宮内庁は応神天皇陵として管理している大阪府羽曳野市の前方後円墳「誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳」(5世紀前半、全長425メートル)について、1935(昭和10)年に発見した石室の写真や図面を一般に公開した。
石室は植樹の作業中に前方部の地中から姿を見せ、当時の宮内省が発掘調査をして確認した。3月刊行の「書陵部紀要第77号」に掲載された。
約90年前に天井石を発見
紀要によると、誉田御廟山古墳では34年9月の台風で倒木被害があった。
35年10月8日、前方部の最も高い位置の墳頂で、新たに木を植えるための穴(直径約60センチ)を掘ったところ、地下約30センチの位置で、厚さが約30センチもある石材と十数点の埴輪(はにわ)片が見つかった。作業は中止され、穴はいったん埋め戻された。
10月27日、宮内省から派遣された考古学の専門職員が発掘調査を実施した。当初、植樹のために開けた穴の範囲をあまり拡大しないように土砂を取り除き、石材の位置や特徴を調査し、測量や写真撮影も行った。
当時の石室は、石を積み上げて造った空間を、大きな石材「天井石」で覆った竪穴式石室が主流だった。発見した石材は天井石の一部とみられ、その下部からは、板状の石を積み重ねて壁にした状況も確認した。
周辺でボーリング調査を行い、天井石の大きさは南北約7メートル、東西約4・5メートルだったという。石室の内部は確認せず、再び埋め戻して調査は1日で終了した。
発掘調査の結果は「恵我藻伏岡陵(えがのもふしのおかのみささぎ)前方部頂上発見石材調査報告」にまとめられた。
これまで一般公開されていなかったが、内容は関係者の間では知られていた。
24年に測量調査を実施
宮内庁は2024年9月11日、報告書を基に前方部墳頂で石室の位置を確認する測量調査を実施した。
墳頂には土壇(南北約29・3メートル、東西約34・5メートル、高さ約3・5メートル)と呼ばれる大きな土の高まりがあり、石室は土壇の中に設けられていることを確認した。
誉田御廟山古墳は、国内で2番目に大きな前方後円墳で、古代の有力者による広域連合体「ヤマト王権」の大王の墓とされる。学界では前方後円墳のあるじは、後円部墳頂の石室に葬られることが定説で、大王はここに眠ったようだ。
葬られた人物は?
では、前方部墳頂の石室には、どういった人物が葬られたのだろうか。
古墳に石室などの埋葬施設が複数造られることは珍しくはない。
宮内庁が管理する古墳の埋葬施設が発掘調査されることは極めてまれだが、その他の古墳では調査例が数多くあり、埋葬施設の位置に注目した研究も進んでいる。
前方部の石室では後円部に比べて、武具の甲冑(かっちゅう)や鉄製の矢尻の出土は少なく、出土した人骨が女性であることが多い傾向にあるという。
また、清家章・岡山大教授(考古学)の研究では、一つの古墳や古墳群には親子やきょうだいを基本とする血縁者のみが埋葬され、嫁や婿ら外部から来た家族は出身集団の墓に葬られているという。
これらの説から想像すると、誉田御廟山古墳の前方部の石室に葬られたのは大王の配偶者ではなく、血縁の女性やきょうだいではないだろうか。【高島博之】