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ストレートエッジ

何をどこまで考えてこの名前にしたのか気になったもので。
https://www.fashion-press.net/news/145457


ストレートエッジとは何か


ハードコアを長く聴いていると、ストレートエッジという言葉は、いつも少し面倒な匂いをまとって現れる。単なる禁酒禁煙の標語ではない。健康志向の話でもない。もっと言えば、道徳の優等生がロックに紛れ込んできた、みたいな話でもまったくない。むしろその逆で、ストレートエッジは、パンクやハードコアの内部で半ば常識化していた自己破壊の作法に対して、「それ、ほんとうに反抗か?」と突きつけた異物だった。酒を飲む、ドラッグをやる、刹那的に壊れる。そういう身振りが若さや反逆の証明として流通していた時代に、しらふのまま怒り、しらふのまま演奏し、しらふのまま世界にノーを言う。それがどれほど急進的に見えたかは、いまの感覚だけでは掴みにくい。[1][2]

この手の話になると、すぐに「酒も煙草もやらない堅物の思想」くらいに要約したがる向きがある。しかし、少なくとも起源においてそれは雑すぎる。Minor ThreatのIan MacKayeは、1981年の“Straight Edge”について、自分の胸の内を吐き出した歌であり、飲みたくない、ハイになりたくない人間どうしがつながるための歌だったと語っている。[1] さらに彼は、音楽表現がなぜ酒場文化に従属しなければならないのか、なぜロックだけがアルコール産業の囲い込みに晒されているのか、という違和感を明確に口にしている。[1] ここで重要なのは、ストレートエッジが最初から他人を取り締まるための規律ではなく、音楽と若者文化にべっとり貼り付いた中毒的な慣行から距離を取るための自己決定として生まれた、ということだ。

しかもMacKaye本人は、のちにありがちな誤読をかなり早い段階から訂正している。たとえば歌詞の中の性に関する一節は、禁欲そのものを説いていたのではなく、十代を追い立てる征服的で捕食的な性のプレッシャーへの反発だった、と本人は説明する。[1] 2006年のインタビューでも彼は、ストレートエッジを一つの固定的アイデンティティとして崇拝することには距離を置き、それは「自分の生を自分で生きる権利」の問題だと語っている。[3] つまり起源のストレートエッジは、禁欲の宗派ではなく、しらふであることを恥じなくていいという宣言であり、もっと言えば、自己破壊をしない自由の宣言だった。

では、なぜそれがあれほど大きな運動になったのか。理由は単純で、1980年代初頭のアメリカの若者文化、とりわけパンク/ハードコア周辺には、破滅こそ本物という空気が確かにあったからだ。Ross Haenflerは、ストレートエッジをハードコア・パンクから生まれたクリーンリヴィングの若者運動として捉え、その基本原則をドラッグ、煙草、アルコールを拒否する生活として整理している。[2][4] ただし彼が強調するのは、それが保守的な禁欲ではなく、主流アメリカ社会の消費主義と自己耽溺への抵抗として経験されていた点である。[4] ここを読み落とすと、ストレートエッジはただの品行方正キャンペーンに見えてしまう。しかし実際には、飲酒や薬物使用が若者の社交や見栄や反抗のパッケージとして流通していた社会で、そのパッケージそのものを拒否する態度だった。

この意味で、ストレートエッジはレーガン時代の保守化と同じ棚に置くべきではない。

ここで当時の文化的背景をもう少し具体的に見ておきたい。70年代末から80年代初頭にかけてのアメリカでは、ロックは産業として巨大化し、若者文化は広告と結びつき、アルコールとドラッグは快楽であると同時に、社交の作法としても売られていた。クラブやライブハウスは酒場と切り離しにくく、楽しむことは酔うことと半ば同義になっていた。パンクはたしかにその秩序への反抗を掲げたが、こと薬物や自滅の身振りに関しては、しばしば旧来のロック神話を反復していた。つまり主流文化を憎みながら、主流文化が流通させる「かっこいい破滅」のイメージには結局絡め取られていたわけだ。MacKayeが音楽表現とアルコール産業の癒着に違和感を示したのは、この矛盾を見抜いていたからだろう。[1]

しかもハードコアの初期現場は、今日の視点から見れば相当に若い空間だった。未成年も多く、金もなく、移動手段もなく、ショウはしばしば地域コミュニティの延長のような場所で起きていた。そうした条件で、酒やドラッグを前提にしない居場所を自分たちで作ることには現実的な意味があった。単なる思想の選択ではなく、参加の条件を奪われないための技術だったのである。ストレートエッジは、健康ではなくアクセスの問題、倫理ではなくサヴァイヴァルの問題としても理解したほうが正確だ。誰かの酩酊や暴走に場を支配させないこと。しらふのままでもステージとフロアにいられること。その実務的な重要さが、あとから理念化された面も大きい。だからこの文化を理解するには、歌詞だけでなく、どんな場所で誰がどう集まっていたかまで想像する必要がある。

たしかに外形的には禁欲であり、性的にも節度を強調した。しかしその内側にあった感情は、国家や親や学校に従順であろうとする姿勢ではなく、同調圧力そのものへの反発だった。Darrell Irwinが1990年代末にまとめた研究紹介でも、若者たちはストレートエッジを、フラタニティ文化、広告、メディアが押しつける飲酒や薬物のライフスタイルへの反抗として語っている。[5] ここには、ただ善良でありたいという願望より、「あいつらが当然だと思っている享楽の型に乗らない」という反主流の意志がある。だからストレートエッジは、Just Say Noの焼き直しではなく、ハードコアのDIYと結びついた別種の抵抗だったのである。[2][5]

ただし、ここからが難しい。ストレートエッジは、起源の時点ではきわめて個人的で自由主義的な宣言だったにもかかわらず、シーンとして拡大するにつれて、急速に集団的な倫理へと姿を変えていく。その変化を決定づけたのが、ワシントンDCの第一波からニューヨーク・ハードコア以後の第二波、いわゆるYouth Crew的な拡張だった。Youth of Todayの証言を読むと、彼らは自分たちを発明者ではなく“revival”の担い手だと認識し、ニヒリズムではなく「自分は気にしている」「人生にポジティヴな見通しを持っている」という感覚を前面に押し出していた。[6] これは大きい。Minor Threatが切り開いた「しらふでも反抗できる」という回路を、Youth of Todayは「しらふだからこそ世界を変えられる」という回路へと増幅したからだ。

この変化は、良くも悪くもストレートエッジを運動にした。自己防衛のための禁欲は、仲間と共有される規範になり、規範はやがて共同体の美学になる。X印は単なる記号ではなく誓約になり、ハードコア・ショウのフロアは娯楽ではなく倫理の確認場所になる。Haenflerが指摘するように、ストレートエッジの魅力は、個人の節制を集団的アイデンティティへ変換できるところにあった。[2][4] しらふでいるという個人的実践が、シーン、仲間、バンド、ジン、レーベル、ツアーの回路の中で可視化される。ここでストレートエッジは単なる趣味ではなく、自己形成の方法になった。

しかし、あらゆる倫理共同体がそうであるように、その力はすぐに副作用を生む。自分を守るための規律は、しばしば他人を裁くための規律へ変わる。自己改善の感覚は、自己純化の快感へ滑る。ポジティヴであることは、やがて正しさの所有へと変質する。ストレートエッジの歴史をややこしくしているのは、まさにこの点だ。しらふでいるという本来は消極的とも言える選択が、いつのまにか攻撃的な優越感を帯びる。自分は汚れていない、あいつらは汚れている。自分はコントロールしている、あいつらはだらしない。その境界が強くなると、ストレートエッジは自己解放の思想であると同時に、浄化の思想にもなってしまう。

ここで問題になるのが、マッチョイズムと暴力性である。Haenflerは、後年のストレートエッジの一部について、より不寛容で、より男性的で、より同性愛嫌悪的で、潜在的に暴力的になっていったと要約している。[2] これはかなり重い指摘だ。なぜそうなったのか。ひとつには、ハードコアそれ自体が身体性の文化だからである。速く、硬く、短く、強く。声は怒鳴りに近く、フロアは衝突の空間で、存在感はしばしば筋肉と威圧感によって増幅される。その文脈でストレートエッジが「自己規律」を掲げると、そこには禁欲の倫理だけではなく、身体を制御し、欲望を制御し、他者を圧倒する自己支配の美学が入り込みやすい。しらふであることが、感情の繊細さより、硬さ、持久力、タフネスの証明として流通し始めるのである。

これはとくにニューヨーク・ハードコア以後の風景で顕著だった。Youth Crewの時代には、それはまだ「前向きさ」「仲間意識」「セルフ・リスペクト」といった語彙と結びついていた。しかしシーンが大きくなり、理念が記号として流通するほど、そこには強度だけを真似る人間も入ってくる。Judgeに代表されるミリタントな気配は、その転換点としてしばしば語られる。Judgeそのものを単純に暴力の元凶として処理するのは乱暴だが、少なくともストレートエッジが「優しい自己管理」ではなく「威圧的な強さ」と結びつき得ることを、あの時代の音は誰にでも分かる形で示してしまった。肯定の運動は、容易に筋力の運動へ転化したのである。

さらに90年代に入ると、そこへヴィーガニズム、動物解放、環境意識、急進政治が流れ込み、ストレートエッジはより広い倫理の母体になる。[2][4]

ただ、この拡張は理念的には筋が通っていても、実践の場ではしばしば息苦しさを生んだ。酒をやめる、煙草をやめる、ドラッグをやめる、そこまでは共有できても、性的規範や食の規範や政治的純度まで一つの共同体の共通ルールとして強く要求され始めると、シーンは急速に内向きになる。違反か継続か、裏切りか本物か、エッジかブロークンか。こうした言葉づかいが濃くなるほど、音楽よりも資格審査の空気が強くなる。自分のための節制が、共同体のメンバーシップ管理になってしまうのだ。これはストレートエッジの弱点というより、強いアイデンティティ政治がたいてい抱え込む宿命に近い。

その宿命はジェンダーの問題でもある。Haenflerの整理でも、ストレートエッジの研究は若い男性がいかに男性性を再定義し、また女性たちがどう役割を確保したかを含んでいる。[4] これは裏返せば、シーンが最初から中立ではなかったということだ。欲望を抑制すること、仲間への忠誠を示すこと、身体を鍛えること、折れないこと、ポジティヴであること。こうした価値は、表面的には美しいが、しばしば古典的な男らしさの語彙と結びつきやすい。そこでは傷つきや弱さや曖昧さを表明するより、硬さと断言が高く評価される。女性やクィアの参加者がいなかったわけでは全然ないが、シーンの見え方がしばしば「兄弟団」的なものになったのは偶然ではない。ストレートエッジに漂うマッチョさは、単に腕っぷしの問題ではなく、どういう感情だけが正当なものとして承認されるかという感情政治の問題なのである。

だから、ストレートエッジの暴力性は、殴るか殴らないかだけでは測れない。もっと前段階に、恫喝、査定、排除、嘲笑、ホモフォビア、女を周縁化する空気がある。しらふであること自体はまったく暴力的ではない。それが共同体の序列を作り始めたときに、はじめて暴力の準備が整う。ここを見ないと、「一部に荒っぽい連中がいただけ」という安い整理に流れてしまう。問題は個人の粗暴さだけでなく、純粋さと硬さを称揚する文化の配線そのものにあった。

これは本来、シーンの成熟として理解できる面もある。ドラッグや酒を拒むだけでなく、消費社会や搾取構造まで視野に入れるのは、一貫した拡張だからだ。しかし問題は、その拡張がしばしば「純粋であること」の競争になったことだった。どこまで厳格か。どこまで食生活を徹底しているか。どこまで性的に節制しているか。どこまで政治的に正しいか。こうした純度の競争は、共同体を鍛える一方で、異論や揺らぎや失敗を許さない空気を生みやすい。

そして、純度をめぐる競争は、男らしさの競争と非常に相性がいい。なぜならそこでは、耐えること、折れないこと、欲望に勝つこと、敵に屈しないことが価値になるからだ。本来は自己に向けられるべき規律が、他者への侮蔑へ変わる瞬間、ストレートエッジは一種のハイパー・マスキュリンな倫理へ接近する。酒やドラッグをやらないのに、振る舞いだけは最悪に荒っぽい。そういう矛盾した人物像が、90年代以降のストレートエッジを語るときしばしば現れるのは、この構造のせいだろう。酩酊を拒否することと、暴力を拒否することは、残念ながら同義ではない。

その結果、ストレートエッジには必然的にアンチが生まれる。しかもアンチは一種類ではない。まず外部のアンチがある。酒を飲まない、ドラッグをやらない、セックスについても慎重だというだけで、ロックの敵、快楽の敵、説教臭い連中として嫌われる。さらに90年代には、一部の暴力事件やハードライン周辺のミリタンシーが報じられたことで、ストレートエッジ全体がギャング的、カルト的な集団として外部から表象されるようにもなった。[2][5] メディア・パニックはいつもそうだが、いちばん極端な例が全体像として流通する。こうして本来は多様で分散的だったサブカルチャーが、単一の暴力的イメージに圧縮される。

次に内部のアンチがある。こちらのほうが本質的かもしれない。つまりハードコア内部からの反発だ。ストレートエッジが嫌われたのは、しらふだからではなく、しらふであることを他人より上位に置く態度が嫌われたのである。自分を律することは尊い。しかしそれが、飲んでいるやつ、吸っているやつ、うまく生きられないやつへの侮蔑に変わった瞬間、シーンの人間関係は当然壊れる。パンク/ハードコアにはもともと反権威の精神がある。だから新しい規律が新しい権威として振る舞い始めたとき、そこには必ず反発が起きる。ストレートエッジのアンチとは、単に不摂生側の開き直りではなく、「おまえら結局、別の規範を押しつけてるだけじゃないか」という批判でもあった。

この批判はかなり正当だと思う。というのも、ストレートエッジの一部は、自己決定の思想でありながら、しばしば自己決定を他人に許さない方向へ進んだからだ。MacKayeが語っていた自由主義的な核、すなわち「自分の生き方は自分で決める」という原理は、厳格化したシーンの一部では、「正しい生き方はこれしかない」という形へ反転した。起源と発展がここまでねじれるサブカルチャーも珍しい。だからストレートエッジを評価するなら、最初の理念の美しさだけでなく、それが共同体の中でどう硬直したかまで見なければならない。

とはいえ、ここで全部を冷笑に回収するのも違う。なぜならストレートエッジは、いまだにハードコアの最良の部分も担っているからだ。飲酒やドラッグを前提にしない場を作ること。若くて不器用な人間が、自己破壊を通過儀礼にしなくていい回路を持つこと。しらふのまま怒り、しらふのまま連帯し、しらふのまま芸術と政治を接続できること。これらは本気で重要である。とくに、酩酊を自由のしるしとして売り続ける資本主義のもとでは、その重要性はむしろ増している。酒を飲まないだけで場のノリから排除される社会がまだ続いている以上、ストレートエッジ的な感覚は終わっていない。

では、いま聴くならどのバンドから入るべきか。まず当然ながらMinor Threatである。ここを飛ばすと全部が歪む。曲の短さ、切断面の鋭さ、説教ではなく切実さとして鳴る怒り。ストレートエッジを知りたいなら、まずは思想としてではなく音としてMinor Threatを浴びるべきだ。彼らの重要さは、後年の神話化とは別に、Dischord自身が“Straight Edge”という語の起源を明記していることからも揺らがない。[7]

次にYouth of Today。もしMinor Threatが起点だとすれば、Youth of Todayは拡張子である。彼らはストレートエッジをより共同体的に、より運動的に、よりポジティヴにした。Ray Cappo周辺の感覚は、ニヒリズムに対抗する意志としてのストレートエッジを最も分かりやすく言語化している。[6] ただし、ここから先は光と影が同時に強くなる。だから彼らを聴くときは、単に熱い、前向き、最高で終わらせず、なぜこの前向きさが後の教条主義に接続しえたのかまで考えたい。

そしてJudge。ここは通過しないわけにいかない。ストレートエッジが持つ圧力、威嚇、純化衝動、その危うい魅力がもっともむき出しで聞こえるからだ。好き嫌いが分かれるのは当然だし、むしろ分かれなければおかしい。だが、ストレートエッジがいかにして禁欲の思想から力の美学へ滑ったかを知るには、Judgeを避けて通れない。

さらに90年代の転回を掴むにはEarth Crisisだろう。ここでストレートエッジは、NYHC的な硬さを保ちながら、メタリックな重量と動物解放/ヴィーガンの倫理へ強く接続される。禁酒禁煙だけではなく、何を食べ、何に加担し、何を搾取と呼ぶかまで射程に入ってくる。この拡張は刺激的だし、同時に原理主義化の危険も孕む。だからこそ重要だ。

余裕があれば、Uniform Choiceや7 Secondsのような西海岸のポジティヴ・ハードコアも合わせて聴くといい。Uniform Choiceはストレートエッジをより明快な自己規律として響かせ、7 Secondsは必ずしも厳密な意味でのエッジ・バンドではないにせよ、ポジティヴ・ハードコアの回路を理解するうえで重要だ。要するに、ストレートエッジを一枚岩の教義としてではなく、DCの起源、NYの共同体化、西海岸の別のポジティヴィティ、90年代のヴィーガン化という複数の層で聴いたほうが、ずっと見通しが良くなる。

聴き方のコツをもう少しだけ言えば、歌詞だけを追わないことだ。ストレートエッジの本質はしばしば、言葉そのものより、どんなテンポで、どんな声で、どんな身体感覚を前提に鳴っているかに出る。Minor Threatの切迫感は、教義ではなく切実さとして聴こえる。Youth of Todayの高揚は、訓示というより集団的な鼓舞として機能する。Judgeになると、同じ規律が圧力と威圧に変わり、Earth Crisisでは倫理が戦闘態勢に入る。つまり同じ「ノー」が、時代ごとにまったく違う身体を持っている。ここを聴き分けることができれば、ストレートエッジはただのライフスタイル名ではなく、ハードコア内部で変形し続けた感情の形式として立ち上がってくる。

ストレートエッジはDCから始まったが、各地で異なる表情を取った。より個人的な倫理として機能する場所もあれば、より集団主義的な規律として機能する場所もあった。その差を聴き分けると、単に「エッジかそうでないか」という雑な二分法では見えない風景が出てくる。

もうひとつ付け加えるなら、ストレートエッジの持続力は、その厳格さよりもむしろ反復可能性にあったのだと思う。毎週末に酔いつぶれる文化は、外から見れば派手でも、当事者の生活をじわじわ削っていく。対してストレートエッジは、ツアーを回るにも、ジンを作るにも、働くにも、翌朝起きるにも都合がいい。要するに、続けられる。パンクやハードコアが一夜の火花ではなく、何年も続く生活圏である以上、この「続けられる反抗」はきわめて大きい。自己破壊の速度を少し落とすだけで、人はもっと多くのものを作れる。ストレートエッジが単なる禁欲の流行ではなく文化として残ったのは、その継続可能性ゆえでもある。

だからこそ逆に、ストレートエッジはつねに自分自身を監視しなければならない。続けられる文化は制度になりやすく、制度になった文化は人を選別し始めるからだ。起源の美しさを守りたいなら、教条化を避けるしかない。自分を壊さないことと、他人を裁くことは別である。この当たり前を忘れた瞬間、ストレートエッジは最良の部分を失う。しらふであることが偉さの尺度になったとき、それはもう反抗ではなく管理に近い。だからストレートエッジの核心は、禁止項目の多さではなく、どこまで他人の自由を侵さずに自分の自由を守れるか、という難しい均衡の上にある。

結局のところ、ストレートエッジは矛盾に満ちた文化だ。自己破壊への反抗として始まりながら、しばしば他者への抑圧へ接近した。自由の宣言として始まりながら、しばしば規律の警察になった。ポジティヴであろうとした結果、暴力の匂いを帯びることもあった。だが、その矛盾を理由に全部を茶化してしまえば、若者たちがなぜそこに救いを見たのかが見えなくなる。逆に、理想だけを語れば、筋力と純化の政治にどう飲まれたかを見落とす。

だからストレートエッジについて書くなら、礼賛でも嘲笑でもなく、その両義性そのものを書くしかない。しらふであることは、世界からの撤退ではない。それは世界のノイズを一段薄くして、自分の怒りや違和感をより鮮明に聞き取るための方法にもなりうる。だが、鮮明さは簡単に潔癖へ変わる。集中はすぐに排除へ変わる。そこにこの文化の美しさと危うさが同時にある。

ストレートエッジは、酒もドラッグもやらない優等生たちのサブカルではなかった。むしろ、壊れることを強要する文化の中で、壊れないまま反抗しようとした連中の文化だった。そして、その壊れないという意志が、ときに別の硬さ、ときに別の暴力、ときに別の権威を生んでしまった文化でもあった。

で、最初の問いに戻る。何をどこまで考えてこの名前のブランドにしたのか。ぜひ関係者に聞いてみたい。

参考文献

関係者のインタビューが延々と続く、600ページに及ぶ地獄の検証本、スティーブン・ブラッシュ「アメリカン・ハードコア」もおすすめ。

[1]: https://www.thewire.co.uk/in-writing/book-extracts/read-an-excerpt-from-straight-edge-a-clear-headed-hardcore-punk-history-by-tony-rettman "The Wire: Tony Rettman book excerpt"
[2]: https://haenfler.sites.grinnell.edu/straight-edge/ "Grinnell College / Ross Haenfler: Straight Edge"
[3]: http://www.satyamag.com/aug06/mackaye.html "Satya Magazine: Interview with Ian MacKaye Part 2"
[4]: https://www.rutgersuniversitypress.org/straight-edge/9780813538525/ "Rutgers University Press: Straight Edge by Ross Haenfler"
[5]: https://www.newswise.com/articles/straight-edge-cool-alternative-to-just-say-no "Newswise / UNCW: Straight Edge -- cool alternative to 'Just Say No'"
[6]: https://daily.redbullmusicacademy.com/2017/05/youth-of-today-oral-history/ "Red Bull Music Academy Daily: Youth of Today oral history"
[7]: https://dischord.com/band/minor-threat "Dischord Records: Minor Threat"

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コメント

2
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Boston HardcoreのSSDのアルがストレートエッジをイアンマッカイを教祖とした宗教にしたいと考えたり、ベニューで酒飲んでる人を集団で襲う流れがCrew化して音的にもNYのYouth Of Today のようなバンドにバトンが渡り、かなりクリーンでファッショナブルになっていった流れも大きいと思います。

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第四京浜

やはりブランドではない。思想でありアティテュードだ。本物の実践者は常にシブい https://note.com/t4ke342/n/n2aeee663c8ea

ストレートエッジ|第四京浜
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