継嗣令第1条は「女系継承」容認の根拠にはならない。正倉院所蔵「黒作懸佩刀」相伝から浮かび上がる男子直系主義──藤森馨・国士舘大学教授の史論に学ぶ(令和8年4月16日)
(画像は正倉院所蔵「東大寺献物帳」@宮内庁)
女性天皇・女系継承容認派は、古代律令時代に女系が制度的に容認されていたと主張している。その根拠は継嗣令第1条(皇兄弟子条)の本註「女帝子亦同」で、これを「女帝の子もまた同じ」と読み、「女帝の子」の規定がある以上、女系継承が制度化されていたと解釈するのである。分かりやすいといえば分かりやすい。単純といえば、単純である。
これに対して真っ向から異を唱えているのが、藤森馨・国士舘大学教授(神道学)である。女系派とは解釈の異なる論攷を、神社本庁総合研究所紀要(平成23年6月)に寄せているので紹介したい。藤森氏の結論は、皇兄弟子条は皇親の範囲を規定したものに過ぎない。したがって、女系継承について規定したものではない、というものである。
◇1 継嗣令は皇位継承を規定した条項ではない
藤森氏の論攷は、冒頭、「(継嗣令を)虚心に読むなら、皇位継承を規定した条項とは考えられない」という、女系派の解釈への率直な懐疑の表明に始まる。もし皇位継承を規定している条項だとするなら、皇太子に関する規定がないのは不可解だとも指摘する。もっともである。
ところが、である。先行研究では、女系派を応援するかのように、皇位継承に関する規定とみる研究者が逆に多いのである。
たとえば、春名宏昭氏は、内親王とその子の皇位継承を意図し、さらに天皇家断絶の場合を想定して、傍系の即位と新天皇家の形勢を想定した、と大胆な解釈を表明している(「天皇位の継承」=『史学雑誌』平成12年)。
つまり、春名氏は本註を「女帝の子」と読み、解釈する立場である。これに対して、藤森氏は、実際の皇位継承は継嗣令とは関係なしに、草壁皇子直系主義が尊重されていた。春名氏の説は当たらない、と反論している。つまり、歴史の事実は異なるという歴史的批判である。
藤森氏はさらに、仁藤敦史、成清弘和両氏の女系容認論を引用している。
こうした先行研究に対して、藤森氏は、継嗣令本註に焦点を当てるのでなくて、高所的視点から考察しようとする。
まずは律令体制下での皇族の位置づけである。
今江廣道氏が指摘しているように、大宝令制下の皇太子は、親王や諸王などの皇親とは異なり、位階制の埒外に置かれていたのであった。逆に親王や諸王の場合は、皇太子とは異なり、位階制のなかに位置づけられ、しかし、皇位継承の埒外にあったのである。
実際、律令の時代には、瀧浪貞子氏が指摘するように、継嗣令皇兄弟子条があるにも関わらず、草壁皇子直系の皇位継承が女帝を介して行われていた。
つまり、そもそも、律令は天皇やその地位に関する規定を含んだものなのか、と藤森氏は根本的疑問を投げかけているのである。継嗣令は最初から、女系・双系派の主張する女系継承の根拠とはなり得ないという指摘である。
藤森氏は、女系派が継嗣令本註を「女帝の子」と読み、安易に解釈する姿勢を強く戒めているのであった。
ここまでが論攷の前置きで、藤森氏はあらためて律令全体を見渡し、検討しようとする。
◇2 継嗣令はあくまで皇親の範囲を規定している
養老令には、天皇についての規定はわずかである、と藤森氏は指摘する。天皇は律令を超越し、律令に規定される存在ではなかったからである。律令は天皇を規定するものではないのである。
だとすれば、と藤森氏は、継嗣令皇兄弟子条の検討に入る。
継嗣令本状の規定では、天皇の兄弟・皇子は、男女を問わず、生まれながらにして親王である。したがって、奈良時代は、天皇の子はすなわち親王である。なのに、わざわざ第1条の規定が置かれているのはなぜか、と藤森氏は問いかけ、それは、古記の事態を想定したためと理解している。
つまり問題は、「女帝子亦同」とする本註である。
すなわち、女帝の婚姻は相手が四世以上の皇親であることが前提だが、女帝所生の子の場合、父が四世以内の諸王であっても、親王とする。ただし、父親は諸王のままとする。女帝の兄弟についても、男帝の場合と同様、親王とする、というのが大宝令の註釈・古記にある記載である。
古記は本註を「女帝の子」と読み、解釈していることになるが、「女帝の子」とする先行研究に疑問を投げかけているはずの藤森氏の解釈もまた同様に、「女帝の子」なのである。「女も帝の子なればまた同じ」と読み、国語学的な視点から批判しているわけではない。あくまで歴史的批判なのである。
実際、として、藤森氏は、草壁皇子(天武天皇と持統天皇の皇子)と元明天皇の間に生まれた吉備内親王は、長屋王の室となり、膳夫王、桑田王、葛木王、鈎取王らを生んだ。父系では三世諸王であったが、母が元明天皇の娘であったため、二世皇孫に列せられた。ただし、父・長屋王は二世孫王のままとされた、と続日本紀の霊亀元(715)年2月の記述にある、と指摘している。
さらに藤森氏は、こうした事例が令制以前にもあったとして、宝女王(のちの斉明天皇、皇極天皇)が舒明天皇と婚姻する以前に、用明天皇の孫・高向王と婚姻し、漢皇子を生んでいる。舒明天皇と婚姻し、その後、即位したあと、漢皇子(用明天皇の三世王)は皇子とされたとし、つまり、天皇の皇子・皇女で皇親とされても、皇位継承者とはみなされない事例が数多くあった。こうした皇親の範囲を厳格に規定したのが継嗣令皇兄弟子条だと、藤森氏は説明している。
要するに、継嗣令はあくまで皇親の範囲を定めたのであり、女系継承を制度的に認めたものではない、と藤森氏は主張するのである。
◇3 女帝即位の根拠は天智天皇の「不改常典」にあり
ならば、律令体制下の歴史の実態はどうだったのか、と藤森氏は議論を展開させるのである。
継嗣令の規定によれば、女帝が存在する(明らかに、藤森氏は本註を「女帝の子」と読んでいる)。女帝は四世以内の皇親と婚姻し、子供が生まれれば親王とされる。
ところが、実際のところ、推古天皇、皇極(斉明)天皇、持統天皇のいずれも、夫が天皇だったのであり、崩御ののち、皇太后として即位している。子供が生まれ、のちに天皇となった天智天皇、天武天皇の事例もある、と藤森氏は指摘する。
藤森氏は、文武天皇時代に始まった天智天皇の再評価に焦点を当てる。天智天皇は母方の祖父に当たるが、令制の開祖と考えられていた、と藤森氏は解説し、天智天皇が定めたとされる不改常典が、元明天皇以後の皇位継承の根本宝典になっていったと指摘する。
つまり、継嗣令に基づいて、女帝の継承が行われたのではなく、不改常典が女帝即位の根拠だった、と藤森氏は指摘するのである。
令制下の女帝は、元明天皇、元正天皇、孝謙天皇(重祚して称徳天皇)のお三方だが、井上光貞氏によると、お三方は、従来の女帝とは異なる。つまり、先帝もしくは前帝の皇后ではなかったということである。つまり、令制下の皇位継承は不改常典によって行われたのである。
不改常典とは何か? 初出は、元明天皇の即位の宣命である。
宣命には、元明天皇の子供であり、草壁皇子の嫡子である文武天皇は、天智天皇が定めた不改常典に依拠して即位したとある。
元明天皇から皇位を継承した元正天皇の即位の詔には不改常典の語はないが、聖武天皇の即位の宣命は、元正天皇の譲位の宣命が引かれ、不改常典により、皇統が聖武天皇に伝えられたとある。藤森氏はそのように説明している。
元正天皇は生涯、婚姻しなかった。荒木敏夫氏は、元正天皇も、孝謙天皇も、男子嫡系主義を貫徹するため、不婚を強いられたと指摘している。
聖武天皇は孝謙天皇に譲位するが、その宣命にも、元正天皇の譲位の宣命が引用されている。孝謙天皇は史上初めて正式な立太子を経て、即位した女帝だが、その場合も不改常典のもとでの即位なのであった。
そして、女帝の即位は、あくまで中継ぎであった。孝謙天皇の母・藤原光明子は阿倍内親王(孝謙天皇)が女子であり、本意ではないが、このままでは草壁皇子の皇統が断絶するので、皇位に即けたと孝謙天皇に語ったことが記録されている。そして、孝謙天皇もまた不婚を強いられたのだった。
◇4 草壁皇子の佩刀は中継ぎの女帝には相伝されなかった
最後に藤森氏は、たいへん興味深い、正倉院所蔵品の相伝について補足している。
つまり、天智天皇の立制とされる不改常典は男性直系主義の貫徹を意図していた。したがって、継嗣令皇兄弟子条は、女帝および女帝の子の待遇についての規定が見受けられるが、あくまで皇親の範囲を規定したのであり、女系継承や新たな皇統の創出を目指したものではない。奈良時代の皇室は、継嗣令の規定ではなく、不改常典の定めゆえに、中継ぎの女帝を立てざるを得なかったのだと藤森氏は解説している。
そして、そのことをうかがわせるのが、正倉院にかつて所蔵されていた黒作懸佩刀の相伝だという。黒作懸佩刀は草壁皇子の佩刀であったが、藤原光明子が東大寺に献上した物品目録「東大寺献物帳」によると、太政大臣の藤原不比等が賜り、文武天皇が即位すると天皇に献上された。文武天皇が崩御になるとふたたび不比等に下賜され、不比等の薨去後は聖武天皇に献上されたと記されている。
〈https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures/?id=0000010568&index=8〉
つまり、黒作懸佩刀は男系直系天皇に、不比等の介在で相伝され、中継ぎの女帝には相伝されなかった。不改常典と符合する皇位継承は明らかだと藤森氏は結んでいる。
孝謙天皇のあと、淳仁天皇が継承するが、廃帝となり、孝謙天皇が重祚し、称徳天皇となる。その後、光仁天皇が即位するが、天智天皇および草壁皇子の皇統は行き詰まり、断絶した。男子直系主義に拘泥した結果だと藤森氏は見ている。
桓武天皇の時代以後になると不改常典の文言も消える。天智天皇の定めた法のままに、という表現にとどまり、平安時代になると、直系ではなく、兄弟継承が復活する、と藤森氏は指摘するのである。
1点だけ、蛇足ながら指摘すると、藤森氏は本註を「女帝の子」と読む立場を批判するものではまったくない。逆に氏は、継嗣令は皇親の範囲を規定したものとの基本に立ちながら、本註は女系派同様に「女帝の子」と読み、しかし歴史の実態は異なる、と論理を展開させている。
「女も帝の子なれば、また同じ」と読めば、すんなりと解釈できるのに、藤森氏はそうはしない。なぜ「女帝の子」と読むことを疑わないのか? 律令全体を見渡すなら、「公式令」の存在を知ることとなり、「女帝」という読みが相応しくないことに気づくはずではないのか? 『日本書紀』にも『続日本紀』にも「女帝」という熟語はいっさい登場しないらしい。後世もしくは現代の用語だからである。
「女も帝の子なればまた同じ」と読む視点が加われば、藤森氏の論攷はまた別のものになっていたのではないかと思われる。残念な気がする。




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