7月14日(月)、朝起きると「結ぶという字に、守るという"結守"の字が夢に出て来た」と伴侶が話してきました。「結守」は、初めて見聞きする漢字であり、ワークの場所を教えるヒントだと感じました。さっそく、ネットで調べると「結守」とは東京大神宮の「結守り」というお守りのことのようでした。読み方は「ゆいまもり」や「むすびまもり」があるようです。《お神札・お守り-東京大神宮》には、『東京大神宮の御祭神で、天地万物の結びの働きをつかさどる「タカミムスビノカミ」「カミムスビノカミ」の御神名から「ムスビ(結)」の文字をいただき「結守」と名づけました。
ご自身の努力が実を結び、願いごとが叶いますよう、いつも大切にお持ちください』。伴侶が夢で見た「結守」のヒントは、「結守」を販売している「東京大神宮(とうきょうだいじんぐう)」のことだと感じました。「東京大神宮」と言えば、最寄り駅がJR飯田橋駅であり、過去の調査とワークで、気に成っていた場所でもあります。《創価の集団ストーカーと結びつく闇の精霊の遠隔操作技術を有する神村学園内のIT企業・クーリード㈱》に詳細が記されています。『クーリード(株)は、やはり遠隔操作が絡む集団ストーカーの装置に関係しているようです。
クーリード(株)の本社(東京都千代田区富士見1-6-1 フジビュータワー飯田橋905)は、JR飯田橋駅の近くにあります。集団ストーカーの被害者の会の本部と近いと記憶していました。確認してみると、《創価の工作員絡みのマッチポンプが浮かぶ集団ストーカー問題のNPO「テクノロジー犯罪被害ネットワーク」》にある「テクノロジー犯罪被害ネットワーク」の本部所在地(東京都千代田区飯田橋2丁目9番6号 東西館ビル本館47号室)もJR飯田橋駅の近くでした。グーグルマップで見ると、クーリード(株)本社とテクノロジー犯罪被害ネットワーク本部は、いずれも東京大神宮の近くで、直線距離で200mです。
クーリード(株)とテクノロジー犯罪被害ネットワークは、共に創価学会が絡み、明らかに繋がっていると感じます』。闇の精霊を使って遠隔操作を行うテクノロジー技術を有する神村学園内のIT企業・クーリード㈱の本社と集団ストーカー被害者を集めているNPO「テクノロジー犯罪被害ネットワーク」の本部が、いずれも東京大神宮から約200mという近い距離にあるのです。集団ストーカーは、闇の精霊を使って人を操り、つきまといや監視活動などのストーカー行為をさせていると理解しています。目に見えない闇のエネルギーを悪用して、支配層の配下の創価や統一の宗教団体が諸々の工作や裏の金儲けのために成していると見ています。
クーリード(株)本社とNPO「テクノロジー犯罪被害ネットワーク」の本部が東京大神宮に近いことは、東京大神宮が遠隔操作の重要拠点に成っている可能性が高いと感じました。となると、東京大神宮の地下には、重要な「断層」が通っていることになります。これまでの調査とワークから、集団ストーカーなどに使われる遠隔操作は、火の闇の精霊を利用していることが分かっており、火の精霊が放出される断層(構造線)が地下を通る周辺に、支配層の工作拠点が置かれています。東京都の断層をネットで調べると、NEWSポストセブンに「東京都心部の推定断層」の図が掲載されていました。
やはり、東京大神宮を起点とする「九段推定断層」が通っていました。「九段推定断層」は、東京大神宮から国会議事堂のやや西側を経由して、東京タワーのやや西側を通る断層です。東京大神宮からほぼ南下する直線状の断層と言えます。断層が直下にある場所は、闇の精霊が多く存在する闇のエネルギーの供給場所となります。それ故、闇の精霊を光の精霊に戻すためには、断層を開いて光の精霊を解放する必要があります。すなわち、クーリード(株)本社、NPO「テクノロジー犯罪被害ネットワーク」本部、東京大神宮など支配層の闇の工作拠点になっていると思われる場所の闇の解除を行うのです。
そのためには、九段推定断層の封印を解除して、光の精霊となるマグマの光を解放する必要があります。いよいよ東京都心の大事な断層を開く段階が来ているようです。まず、東京大神宮について調べていきました。東京大神宮の情報はwikiに記されています。『東京大神宮は、東京都千代田区富士見二丁目にある神社。天照皇大神・豊受大神を主祭神とする。1880年(明治13年)4月17日、有楽町の大隈重信邸跡に落成した皇大神宮遙拝殿が起源であり、一般には「日比谷大神宮」もしくは「日比谷皇大神宮」と称された。
皇大神宮は伊勢神宮の内宮であり、現代の東京大神宮は「東京のお伊勢さま」という看板を掲げており、通称ともなっている。明治政府の宗教政策転換により神宮司庁と神宮教院が分離すると、後者に属していた本神社は、大神宮祠、神宮奉斎会本院と幾度か改名した。1900年(明治33年)5月10日、皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の結婚式が宮中三殿で行われる。これを記念に神前式結婚式を創始、現在に伝わる神前結婚式となった。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で被災し、1928年(昭和3年)に現在地に移転して飯田橋大神宮と呼ばれた。
太平洋戦争終結後の1946年(昭和21年)1月、宗教法人東京大神宮に改称し、現在に至る。[御祭神]天照皇大神・豊受大神を主祭神とする。天之御中主神・高御産巣日神・神御産巣日神・倭比売命を相殿に祀る。[歴史]明治5年(1872年)に開設された神宮司庁東京出張所(伊勢神宮の事務機関である神宮司庁と、東京の教部省との連絡のための出張所)には、明治天皇の勅裁を仰ぎ伊勢神宮の分霊が祀られていた。翌年、その構内に東京神宮教会(伊勢神宮の教導機関である神宮教院の東京支部)が開設された。両所にあった神殿を継承して、明治13年(1880年)4月17日、有楽町の大隈重信邸跡に落成した皇大神宮遙拝殿が当社の起源である。
これは、当時の明治政府が目指していた祭政一致・大教宣布の一環として作られたものであった。本神社落成時、通りを隔てて中山忠能邸があり、前年12月7日より明宮嘉仁親王(明治天皇第三皇子・後の大正天皇)が生活していた。4月25日、嘉仁親王(当時2歳)は中山忠能、中山慶子(明治天皇生母)、正親町実徳、柳原愛子(大正天皇生母)等と共に日比谷皇大神宮を私的に参拝した。なお中山忠能邸には、病弱だった嘉仁親王の健康を祈り、出雲大社より大国主の分霊も祀られていた。明治15年(1882年)1月、明治政府の方針転換により神社と宗教活動は分離することとなった。
伊勢神宮でも神宮司庁と神宮教院を分離することとなった。皇大神宮遙拝殿は神宮教院に属することになった。同年5月、神宮教院が神道神宮派に改称する際に、当社も大神宮祠と改称した。一般には、所在地名から日比谷大神宮や、日比谷皇大神宮と呼ばれていた。
明治18年(1885年)3月23日、嘉仁親王(7歳)は有楽町の中山忠能邸から赤坂御用地青山御用邸内に新造された明宮御殿(花御殿)に移転した。その後も幾度か中山忠能邸を訪問したが、その度に日比谷皇大神宮に参拝している。明治32年(1899年)9月、神道神宮派が解散して新たに神宮奉斎会が作られた。
当社は神宮奉斎会本院と改称し、神宮奉斎会の本部機関となった。なお三重県宇治山田市(現・伊勢市)には神宮教院大本部が置かれていた。大正12年(1923年)の関東大震災で社殿を焼失する。昭和3年(1928年)、現在地に再建・遷座して、以降は飯田橋大神宮と呼ばれるようになった。上述のように、第二次大戦以前は神社という形ではなかったので、社格の指定はない。ゆえに氏子地域も存在しない(当社所在地は築土神社の氏子地域にあたる)。第二次世界大戦後の昭和21年(1946年)4月、宗教法人東京大神宮として再発足した』。「大隈重信」「中山忠能」「中山慶子」が重要なキーワードだと感じました。(つづく)