「正直、中学校の時からイップスでした」

 転機となったのは2年の春。夏の公式戦に向けた練習試合で序盤に7点を喫して取り乱した。それを機に「色々変えないといけない」と考えるあまり、思うような球が投げられなくなった。

 実は、この感覚には覚えがあった。中学時代から抱えていたイップスの症状だ。

「正直、中学校の時からイップスでした。自分は『気にしい』な性格なので、ちょっと乱れたら考え込んでしまうタイプで…。一度打たれると投げ方とか、腕の上げ方もこれでいいのかと、フォームもばらばらになってしまいました」

 よく言えば繊細。しかし、メンタル的な不安に悩まされ、時には真ん中に投げるのも一苦労だったという。

「中学の時も試合前からおかしな感覚でいつも通りに投げられないと思ったことがありました。いざ試合始まると、ストライクも入らないし、入ったと思ったら打たれるし。10点くらい入ってしまったと思います」

 筆者は以前にもイップスで悩まされた投手に話を聞いたことがある。そこで口にしていたのが「突然投げる感覚がわからなくなる」ということ。延江氏にぶつけると、「自分も突然でした。かといって今も原因はわからないままです」と頷く。

 症状は試合中だけではない、練習中から違和感を抱くことも多々あったという。

「キャッチボールでも怖く感じることがありました。プロに入ってからですけど、次の回に投げる先輩から『次いくからキャッチボールしてくれないか』って言われると、ちゃんと投げないといけないと思って逆に抜けたり、取りにくいボールを投げたりしてしまうこともありました」

 中学時代から不安と隣り合わせの状態だった。「でもこれってどうやって改善して投げられるようになったのかは答えようがないんです。なったことのある人にしか分からない感覚だと思うんです」。深刻な顔で訴える左腕を変えたのは、瀬戸内の監督だった。

「入学当初はオーバースローで投げていて、ふとした時に、当時の監督さんから『延江、横から放ってみ』って言われたんです。それが体の使い方に合ったのか、投げやすいと感じたので、そこからサイドスローに転向しました」

 指揮官の鶴の一声から体の回転も以前よりスムーズになり、直球の威力も増した。投球フォームの変更が奏功し、真っすぐも140キロ台を計測。プロスカウトからも注目を集めるようになった。

「僕ですか、間違いちゃいますか」授業中に受けたドラ1指名の衝撃

 迎えた2006年の高校生ドラフト会議。駒大苫小牧田中 将大PL学園前田 健太ら、のちに球界を背負う怪物たちに世間の目は向いていた。延江もプロ志望届を提出していたものの、上位指名の確信はなかったという。

「県内では『プロ注目』と言われていましたけど、メディアも好きに書いているだけで、指名があるかもわからないと思っていました。マー君とかマエケンみたいに、指名されるのが分かって待っているわけではなく、普通に授業を受けていました」

 ドラフト当日も特別なことは何もしなかった。テレビの生中継を見守りながら吉報を待つようなことはせず、普段通りに学校の教室で授業を受けていた。

「それでもドラフトしか頭になかったですね。『自分は指名されるのかな』と思いながら授業を受けていました。そしたらコンコンって、野球部長が教室に来て『延江いますか』と…」

 教室で告げられたのは、思わぬ知らせだった。

「『オリックスから1位や』って言われて、『え、マジすか』ってなりました。『僕ですか、間違いちゃいますか』って反応をしてしまいました」

 オリックスは当初、田中 将大を1巡目で指名。しかし抽選で外れ、再指名で延江の獲得に動いたのだ。

「自分の中では地元の広島が下位指名で取ってくれたらラッキーくらいに思っていました。まさかマー君の外れ1位で指名していただけると思っていなかったので正直嬉しさより驚きが勝ちましたね」

 困惑にも似た驚き。しかし、無数のフラッシュを浴びながら、記者会見でメディアに応じた18歳に、確かな覚悟も芽生えていた。

「同期にこんなすごい投手が全国にいるんだから、プロに入ってから頑張ってやらないといけないなと思いました」

 晴れてドラフト指名を掴み取った延江。ファンの期待を一身に背負い、チームの顔を担う青写真を描いてプロ生活をスタートさせた。

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