約が締結され、1954年3月31日に土地・建物が旧所有者である基督教新生社団へ返還された。
こうした戦後の早稲田奉仕園の復興期には、キリスト教徒であった島田孝一が早稲田大学総長(第6代)を務め、復興を支援した』。早稲田大学の元総長・島田孝一はキリスト教徒でした。島田孝一の経歴はwikiに記載されています。『島田孝一(1893年-1987年)は、現・東京都千代田区四番町出身の交通経済学者。商学博士。早稲田大学名誉教授。
第6代早稲田大学総長(1946年-1954年)、流通経済大学初代学長(1965年-1974年)、日本交通学会初代会長(1941年-1973年)。初代日本私立大学連盟会長(1951年-1955年)。[来歴]東京麹町の番町(現・千代田区四番町)で生まれた。島田三郎の長男。父・三郎は民権運動の功労者で、衆議院議長に挙げられた。
1906年に東京高等師範学校附属小学校(現、筑波大学附属小学校)、1911年に東京高等師範学校附属中学校(現、筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。1917年、早稲田大学大学部商科を卒業。ペンシルベニア大学ウォートン・スクールへ留学、帰国後は早大にて交通経済学、鉄道経済論、電車及自動車論等を講じた。
太平洋戦争(大東亜戦争)の敗戦後、GHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)による教育機関の民主化、反軍国主義化の苛烈な措置が取られてゆく中で、早稲田大学においても大学総長の公選制が導入され、1946年5月の総長選においては敗戦による歴史観の転換を受け、当時の史学界でカリスマ的な存在となりつつあった津田左右吉が選出されたものの、津田が総長就任を固辞した。
そのため、再選挙の結果島田が当選し、同年9月より第六代早稲田大学総長に就任した。占領下の学制改革による旧制大学から新制大学への移行に伴い大学が混乱する中で、専門部・夜間専門学校の廃止と第二学部の発足、教旨の改訂、新制大学院修士課程・博士課程の設置など、大学教育の制度や価値観が変わりゆく中、戦後の再出発を図る早稲田大学の環境整備に務めた。
1964年に早稲田大学を定年退職。日本通運株式会社に設けられた、大学設立準備委員会(学校法人日通学園及び流通経済大学設立のために設けられた組織)に、顧問として委嘱され、交通・物流関連のカリキュラム策定に携わる。1965年、学校法人日通学園理事及び流通経済大学の学長に就任。1974年、流通経済大学学長を退任。
日通学園の理事は1984年まで継続。[人物]早稲田大学総長として私学の振興に尽くし、首都圏整備委員・都市交通審議会長等として交通対策樹立に貢献した。1967年に発足した国鉄諮問委員会の小委員会では主査を務め、赤字線区の整理を提言した「赤字83線」答申に関わった。
島田について流通経済大学学長の佐伯弘治は「資性温厚で、感情を露にされるようなことのない方であるが、時折、反権力的なキリッとした姿勢をのぞかせることがあった。」と述べている。趣味は登山、スキー、ゴルフ。宗教はキリスト教。住所は東京都千代田区四番町、新宿区戸塚町』。
早稲田大学総長(第6代)・島田孝一の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「DS。術師」と伝えられました。八咫烏亀派に重きを置くトカゲ・レプタリアンをベースとする米国中心のDSの松利権網における術を有する工作員の役割を担っていたようです。次は、早稲田大学の第14代総長の「奥島孝康(おくしまたかやす・早稲田奉仕園第7代理事長)」です。
早稲田奉仕園-wikiには、『1998年には早稲田大学元総長(第14代)の奥島孝康が早稲田奉仕園第7代理事長に就任した』とあります。奥島孝康の経歴はwikiに記されています。『奥島孝康(1939年-2024年)は、現・愛媛県北宇和郡鬼北町出身の法学者。位階は従三位、勲章は瑞宝大綬章。専門は会社法。学位は、法学博士。大野實雄(早稲田大学名誉教授)門下。
早稲田大学名誉教授、早稲田大学第14代総長(1994年11月-2002年11月)、白鷗大学第5代学長(2013年4月-2021年3月)、日本高等学校野球連盟第6代会長、ボーイスカウト日本連盟第10代理事長(2010年 - 2020年)、ボーイスカウト日本連盟第9代総長、元埼玉県公安委員会委員長を歴任した。
大京社外取締役、日本インターネット新聞株式会社取締役、フジ・メディア・ホールディングス監査役、構造計画研究所監査役。公益財団法人朝鮮奨学会評議員。高知県宿毛市名誉市民。アナウンサーの下平さやかと菊間千乃はゼミ生(二人とも1995年卒)。天理大学教授の奥島美夏は娘。学長時代は下記にある通り長年の懸案であった革マル派追放に尽力した。
他にスポーツ推薦の導入や広末涼子の入学等で話題を呼んだ。高野連会長時代には社会問題化していた強豪校の特待生問題の解決に奔走した。[早大幹部として]〈労務・教育雇用〉教務部長時代に助手の任期制を全学に導入し、図書館長時代は図書館業務のアウトソーシングを積極的に進めた。
〈スト破り〉法学部長在任時以前より全学で2年に一度期末試験ストライキが行われていた。法学部の多くの講義が前期試験を行わずに期末試験のみで評価を行っていたため、ストライキの年は年度内でなく4月に試験が行われていた。奥島はストライキの年に当たる1993年度期末試験を年度内に強行してストライキの慣例を破った。
〈対革マル派〉早稲田大学が革マル派の拠点校となり、年額約2億円が大学から革マル派にながれ、反対の声が封殺されていることに危機感を抱いた奥島は、法学部長・総長としての任期中の計12年にわたり、革マル派をキャンパスから追放することに尽力した。
〈超高額寄付金の要求〉2001年から2003年に行われた早稲田実業学校初等部の入学試験の2次試験(面接)で、面接官だった奥島自らが、同伴の保護者全員に300~350万円の寄付金を要求した。これは募集要項記載の6~7倍の金額だった。東京都はこれを問題視し、学校側に改善通達を出した。しかし奥島がこの改善通達を無視した。
そのため、東京都は同学校法人に対して2003年度経常費補助金の20%(約1億242万円)の返還を請求した。奥島は文部科学省の中央教育審議会委員などを辞職した。この高額寄付金要求事件により、早稲田実業は都や文科省から睨まれるようになったばかりか、保護者からも学校の拝金主義に対し厳しい目が向けられるようになったと指摘される。
〈高野連会長として〉・学生野球憲章を改定し、元プロ野球選手の学生野球指導資格回復制度を作った。・2012年8月23日に行われた第94回全国高等学校野球選手権大会の閉会式の挨拶で「とりわけ残念なのは、花巻東の大谷投手をこの甲子園で見られなかったことでした」と発言。その直後「(岩手大会予選決勝戦で花巻東に勝利した)岩手県代表の盛岡大付を侮辱し、大変失礼ではないか」という批判の電話やメールが寄せられた。
〈研究者として〉専門 ・コーポレート・ガバナンス ・株式会社の理論構造 ・フランス会社立法史』。早稲田大学元総長の奥島孝康は、高額寄付金の要求問題を起こし、エゴが大きな拝金主義的な人物の様相を呈しています。早稲田奉仕園第7代理事長で、早稲田大学第14代総長の奥島孝康の御魂が上がるよう意図して光を降ろしました。
「中国朝鮮族」と伝えられました。中国朝鮮族は、日本が統治していた中国満州が源流となる、八咫烏鶴派と亀派の両方の勢力に関わる八咫烏同和派です。八咫烏同和派は、八咫烏鶴派と八咫烏亀派を戦わせて利益を得る、汚く重たい闇の役割となります。次に、早稲田奉仕園の現・経営層の幹部について追跡していくことにしました。
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