「魔の池」(2) なぜ「魔の池」と呼ばれたのか
◇魔の池の由来
なぜここにあった池は「魔の池」と呼ばれたのであろうか。
「ものがたり西区の今昔」には次のような話が記されている。
県営藤棚アパートの下の方、西戸部280番地一帯は、人家が密集しているが、山懐にいだかれて、おだやかなたたずまいである。その中ほどと思われるあたりに、小さな池を前にした小さな祠がある。これが妙行尼さんがお守りしている白竜弁天である。
(中略)
この池の主は、白い蛇で、年老いて竜になっていたが、永年住みなれたこの池が俗化することを嫌い、池の同りの木を切ったり、芝を刈ったりすると、必ず仇をし、悪いことがおこると里人たちには信じられていて、水神様を祭る小さな祠なども建てられてはいたが、手を入れる入とてなく、どんよりとしずんだ池の様相は一層ものすごいものとなっていた。
しかも、西中方側からの坂は急で、大きくくねった難所であるため、ある時配達用の米俵を大八車に積んだ戸部一丁目のお米屋の小僧さんが、この坂のカーブを曲り切ることができず、車もろとも池に落ちて死んだ。
その日以来、この池に花と線香をたむけて泣き崩れている老母の姿があった。かわいいひとりむすごを失った老母は、毎日毎日、この坂に来ては臨いていたが、その涙がかたままったかのように、小さな馬頭観世音の碑が残された。
こうしたいたましい事故はしばしばあったし、時には、飛びこみの水死体が浮いていることもあった。その昔、付近の戸部刑場で首を切られた囚人たちの死体が、この路を通って願成寺に運ばれる途中、この池の水で血を洗ったといわることなどから、死刑囚の亡霊が自分の首をさがして手当りしだいにわるさをするとか、やれカッパが池から手をのばして人を引きずりこむとか、種々うわさがたえなかった。
また栗原清一の『横浜の伝説と口碑』には次のような伝説が残されている。
昔、この村に、ひなにはまれな美しい乙女が住んでいた。村の若者たちは、村小町とほめそやし、言い寄る者が多く、村祭りの晩などたいへんな人気で、祭りちょうちんに照らし出されたその美しい目鼻立ちは、夜目にも口じらとあやしく輝いたものだ。
やがて親のすすめで、戸部のお百姓さんと結婚する。しかし、すでに固い契りを交した男がいて、どうしてもその入を忘れることができない。ある夜夫に酒をすすめた。胸に一物ある妻のサービスにすっかりめいていした夫が、美しい新妻をひざ枕にこの世の果報を夢みていた時、あわれその妻の手にかかって昇天する。死体は魔の池に沈め、世間体をどうつくろったものか、先の男とめでたくめおとになりすましたものの、元来が浮気な女とて、すぐまた別の情夫ができてしまった。
さて、このことを知った夫はすっかり逆上して、前後のみさかいもなく攻房を殺し、その死体をだいてこの池にとびこみ自殺してしまう。このことを知った情夫も、なんと覚悟したものか、これまた女の後を追って入水する。こうして一度に四人の水死体がこの池に浮いて、里は大騒ぎとなり、初めて村小町の正体とことの真相を知ったのである。
さてそれ以来、この池に落ちて死ぬ人が年々多くなり、魔の池と恐れられ、池に落ちたら決して助からないと信じられるようになった。それは、村小町が浮気の虫をおこして男を誘いこむからとか、ひとりの女をめぐりて争う三つの亡者の恕念が、それぞれ加勢を求めて友を呼ぶからだと説明されている。
後の話はいかにも脚色された伝説といった感じがするが、それだけこの場所で事故が多くあったために、様々な噂、伝説が生まれ、いつしか「魔の池」と呼ばれるようになったのであろう。
横浜市西区ホームページ、”西区そぞろ歩き”(平成9年11月から平成16年4月にわたり、広報よこはま西区版で掲載)に「魔の池の竜神」として、この竜神を祀った小さな祠がスケッチとともに紹介されているが、その場所には、何ら痕跡を見つけることはできない。
絵: 長谷川 泰 (西区文化協会 騎虎の会主宰)より
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