「年金は払い損」と思う前に知っておきたいこと
「年金なんて、どうせ払い損でしょ」
一時期のSNSではよく見かけた言葉だ。満額の国民年金は月約7万円。一方、生活保護は住宅扶助や医療扶助を含めると月12〜15万円相当になることがある(東京都区部の単身世帯の目安)。数字だけ見れば、真面目に保険料を払い続けた人のほうが損をしているように見える。「それなら払わないほうがマシじゃないか」。そう思う気持ちはわかる。
僕は霞が関で24年間、6つの省庁で制度を作る側にいた。年金も生活保護も直接の担当ではなかったけれど、制度の「設計思想」を読む力は、あの場所で嫌というほど鍛えられた。その目で見ると、「年金は払い損」という判断がいかに危ういか、はっきり見える。
そもそも、なぜ年金と生活保護は分かれているのか
「どっちも生活を支える制度なら、一つにまとめればいいのに」。素朴な疑問だけれど、制度の設計思想を知ると、分かれている理由が見えてくる。
年金は「保険」だ。加入して保険料を払った人だけが受け取れる。「自分の老後は自分で備える」という自助の思想が根底にある。しかも日本の年金は、自分が積み立てた分が戻ってくる仕組みではなく、いま働いている現役世代の保険料が、いまの高齢者への給付にまわる「賦課方式」だ。世代間の仕送り、と言い換えてもいい。
一方、生活保護は「救済」だ。過去に保険料を払っていたかどうかは関係ない。困窮している人を、国が税金で直接支える。憲法25条が保障する「健康で文化的な最低限度の生活」を守るための最後の砦だ。
自助と公助。権利と救済。出発点がまったく違うからこそ、制度は分かれている。もし一本化すれば、真面目に保険料を払ってきた人と払っていない人の区別がなくなり、社会全体の納得感が崩れる。制度を2本立てにしているのは、合理的な設計判断なのだ。
「逆転現象」のカラクリ
とはいえ、「理屈はわかるけど納得できない」という気持ちは残るだろう。年金より生活保護のほうが手厚く見える。真面目にやった人間がバカを見る。その怒りには根拠がある。
ただ、比べ方にトリックがある。
国民年金の月6.9万円は、あくまで「基礎的な現金給付」だ。現役時代の貯蓄、持ち家、厚生年金を上乗せして生活することが前提になっている。自由に使えるお金であり、資産を持つことにも制限はない。
生活保護の月12〜15万円相当は、現金だけではない。家賃補助、医療費、介護費がパッケージになっている。そのかわり、貯蓄や持ち家といった資産の保有は原則認められない。ケースワーカーの管理のもと、生活の自由度は大きく制限される。
「自由な6.9万円+資産」と「不自由な15万円、資産ゼロ」。前提が違うものを金額だけで並べるから、逆転しているように見える。
もちろん、資産がない年金受給者にとっては、生活保護水準を下回る暮らしを強いられるケースがある。「頑張ってギリギリ耐えている人」より「完全に困窮した人」のほうが手厚く守られる。真面目に払い続けた人が報われにくい、この制度が生む矛盾は日本の社会保障が抱える本当の課題だ。近年、「給付付税額控除」という制度改革の議論も始まっており、こうした矛盾を解消しようとする動きが出てきてはいる。ただ、制度が変わるまで待てない人のほうが多い。その現実から目を背けるつもりはない。
「払い損」の判断が本当に危ない理由
それでも、「だから年金は払わない」という結論には飛びつかないでほしい。
多くの人が見落としていることがある。年金は「老後にもらうお金」だけではない。年金保険料を払い続けていることで、障害年金という保険機能が生きている。
障害年金は、病気やケガで働けなくなったときに受け取れる年金だ。65歳を待つ必要はない。20代でも30代でも、要件を満たせば受給できる。つまり年金保険料は、遠い老後のためだけでなく、「いまこの瞬間の自分にかけている保険」でもある。
僕の父親も難病にかかり、障害年金に助けられた一人だ。病気が進んで仕事を続けられなくなり、途中で退職することになった。あのとき保険料を払い続けていなければ、受給資格そのものがなかった。
未納のまま放置すると、老齢年金だけでなく、障害年金の受給資格も失う。健康で働けているうちは気にならない。でも、人はいつ病気になるかわからない。そのとき「年金なんて払い損だ」と判断した過去の自分が、将来の自分を詰ませる可能性がある。
「払い損」という言葉の裏には、年金を「老後の貯金」としか見ていない誤解がある。年金は貯金ではなく保険だ。保険は、使わずに済んだときに「損した」とは言わない。火災保険を払い続けて家が燃えなかったら、払い損だろうか。
感情ではなく、設計の意図で判断する
「年金より生活保護のほうが得だ」「真面目に払う意味がない」。SNSではこうした言葉が拡散力を持つ。感情に訴える言葉は広まりやすい。
けれど、感情で制度を切り捨てると、自分が使えるはずのカードを自分で捨てることになる。
僕が霞が関で学んだことの一つは、制度は「好き嫌い」で判断するものではなく、「なぜそう設計されているのか」を読むものだということだ。制度が完璧である必要はない。矛盾があっても、その矛盾の形を正確に把握していれば、自分の身の守り方が見えてくる。
年金の仕組みに不満があるなら、不満を持ったまま払い続ければいい。怒りと行動は別の話だ。制度の建前を理解し、現実の矛盾を直視し、そのうえで淡々と最善手を打つ。制度のすき間に落ちないための、一番確かな方法はそこにある。
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