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諸葛孔明をゆく3──"五丈原"から見える世界 【陝西省宝鶏市・岐山五丈原】

星落秋風五丈原…。

西暦234年8月、諸葛亮(字は孔明)は、五丈原の陣中にて没しました。
享年54歳。

正史『三国志』は、その最期を淡々と記しています。

諸葛亮が最後に見ていたのは、どんな風景だったのか。
今回は、陝西省宝鶏市の岐山で「五丈原」を巡ります。

1.山脈の先にある「五丈原」


西暦234年。
劉備から蜀を託された諸葛亮にとって、魏を打倒することは生涯の悲願でした。

当時の蜀(現在の四川省)から、魏の首都・洛陽へ攻め上がるには、大きく二つのルートがありました。

一つは、長江を下り、荊州を押さえたうえで北上するルートです。
これは当初、蜀が一貫して重視していた戦略でした。

しかし219年、関羽が荊州を失い、討たれたことで、この選択肢は事実上閉ざされてしまいます。

残されたもう一つの道が、蜀から直接北上し、渭水流域へ抜け、そこから東進するルート──いわゆる「北伐」です。

しかしこの北伐には、文字通り大きな壁が立ちはだかっていました。
それは要塞でも、城壁でもなく、自然の壁「秦嶺山脈」です。

秦嶺山脈の平均標高は2,000〜3,000メートル。

最高峰・太白山は3,767メートルと、富士山とほぼ同じ高さに達します。

富士山と決定的に違うのは、この高さの山が一峰ではなく、連なって続く山脈だという点です。

まさに、避けて通れない壁でした。

しかも目的は山越えそのものではありません。

山を越えた先で、数万規模の軍を維持し、魏軍との決戦に勝利すること。

そのために諸葛亮は、軍隊と兵站を丸ごと抱えたまま、この山脈に挑む必要があったのです。

下の写真は、五丈原側から見た、秦嶺山脈に向かう桟道です。
このように崖に杭を打ちながら、少しずつ道を確保して進むのです。

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「五丈原」は、その秦嶺山脈を越え切った先、標高およそ500〜600メートルの平地に位置します。

諸葛亮は生涯で五度、北伐を試みました。

その第五次北伐における、最後の戦いの舞台──それが、この「五丈原」でした。

2.正史『三国志』に見る「五丈原の戦い」


「五丈原の戦い」を正史『三国志』はどのように伝えているのでしょう?

『三国志・蜀書・諸葛亮伝』を見てみます。

十二年春,亮悉大众由斜谷出,以流马运,据武功五丈原,与司马宣王对于渭南。

十二年の春、諸葛亮は全軍を率いて斜谷を進み、流馬による補給を行いながら武功の五丈原に陣を敷き、渭水の南で司馬宣王と向かい合った。

234年、諸葛亮は、第5次北伐を始めます。

「司馬宣王」というのが司馬懿のことです。
この時点では、司馬懿は王ではないのですが、後に司馬一族が魏を簒奪し、晋王朝を建てたことから、後の王の称号を送られています。

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五丈原の資料館にあった第5次北伐路線図

「流馬」というのは、諸葛亮が北伐で用いたとされる兵站用の運搬装置です。

秦嶺山脈の険しい山道を、人力で兵糧や軍事物資が運べるように諸葛亮が開発した装置なのですが、詳しい機構についての資料は残されていません。

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「木牛流馬」の複製ですが、推定で作られています

亮每患粮不继,使己志不申,是以分兵屯田,为久驻之基。耕者杂于渭滨居民之间,而百姓安堵,军无私焉。

諸葛亮は、補給が途切れがちなことを常に悩みとしており、そのために思うような戦略を実行できないでいた。そこで兵の一部を農作にあて、長く陣を張るための体制を整えた。兵たちは渭水沿いの住民に混じって耕作を行ったが、住民は不安を感じることなく、軍の略奪もなかったという。

いわゆる「屯田兵」です。

この時より少し前、曹操は、荒廃した農地を前に、平時には兵士に農業をさせるという「屯田制」を編み出しました。

諸葛亮は、これを戦争の前線を維持するために応用しています。

前回、諸葛亮の統治能力の高さを紹介しましたが、ここでも諸葛亮は山脈を超えて突如五丈原に現れた蜀の大軍に現地民が動揺しないよう、秩序を維持に最大限の注意を払っている様子がうかがえます。

相持百余日。其年八月,亮疾病,卒于军,时年五十四。

蜀と魏の対峙は百日以上続いた。そして同年八月、諸葛亮は陣中で病に倒れ、軍中で没した。享年五十四歳だった。

54歳というと、現代では、まだ働き盛りの年代ですね。

これについては、後に『三国志』に注をつけた裴松之が、『魏氏春秋』の一文を引用し、補足をしています。

亮遣使者至懿军,懿问其寝食及事之烦简,不问戎事。使者对曰:“诸葛公夙兴夜寐,罚二十已上,皆亲览焉;所啖食不至数升。”懿告人曰:“诸葛孔明食少事烦,其能久乎!”

諸葛亮が使者を司馬懿の陣に送ると、司馬懿は戦の話は一切せず、日々の暮らしぶりや仕事の忙しさ、食事の様子だけを尋ねた。使者が答えて言うには、「諸葛公は朝早くから夜遅くまで働き、罰二十以上、すなわち身体刑を伴う重い処罰については、すべてご自身で目を通されます。食事量といえば、一日に数升も召し上がりません」と。それを聞いた司馬懿は、「諸葛孔明も、その様子では、長くは持つまい」と周囲に語ったという。

これは、相当に負荷がかかっていたとも言えるでしょう。

重い責任を一身に背負い、朝から晩まで判断を下し続け、食も細い。

不安だから動き続けるのか、動き続けるから心身のバランスを崩すのか…。

とにかく、現代風に考えるなら、産業医によるストレスチェックで専門医への相談を勧められるレベルです。

その様子を聞いた司馬懿が、彼の命の長さを案じたのも、無理からぬことだったのかもしれません。

及军退,宣王案行其营垒处所,曰:“天下奇才也!”

蜀軍が撤退したあと、司馬懿は諸葛亮の陣跡を一つひとつ見て回り、
「この男は、まさに天下の奇才である」と評した。

諸葛亮が撤退したのち、司馬懿は、蜀軍がいた五丈原の陣跡を見に行きます。

その様子を見て、司馬懿は、諸葛亮に対する最大限の賛辞を送るのでした…。

さて、『三国志・蜀書・諸葛亮伝』に描かれた「五丈原の戦い」は、このように簡潔なものでした。

これに、それぞれの伝記や裴松之の注、更に『三国志演義』を加えていくと、攻めてこない司馬懿の軍に女性物の服を送って挑発したとか、延命術を施す諸葛亮の儀式を魏延が邪魔して諸葛亮は自らの死を悟ったとか、諸々の物語が生まれてきます。

また、司馬懿が諸葛亮に送った賛辞や、諸葛亮の策を恐れて追撃をやめた話に絡んで、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」という故事も生まれました。

3.「五丈原」から見た景色


これまで見てきたように、実は「五丈原の戦い」は、「戦い」ではありません。

“秦嶺山脈を超えてやってきた蜀軍が、五丈原に陣を張って田畑を耕し、4ヶ月近く渭水を挟んで魏軍と対峙した後、撤退していった…”、これが全容になります。

現地に行っても、激しい戦闘の跡が残されているわけでもありません。

…が、そこは諸葛孔明終焉の地。

やはり、一度は行ってみたくなるものです!

※以下に紹介する「五丈原風景区」は2016年に訪れた際のものですが、ご了承ください。

五丈原の戦いの跡地である「五丈原風景区」は、西安駅から西に140kmほどいった所にあります。
車だと2時間程度で到着できる距離です。

西安と言えば、前漢の首都「長安」ですよ。
その長安に、騎馬隊はおろか、歩兵ですら翌日には攻め込んで来れるような距離に、突如、数万の敵兵が現れる。

こんな距離感を感じると、蜀軍が必死で秦嶺山脈を超えたくなる気持ちも理解できるというものです。

ただ、私は、この時、高速鉄道で隣の宝鶏市まで行き、車で五丈原を目指しました。

公共交通機関では、鉄道やバスを乗り継いで、随分歩かないとたどりつかない場所にあるのですよね…。


「五丈原風景区」には、「五丈原諸葛亮廟」が建てられています。

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五丈原 諸葛亮廟
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五丈原 諸葛亮廟の石碑

ほとんど観光客はいません。

中に入ると、一応、諸葛亮の像が祀られていました。

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諸葛亮の像

他にも、五丈原ゆかりの武将の像が置かれ、門には「魏延」と「馬岱」の像が並んでいます。

諸葛亮は死ぬ前、自分の死後に全軍を撤退するように遺言を残します。
諸葛亮の死後、その命令を遂行しようとする楊儀に対し、武闘派の魏延は反発し、命令を拒否します。
そこで楊儀は馬岱に命を出し、魏延を追撃・討伐させるのです。

その両者が、1800年経った今も、こんなところでずっと睨み合いしていないといけないのは、何だか不憫ですね。

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魏延の像
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馬岱の像

ここには、他にも、諸葛亮の「衣冠塚(いかんづか)」があります。

衣冠塚とは、遺体のない墓のことで、形見の衣服や冠だけを葬った墓になります。

言い伝えによると、諸葛亮が亡くなった時、蜀軍の将兵が、諸葛亮の衣服や冠をこの地に埋めて墓にしたということで、明の時代に修復をされているそうです。

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諸葛亮衣冠塚
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諸葛亮衣冠塚

さて、真偽はともかく、このあたりが、諸葛亮が陣を置いた場所ということで間違いはなさそうです。

そこで、改めて、ここから渭水を眺めます。

五丈原は、前述したとおり、標高500〜600mと少し高い所にあります。
五丈原から見渡すと、眼下に渭水と河辺の平地の景色が広がります。

しかし、よく見ると、渭水対岸の奥には、更に大地が広がっています。

これは、ここが黄土高原だということと関係があります。

黄土は、砂より小さな粒子が堆積してできた地形で、乾燥していると安定していますが、水による浸食に弱いという特徴を持っています。

そのため、渭水は黄土高原の黄土を削り取り、流域に標高の低い平地を作るのです。

下の画像は、五丈原から撮影した写真ですが、渭水の流れに沿って建物が並び、その向こうに更に少し高くなった台地が広がっているのがわかるでしょうか?

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五丈原から見た渭水
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上から見た模型


史料上、司馬懿は渭水北岸の「北原」と呼ばれる台地一帯に陣を置いたとされます。

でも、素人の私ですら、ここで五丈原の敵陣に相対するなら、対岸の台地に陣を張った方がいいと考えます。

蜀軍が進軍しようと五丈原を降りて渭水に向かえば、その動きは手に取るように分かりますし、川に降りてきた蜀軍なら、上からいとも簡単に殲滅させることができます。

なるほど…、これは諸葛亮も迂闊に動けないし、逆に司馬懿は危険を犯して攻め手にまわる必要はない。

しかも、蜀軍の兵士は山脈を超えてきてボロボロで、食べるものも不足して農作業を始めている始末。
諸葛亮はといえば、朝から晩まで働きづくめのストレスまみれで心身の限界が近づいてそう。

その状況であれば、司馬懿がいかなる挑発にも応じず、徹底した持久戦を選んだとしても、不思議はありません。

それを考えたら、諸葛亮の第5次北伐は、山脈を抜けた五丈原の対岸に魏軍が陣を敷いた時点で既に勝ち筋は見えにくくなっていて、司馬懿の余裕の態度も、諸葛亮の極度なストレスも、魏延の消化不良のイライラも、全て辻褄が合うように思うのです。

うむ……。

そんなことを、諸葛亮終焉の地で考えたら罰当たりかもしれない。

そんなことを思いながら歩いた「五丈原風景区」でした。

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五丈原から見下ろす風景




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福岡在住|中国滞在10年|全省・自治区・直轄市・特別行政区を踏破|「福岡人、中国の街道をゆく」発信中|街歩き・食べ歩き・歴史・文化・ビジネスを軸に、中国と福岡をつなぐ視点で綴ります|中国語・漢詩も時折。アジアを知り、福岡の未来をひらく旅へ。
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