【超かぐや姫!】食わないとCreate出来ない
拝啓
2030年9月12日の僕らへ
どんな今を生きていますか
好きだった唄はまだ聴こえますか
ニコニコ動画でボカロを聴き漁った過去を持つ一人のオタクとして
1人のクリエイターであり創作家として『超かぐや姫!』を見てきた。
個人的に、あの作品は「食事」ひいては「味覚」というものを、聴覚と同じかそれに次ぐくらいに重要なエッセンスとして扱っているように思う。
オムライスを食べるかぐや
パンケーキを奪うかぐや
ラーメンを食べるかぐや
彩葉が身体を壊した時におかゆを作るかぐや
製麺からしたジェノベーゼパスタを食べるかぐや
花火大会で出店の食べ物を食い尽くさんとするかぐや
白甘鯛を買ってきて寿司を作るかぐや
思い返せば、作中でかぐやは歌って踊ってない時間、大体、何かしらを食べていた。
彩葉手作りのパンケーキの思い出は、最終的にメンダコ(Japanese pancake devilfish)を常に抱えるほど、かぐや(ヤチヨ)にとっての大切な思い出になる。
これは何も、味も香りもしない月の世界から降りてきたかぐやだから描かれたという話ではない。
「ヤチヨにもう一度パンケーキを食べさせる」という動機で自分の進路を決める彩葉
本編に出てきた男性の、やや蛇足感すらあるのに差し込まれた「極上のワインは時間が経つほど深まる。悪いことばかりじゃないさ」という台詞
作中世界のツクヨミは、「全員が表現者であり大体の創作表現が出来る」というクリエイターにとって天国みたいな世界として描かれているし
一度機材を買ってしまえば「無料でも楽しめる娯楽」として、極貧生活を送る彩葉の生活を彩っている。
でも味覚の再現はできていないから、"家に届けてくれるようなサービス"は彩葉にはとても手が出ない。
食事と味覚というのをこの作品におけるキーに位置づけているのは
「デジタル化出来る感覚とデジタル化出来ない感覚」を対にしているからだと個人的に捉えている。
「食べるという感覚」だけは、デジタルとバーチャルで表現し得ないという作中の表現が、身体が現実に引き戻される導線として働いているように思う。
ヤチヨと、ヤチヨが作り出した世界(ツクヨミ)に生かされている彩葉も、現実に戻って小麦粉と水を混ぜただけのゴミマズパンケーキを食べざるをえない。
「ゴミマズパンケーキを食べるために現実に戻る彩葉」と
「味や香りが存在しない月に戻るかぐや」を
僕らは重ねて見ることが出来る。
全員が表現者であるツクヨミでも、飯だけは手前の身体で取らないといけないという身体性。
聴覚(歌・配信)は遠くまで(なんなら月まで)届くし多人数に拡張できるのに、味覚は、誰かが買って、作って、食べて、洗うという、極端にローカルで手間のかかる行為だ。
このローカルさ故の身体性こそが、味覚や嗅覚がない世界から来たかぐやの語る「月世界のつまらなさ」の本質でもあり
思念体として8000年もの間まともな"味"を体験できていないヤチヨにパンケーキを食べさせたいという彩葉の動機をさらに色濃いものにするし
実際にそれを達成することになるであろう未来が「超ハッピーエンド」として解釈できるエッセンスになる。
ヤチヨにとっては彩葉のパンケーキこそが8000と10年という時間の深まりを得た末の「極上のワイン」なんだよ!!という話。
創作(表現)は頭と耳でできるが、現実で生きることは口と胃を通らないと成立しない
という二重性は、この作品において更なる解釈の余地を孕んでいるように感じる。
食わないとCreateできない
ぼくが作品を観ていて真っ先に自分の姿を重ねたのは何よりも彩葉だった。
ぼくも自分の学費と生活費をバイトで稼ぎながら大学に通っているから。
594円が5食分という肌感が自分とまったく同じ。
あと基本的にいつもどっかしらに口内炎があるところも。
金の無さに妙にリアリティがあって苦しかった。
だからこそ、極貧生活を送っている時に、美味い飯という存在がなんかもう現実がどうでも良くなるくらいに心を豊かにする気持ちが、すっっげぇよくわかる。
マジでよくわかる…………
これは半年近く前の話だけれど友達とチェンソーマンのレゼ篇を見に行った時に
やっぱ昼くらいの時間だと外食の流れになるじゃないですか。もう前日のどこで食べる~?くらいの段階からめちゃくちゃ気まずくて。
いかんせんチケット代と交通費で月に自由に使える余り銭の大部分を持っていかれる。昼食に1000円近いランチとか払っていられない。
僕はおにぎりでも持参しようと思っていたんですが、結局なんやかんやで友達が奢ってくれて。
ひとり1600円くらいのランチだったんだけど、それが随分久々なちゃんとしたご飯で、もうめちゃくちゃ美味しくて。
普段、レンチン白米しか食ってなかった身としては、久々に"補給"じゃなくて"食事"をした感じで
あの瞬間のちゃんとした美味い飯に存在する温もりみたいなものの強烈さを、半年以上経った今でもぼくは忘れられない。
「なんで彩葉はかぐやを許せるんだ」とか「責任感強いキャラクターとは言えそんなに余裕無かったら追い出すだろ」ってみんな思うかもしれないんですけど
僕はあそこの彩葉の気持ちが、もうめちゃくちゃに、しわくちゃに分かってしまう。
かぐやの存在にも、大量の洗い物にも、貧乏生活にも、絶望的な気分になるし、どこにも余裕とか無いんだけど
うまい飯は「何も解決していないのにダウナーになることを許さないような強制力」というか、そういうものを持っている。
あんなに生活に余裕のなかった彩葉が、かぐやの存在を引き受けることを許してしまう最大の原因が
かぐやが作った生とうもろこしのポタージュを食べたときの「口に入ってきた飯が美味い」なのは
正直、めちゃくちゃリアルだとおもった。
「貧しさ」をよく分かっていると思う。
金ないやつほどギャンブルとドラッグに手出してさらに貧乏になっていくよね、と同種の「理不尽な幸福感(感だけ)」に近い。
所詮僕らは化学物質と2進数に操られている。
逆に、その手前で、友達が奢ってくれたパンケーキをかぐやが食ったシーンはドン引きしましたね。
少しでも贅沢な思いをして欲しいという友達からの優しさ。
しかも普段は小麦粉と水だけのロティみたいな奴食ってると判明した後なので余計に。
その後12万の機材買ってたときには、もう本当に、彩葉はこっからかぐやの存在をどう許すんだ??????って思ってた。
彩葉にとっての12万って「食事1000回分」ですからね。各々自分の食費に置き換えて許せるか計算してみればいい。
創作は頭と耳でできるが、生活は口と胃を通らないと成立しないという二重性と、食事の身体性とローカルさ、みたいな話をさっきもしたけれど
「594円が5食分」とか、かぐやが料理を作った後の大量の洗い物なんかは、まさにそのローカルさのコストそのもので。
味覚が重要視されるほど、作品は「創作の夢」だけでなく「その夢を支える生活コスト」を真正面から捉えることになっていて
この二重性は「貧困」と「表現」をつないで、彩葉とかぐやそれぞれが持つ「貧しさと飢え」を鮮やかに描いてくれる。
でも彩葉は流石にもうちょっと食べさせてあげて……
似たような生活している僕は身長173cmの体重45kgで低栄養性脂肪肝と痩せ型糖尿病で腎肝ダブルパンチで死んでますよ、、
いくら何でも2次元に生きる女子高校生には酷でしょう……
金が無いと創造的なことなど出来ない
貧すれば鈍する。倉廩実つれば則ち礼節を知る。
自己表現は満ち足りているものの特権だってマズロー大先生も言っていた。
哲学は特権階級の余暇だったし、小説で腹は膨れない。
Schoolの語源となるスコレー(schole)の本来の意味は「閑暇」だ。
貧しくも自由な芸術家として描かれたボヘミアニズムに傾倒したロートレックやらエドゥアール・マネやらはブルジョワジーの生まれでやっぱりセーフティーネットがあった。
本当に貧乏だったのはミュルジェールくらいのもんだ。
本当は作曲と音楽がやりたかった筈の彩葉が、東大法学部に妥協していたのは、母親との確執の上で現実の中を生きようとしているからだと感じる。
僕も本当は小説を書きたかったし書籍化の機会にも恵まれたけれども、親に小説家になりたいとは口が避けても言えず、結局は手に職を求めて医療系の大学に通っている......かなしいね……
上京にあたって、絶対に要らないしそんな暇なんてあるはずないとわかっていたのにキーボードを持ってきてしまう彩葉。
くすぶり続けている、創作と父への未練と、作ることに手を伸ばせないことを受容してしまう妥協感。
自分の成すことその理由を、環境やら他人やら自分の外側に置いてしまうことそのものが創作者、表現者にとっては一番の不幸だ。
みんな抑えてもいるんだよね、自分の気持ち。多分、もっと大事なもののために
「東大法学部が妥協?」と思うかもしれないけれど「ハッピーエンドじゃなくて普通のエンドでいい」と言っている彩葉からしたら東大が妥協ですよ。
かぐやと出会う前の彩葉にとっては、父親がすぐ近くに居て、ずっと父と音楽が出来るのが本当のハッピーエンドだったはずだから。
実家もそこそこ広そうで、幼い頃から音楽に触れられるくらいの余裕があって、今の日本では間違いなく裕福の分類に入る中流階級に生まれた彩葉からすると、バイトと生活の片手間程度に勉強頑張ったそこそこのエンドが東大っていうのも、また妙にリアルな価値観ですよね~なんて思う。
多くの人にとっては、これが「十分幸せじゃん」という風に見えてしまうし、ここにはきっと「自分の表現を作り出す側」に立ったことがあるか無いかという差が出てきてしまっているんだろう。
そして、自分の表現を作り出せるのはそれだけで贅沢なこともよく知っている。
心理学におけるIllusion of fluencyや知識の呪いのバリエーションなのかもしれないけれど、人間はスムーズに処理できる情報に直面すると、それが「簡単なものだ」と無意識に錯覚する傾向があるように思う。
TikTokなんかはUIを見ていてもこの流暢性を極限まで高めていて、準備と撮影に数ヶ月とか要していそうな動画が、1分満たないショート動画になって大量に流れてくる。
血を吐くような試行錯誤の重みを知る「作る側」と、「消費する側」との間の埋めがたい認識の断絶は益々広まっているように思う。
彩葉からすれば、東大とか本当にどうでもよくて。
ただ、自分を表現するための方法が無くて(厳密にはあったけど父親の死によってパンドラの匣と化して)
子によって自分を表現しようとする母親の言いなりになったり反抗することで自分を表現しようとしていたのが、恐れなしに自分の感情と意見をそのままに突き進むかぐやに毒された、という話であって。
そこを理解できない人から見ると、この作品は、確かに「やればハッピーエンドになれる」話に映ってしまうだろうな、と。
多分、それは違うんだ。
東大法学部というエリート街道は、彩葉にとって野心の発露ではなくて自分ひとりで生きていくためのセーフティーネットで。
キーボードを部屋の隅に追いやりながら、餓死と隣り合わせで鉄壁と赤茶にすがる彩葉の姿は、表現で食うことを諦めて現実的な道を選ばざるを得なかった僕らを投射して良いんだと思ってしまった。
でも文系で赤茶は多分やりすぎだったからちゃんと受験相談に乗ってもらったほうがいい。人を頼れるようになって偉いぞ彩葉
でも結果的にゴリゴリの工学に行ってるから無駄じゃなかったんだよな。
ちゃんと出来るだけのことをやっていたからこそ夢を実現できて偉いぞ彩葉
みんな「その"やる"がどれほど難しいか」を知らないのだ
「滅多に食えない世界でその"やる"を続けるのがどれほど意義深いか」を知らないのだ。
"裂け目の左右の楽な方"からの景色なのかもしれないな、と思う。
結果だけが飽食される世界で、不断の努力は才能に吸収される。
最近の技術なんかは、そういう「作る側」と「消費する側」の断絶をあまりにも都合よく活用していて、著作権ガン無視でクリエイティブは片っ端から消費されてn次元のベクトルへと精算されていっている(特にSeedance2.0とかAI系)
それらはいまだ幾らかの破綻はあれど誰もが創作者になりやすい時代の到来を予感させる。
5000文字の小説を3秒で生成する知能が、10年分の色彩を10秒で描くモデルが、10秒のアニメーションを作るのに10秒しかかからない未来がすぐそこまで来ている。
これからますます「表現のための技術」が民主化して作り出すことそのものが簡便になっていく世界で
最早、産みの苦しみについての断絶は理解されることがないと言うか、我々の時代にあった"旧い時代の艱難"として、埋まりはすれど救われることなく進んでいくような気がする。
こういう未来に牙を向こうとした時に、たとえばある意味では『竹取物語』を魔改造しているこの作品も同じ循環の中に立っているよな、とも考えてしまう。
著作権は法治国家だから主張できる手札として成立しているだけで、もし『竹取物語』の作者が(不詳だけど)『超かぐや姫!』の改変に激烈にキレているとしたら、彼の人の怒りはどこに向かえばいいのだろう?
クリエイティブのための技術は、良い意味では民主化されて、悪い意味ではますます本格的に"食えなく"なってきている。
この作品が日本ではなくNetflixという外資のマネーパワーを使って生まれたことの意味を、僕らはもっと真剣に考えなくちゃいけないのかもしれない。
グローバル化が進んで日本から世界に"モノヅクリ"のパイが広がったと見ることも出来るだろうけれど
犯罪発生率も低く、差別だとかポリコレだとか、そういう外圧が現実に対処しなきゃいけない問題として芽生えにくい文化的余裕があったが故に発展した日本のクリエイティブは、この先どうなるんだろう。
民主化という名の世界標準化の波が来ることが、日本のクリエイティブにとって良いものになるかはまだ分からない。
それでも「食えないとCreate出来ない」のであって、それは目の前の問題として迫ってきていて、僕らは否応なくその波に飲まれることしか出来ない。
みんなで笑顔で立てる方法を探していきたいね。
創作を諦めること無く、自己表現が正しさに抑圧されること無く、食えるクリエイティブの姿を、みんなで。



コメント