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公表された藤村富美男氏の『退陣』を求める連判状…それ以前にもあった悪しき前例「タイガースでは選手がソッポを向けば監督を更迭できる」

2025年12月15日 13時41分

藤村富美男監督


◇コラム「田所龍一の『虎カルテ』」
 阪神タイガース90年の歴史の中で最も貴重といえる《お宝》が12月4日、球団から公表された。それは1956年(昭和31年)、当時、監督(選手兼任)だった初代ミスター・タイガース・藤村富美男氏の《退陣》を求める選手12人の連判状。いわゆる「藤村監督排斥事件」の物的証拠である。
 56年11月20日、当時、オーナーだった野田誠三氏(阪神電鉄社長)に宛てて提出された連判状が発見されたのは、野田氏が83歳で亡くなった78年のこと。本社相談役室の遺品整理をしている中で見つかった。
 見つけたのは当時、秘書室長を務めていた三好一彦元球団社長。歴代の球団社長が引き継ぎ管理してきた。現在95歳の三好氏は「いつまでも隠しておくべきものではない。歴史的資料としていずれ公表しなければならない」とずっと言い続けてきたという。そして今年、2月に吉田義男氏が亡くなり、4月には小山正明氏が他界して、連判状に名前があった人たち全員が鬼籍に入ったことで公表に踏み切った。12月4日から甲子園球場横にある「甲子園歴史館」で展示されている。その全文をご紹介しよう。
 『我々壱弐名は過去一ヶ年半 優勝目的に藤村富美男監督のもと寝食を共にし、努力邁進して来ました しかしその人間性を細部にわたり検討したる結果、来年度公式戦に藤村富美男監督の指揮下に入り、行動することは出来ません 依って藤村監督の退陣を要求します   昭和参拾壱年拾壱月廿日』
 そして金田正泰氏を筆頭に12人が署名し母印を押している。その12人は右から―、かっこ内は当時の年齢。
金田正泰氏(36)
真田重蔵氏(33)
白坂長栄氏(34)
田宮謙次郎氏(28)
石垣一夫氏(25)
大崎三男氏(24)
渡辺省三氏(23)
小山正明氏(22)
西尾慈高氏(22)
三宅秀史氏(22)
徳網 茂氏(32)
吉田義男氏(23)
 選手が監督の退陣を要求する―という前代未聞の《事件》がなぜ、起こったのだろう。実は選手が監督を更迭する―という珍事は、これが最初ではなかった。前年の55年(昭和30年)、第8代監督に就任した岸一郎氏をわずか33試合で解任に追い込んでいるのだ。
 54年オフ、阪神球団は放棄試合の責任をとって退任した松木謙治郎監督の後任に頭を痛めていた。候補は2人いた。藤村富美男氏(選手兼任)と2軍監督の御園生崇男氏。ある阪神OBによると「この2人はむちゃくちゃ仲が悪く、藤村さんは選手たちの評判が悪かった」という。困った野田オーナーが抜てきしたのが岸一郎氏(当時61歳)。
 岸氏は早大から社会人野球の南満洲鉄道(満鉄)へ進み、プロ野球の経験がなかった。そんな監督が藤村氏や金田氏ら猛虎の猛者たちを押さえられるわけがなかった。
 案の定、ベテラン選手たちは公然と「じじい」と呼び、岸監督の指示に従わない。ある試合で一塁に出塁した藤村選手に代走を出そうとしたところ「オレはまだ試合に出たいんじゃ、ベンチに帰れ!」と代走の選手を追い返したという逸話まで残っている。そして球団は同年5月21日、33試合を消化した時点で「岸監督は痔の治療のため休養。代わって藤村助監督(選手兼任)が指揮をとる」と発表した。OBはこう解説した。
 「この事件はプロ野球経験のない素人の監督が退陣したという単純な事件ではなく、タイガースでは選手がソッポを向けば監督を更迭できる―という悪しき前例を作った事件なんだ。選手に芽生えたその意識が、翌年の藤村監督排斥事件につながっている」
 球団創設50周年を機に編集された球団史『阪神タイガース昭和のあゆみ』には、藤村騒動のことをこう記している。
 「藤村富監督に対する不満は、それまで水面下で揺れ動いていた。球団をよくしたいと願う気持ちがその底流にあったと思われるが、せんじつめれば『明るいチームで優勝を遂げたい』という選手たちの素朴な発想によるものである」
 だが、真相はそんなものではなかったようだ。監督代理から「代理」が取れた藤村氏はやや傲慢になっていったという。
 「もともと、黙ってオレについてこい!というタイプの人。それに当時、球団内にはそんな藤村さんを親分とする《藤村派》と前監督の松木謙治郎氏を長とする《松木派》があり、2つの派閥は非常に仲が悪かった。当然、松木派の選手たちは冷遇されるし面白くない。藤村事件はそんな両派閥の権力争いみたいなもの」(前述のOB)
 余談だが、この2派閥は後に「松木派」が村山実氏を頭とする「村山派」となり長い間、タイガースOB会を牛耳った。一方「藤村派」は「クマさん」のニックネームで監督を務めた後藤次男氏が引き継いだが、人の好さが裏目となり「村山派」に対抗する勢力とはならなかった。そんな「反村山派」が村山氏に対抗するために担いだのが吉田氏―といわれている。
 「吉田さんは自ら派閥を作って行動するような人ではなかった。でも、村山氏に対抗する実績のある人物は吉田さんしかいなかった」とあるOBは解説した。もちろん、現在のタイガースにはそんな《派閥》は存在しない。
 話を「藤村監督排斥」騒動に戻そう。事件の収拾に当たったのは、病気で倒れた田中儀一氏に代わって球団代表となった戸沢一隆氏だった。戸沢代表は連判状に関わった選手一人ひとりとじっくり話し合った。その結果、すべての12人すべての選手が藤村監督に不満を持っているわけではないことが判明した。とくに連判状の後半に署名している20代の選手たちは何の抗議文なのか分からずに署名した選手が多かった。
 最年少22歳の小山氏は「何が目的なのか分からないまま署名してしまった」とずっと後悔していたというし、「吉田さんも当時は先輩たちの言うことについていくしかなかった。藤村さんには本当に申し訳ないことをしてしまった―とずっと言い続けておられた。そんな吉田の名誉も回復してあげたい」と南信男元球団社長は語った。
 戸沢代表の粘り強い説得の末、その年の瀬も押し迫った12月30日、連判状の代表選手・金田氏と藤村監督が和解、約50日にも及ぶ騒動が決着した。2人を握手させた戸沢代表は後年、騒動を振り返ってこう語っている。
 「世間を騒がせてまことに申し訳ない。阪神球団の歴史にも避けて通れない一ページを残した。一方、グラウンドで元の姿に戻ったチームの姿に接しホッとした。感無量だった」(「昭和のあゆみ」より)
 ▼田所龍一(たどころ・りゅういち) 1956(昭和31)年3月6日生まれ、大阪府池田市出身の69歳。大阪芸術大学芸術学部文芸学科卒。79年にサンケイスポーツ入社。同年12月から虎番記者に。85年の「日本一」など10年にわたって担当。その後、産経新聞社運動部長、京都、中部総局長など歴任。産経新聞夕刊で『虎番疾風録』『勇者の物語』『小林繁伝』を執筆。
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