来週で東博の国宝展もいよいよ終わりです。正倉院展が出張していた前期に2回、後期に1回行ったのでもう満足ですが、来年の春までめぼしい日本美術展がないのがちょいとさみしいかな
さて今回、久しぶりに東大寺大仏のそばから出てきた陽宝剣、陰宝剣が展示されました、一番人が多い第一会場での展示ですが、前期は正倉院御物の展示の隅っこのコーナー、後期からはその正倉院御物の枇杷があった独立したガラスケースで展示されていますが、見たそのままはただのさびの塊の棒にしか過ぎないので展示の人気もいまいち、レントゲン写真などの説明もありましたがあまり見る人はいない、もっとも普段の東大寺ミュージアムで展示されている時もそれほど見る人はいないからしょうがないのかも
しかしこの宝剣、人気の正倉院宝物の中核をなす「国家珍宝帳」記載の聖武天皇の形見とされる宝物の中でも最高級のもの、もしこれが地中に埋めらてぼろぼろにならず、壮麗な姿のまま正倉院で保存され今に至っていたら、宝物の中でも1,2を争う人気になったであろう事は間違いありません、ちょっとかわいそうな存在です。
この宝剣、「国家珍宝帳」には「除物」という付箋が貼られて行方不明だったわけですが、同様に「除物」とされ行方不明であり、この陽陰の宝剣よりさらに価値が高い剣として黒作懸佩刀というのがあります。国宝展でそんな剣の事を考えていたら、この駄文を時々読んで下さる乱読様が最近ブログに書かれていました。
先を越された・・・いえいえ当方のような駄文とは異なり勉強になりますのでいつも読ませていただいています。
この乱読さまの文にありますように草壁皇子、文武天皇、聖武天皇の三代と藤原不比等の間でやりとりされたもので一種のレガリアとしての意味を持っていたと思われる太刀です。
陽陰の宝剣は聖武天皇の死後、光明皇后によって持ち出され、国家鎮護の祈りの供物として大仏の足元に埋められたとされています。それではこの黒作懸佩刀はいつ持ち出されたのでしょうか?
もちろん本当の事はわかりません、が妄想にすぎませんが、孝謙(称徳)天皇によって持ち出されたのではないかと思っています。孝謙(称徳)は父である聖武より「奴(奴隷)を王にするのも、王を奴にするのもお前の思うとおりにしなさい」と言われた天武-草壁の嫡流を継ぐ、誇り高い女帝です。
藤原仲麻呂の乱の際、女帝(当時は孝謙上皇)にとっては傍系でしかない淳仁天皇(天武の子、舎人親王の子)が自分と張り合うような立場になり、また淳仁が女帝側に拘束された後は仲麻呂によって塩焼王(同じく天武の子である新田部親王の子)が天皇位を継ぐような形になります。塩焼王は当時、氷上塩焼となって皇親身分でもなく、過去には流罪になるような不祥事起こしており女帝にとっては忌まわしい人物とされていました。
そのような女帝にとっては取るに至らぬ「輩」どもが皇位につく(あるいはつこうとしている)中、彼女は自分の誇り高き正統性を誇示する為、この時に父聖武の遺物であり、嫡流相続の証でもあったこの黒作懸佩刀を手元に置いたのではないかとおもっています。仲麻呂の乱の際、女帝は腹心で造東大寺長官であった吉備真備に命じて正倉院に収められていた武器の類を乱にて使用するために蔵から出させています。その際にこの太刀も取り出されて、女帝の手元に置かれたのではないでしょうか。
まあ根拠がないといえばそれまでですが、仲麻呂の乱に勝利した翌年の天平神護元年(765年)女帝にとってたかが傍系のくせにまたもや皇位をねらう和気王(舎人親王の孫)の騒動を鎮圧した後、女帝は紀伊への旅(行幸)を行います。その時飛鳥付近を通るのですが、真弓丘の草壁皇子の陵墓のそばを通る時、女帝は付き従ってきた官人達を下馬させ、儀衛の兵士達にはその旗のぼりを巻きしまわせて、曾祖父である草壁に最大限の敬意を払っています。気になるのはその地飛鳥にて、女帝の先祖である天皇家の人々の陵墓があちこちにある中を通っているはずですが、「続日本紀」のこの部分の記事にはこの行為は草壁だけに対してものであり、他の陵墓には何かの敬意を特別に払った痕跡がありません。女帝にとって自分の正当な嫡流のルーツである草壁が特別な存在であり、この行幸の道中にはその草壁からの皇位継承の印である黒作懸佩刀が女帝の傍らにあったように思えます。
それではこの宝剣はどこに行ったのか?またまた妄想ですが、女帝の死に際し、女帝の腹心であった吉備真備及びその妹(娘?)であり、女帝の傍につききりであった吉備由利により、誇り高き女帝の意思をくみ取り、他の人の手に渡らないようにひそかにどこかに隠された(埋められた)のではないかと思います。
女帝の後の光仁天皇や藤原永手などの有力者は、貴重な宝剣ですから行方を探したかもしれません、でも所詮彼らにとってこの宝剣は天武系という滅びた前王朝のシンボルに過ぎず、真剣に追及もせずこれから自分達が作り上げる新王朝(桓武天皇)に興味が移り、やがて太刀については忘れ去られたのではないでしょうか
もしかしたら称徳天皇の陵墓に副葬されたかもしれません、しかし現在称徳天皇陵とされている古墳は形式からして四世紀の古墳時代の早期の前方後円墳であり、間違いなく違うものです。
かっての陽陰の宝剣同様、西大寺付近のどこかにこの太刀もぼろぼろになりながら眠り続けているのかもしれません。
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Re:無題
10年も前の記事をご覧頂き、コメントまでくださりありがとうございます。なるほどそういう説があるのですね
ただ気になるのはこの刀の記事の所に「除物」の付箋がある事ですね、この除物の意味については微妙な所もありますが、すくなくともこの付箋が貼られた時にはその実物はすでに正倉院宝物としては存在していないという事になります。陽陰両刀の記事にもその付箋は貼られており、それが貼られて持ち出されたのが奈良時代後期の可能性が高く、黒作懸佩刀も奈良時代後期には持ち出されたのではないかと思っていたのが10年前のおけらです。
ただおっしゃるように、明治になってから正倉院宝物がかなりもちだされているのは確かなので、そのときの可能性は確かにあるかもしれませんね
おけら
2024-12-27 17:52:41
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