実態の見えにくい「家庭料理のリアル」を少しでも知りたいとククパ有料登録をして以来、検索窓に毎日さまざまなワードを放り込んで読み耽った結果、僕はもはや「クックパッド論」だけで少なくとも2万字以上は書けそうな状態になっています。
そしてこの質問は、まさにその論の核心部分です。論のプロット作りも兼ねて、要点を順に説明していきます。
クックパッドが誰向けかわからない……。僕もまさしくそう思っていました。そして、ククパを見るよりは、きょうの料理、白ごはん、食品メーカーの公式サイトなどを見た方がいいのでは?と書いたことも何度かあると思います。つまり、信頼度の高い無料レシピは他にいくらでもある、と。もしかしたら質問者さんにも影響を与えてしまったのかもしれません。
しかし、すみません、今ようやくわかりました。そのアドバイスは的外れでした。
さて家庭料理においては、言うまでもなく、食材の在庫管理が極めて重要です。作るものを決めて、買い物に行って、レシピ通りのもの作る、正直そこまでだったら極論「誰にでもできる」わけです。問題はその時使い残した食材をどう展開していくかですよね。
料理慣れしていれば、何がどれだけ在庫されていようと、そこから瞬時に「名もなき家庭料理」を無限に錬成できます。もしくは、在庫一揃いから連想ゲーム的に「名前のある料理」を思いつき、その料理のレシピを検索することができます。キャベツ使っちゃわないとなあ、あ、ピーマンも一個だけ残っているぞ、そうだ回鍋肉だ、豚肉だけ買ってこよう……みたいな。
そういうケースであれば、こういうことが言えます。
「回鍋肉なら、クックパッドより、きょうの料理を見た方がいいですよ。より本格的なものを目指すなら辻調もおすすめです」
ところが、話はそういうことではないのです。名もなき料理を錬成するのも、名前のある料理を思いつくのも、誰にでもできるわけではないんですよ。誰にでもできると思ってしまうのは、ベテラン勢、ないし食や料理に特別強い興味を持っている人々の驕りです。
最近知ったのですが、クックパッドユーザーの最多層は20〜30代の女性だそうです。思っていたより若くてびっくりしました。つまりこれはおそらく、料理歴が浅い子育て中のお母さんたちがメインユーザー、ということになるでしょう。趣味で料理をしているわけではない、そして常にタスクは満載、リソースは最小。
そうなるとここでクックパッドが浮上してくるんですね。象徴的なのは、その検索窓には薄字で「使いたい食材は?」と書いてあることです。「作りたい料理は?」ではないんですよ。
そしてクックパッドは実際に、「名も無き家庭料理」の膨大なデータベースでもあります。先日「サラダ」で検索した話をしましたが、その検索で出てくるものの大半は(少なくとも人気上位のものは)、サラダと呼んでいいのかどうかも微妙な、名も無き料理なのです。まあ便宜的に一応名前が付けられてはいるんですけどね。
そしてこれは、単にデータベースと検索機能だけの話ではありません。むしろ重要なのは「ええんやで」という安心感の提供です。
サラダにちくわともやしを入れてもええんやで。マヨネーズさえ入れときゃサラダなんやで。
ポトフが味噌味でも別にええんやで。
酢の物にはとりあえずカニカマ入れといたらええんやで。
そういう「赦し」が得られるんですね。
そして有料登録すると人気順の検索ができますから、その赦しはさらに強化され、圧倒的な安心感が生まれます。これだけ多くの人に赦されているレシピなのであれば安心だ! みたいな。毎日孤独に奮闘している彼女たちにとって、これほどの救いがありましょうか!
さらにクックパッド全体から伝わってくる傾向として「いかにも子どもが食べてくれそう」というものがあります。いろんな野菜を一度にたくさん食べてもらえそうなレシピは特に人気があります。決して海原雄山先生も納得!みたいなレシピが求められるわけではありません。そんな道楽に付き合ってる暇は無い。雄山先生は無限〇〇にキレ散らかすでしょうが、誰もおめえの相手してる暇はねえんだよ。
繰り返しになりますが、料理慣れしていれば、料理に詳しければ、この「ええんやで」も自力で錬成して、どのくらいのええんやで加減なのかも判断できます。しかしそれができる人は極めて限られています。
例えば白ごはんドットコムは、奇跡的なまでに優れたサイトだと思いますが、赦しを与える機能はあまりありません。わかりやすく合理的でありつつ海原先生も納得のレシピばかりですが、子どもが野菜をバクバク食べてくれるなら手段を選ばない、腹が決まった人々が求めるものが見つかるとは限りません。なぜならそこにあるのは「名前のある料理」だからです。
家庭料理の中心はあくまで名も無き料理であり、クックパッドは名も無き家庭料理生成サポートシステムなのです。そしてそれは単なるデータの集積ではなく、互いが互いを赦し合う、救済の地でもあるのです。