干さオレ~五反田地団駄篇~(第一〇回)
文芸時評・4月 荒木優太
大半の人類にとって関心のないことだろうが、私は明治大学大学院文学研究科日本文学専攻博士前期課程というところで修士号を得た。もう一五年くらい前のことだ。それで最近、同組織において博士論文の審査に関する裁判沙汰があったと知った――ちなみに、別件では明治大学国際日本学部教授の小谷瑛輔がハラスメントを受けたとして上司にあたる教員らを提訴しており明大は悪い意味でいまなにかと話題だ――。
支援者の落合修平「田村悠「谷崎潤一郎論」をめぐって」(note)によれば、博士後期課程に属していた田村悠は学位請求論文を提出したものの不受理となり、それを不服として裁判を起こしたが、処遇の撤回には至らなかったという。田村は私の一年先輩、落合は一年後輩で、宮越勉という教授の同じゼミに属していた。当時もいまも密接な交流があったわけではないが、会えば挨拶はするぐらいの関係性だ。博論は読んでいない。
落合の主張を要約すると、大学側は田村論文は博士論文として必要な要件を満たしていないと撥ねたが、そのルールの運用は恣意的であり、もし田村に適用されたルールを貫徹するなら自分(落合)も博士号を得ていないだろう、とのこと。ふつう博士論文は査読を通過した学術誌掲載論文をもとに複数の論考をまとめるかたちで完成するが、大学側はその元になった掲載誌のなかに学術的でないものが混じっていると斥けたようだ。
田村論文未読の上で感想を漏らせば、いかにもアカデミズム的な騒動だと思った。ここでいうアカデミズムとは、内容よりも形式を、主張よりも手続きを優先させようとする官僚主義的傾向である。官僚はテクストを読まない。テクストよりもテクストを取り囲むメディアや文脈、その権威性だけが幅を利かせる世界で生きている。『近代文学』の査読通過率の低さが一大事になるのもこの裏返しである。
ただし、大抵の官僚主義が抱える本当の問題は、ルールの機械的適用ではなく解釈権の独占のほうにある。機械のような冷たさに徹するのならばまだましで、ルールの意味をある解釈共同体のなかに封じ込めるところに真の厄介がある。慣例とは、ルールの条文と人間関係の偏りが悪魔合体した格率の名だ。田村が現在の屈辱を回避するには、原稿のクオリティを上げるのではなく、賢い人間関係を築かねばならなかった。ある党派にくみし、別の党派からの決別を宣言するようなパフォーマンスにいそしまねばならなかった――なお、私自身は共通の師であるところの宮越勉の指導的能力を疑っているが、ここでは措く――。つまるところ、政治家にならねばならなかった。こういうことが馬鹿らしくて私は「在野」などと言いだしたのだな、となんだか懐かしい気持ちになった。できれば政治家にはなりたくないものである。
常々心がけているのは、テクストだけを読んでお前がなにをどう思うのか、という問いかけだ。テクストという表記がキザで気に入らないのならば、目の前にある文章と言い換えてもいい。それだけが権威の色眼鏡を正義のヴェールに戻す方法である。
小野正嗣『路線バス』(文學界)を一読して、最初に抱くのは、よく分からんという感想である。なぜそうなるかといえば、二〇ページ強の長さに比して登場する固有名詞が多すぎるのだ。脇田興司と妻の河野里香、自殺した息子の雄大、興司の両親である脇田慶子と脇田隆治、高校教師の清家亮、元中学校国語教師でいまはボケ老人になった西田勤、身投げした妻の百合子、西田老人との浮名があった木村繁子、西田の近所に住む中野佳子、親戚の中野譲、霊媒師の山中咲子、彼女と同棲していた片山啓二、漁師の近藤祐介、突然市役所をやめ行方知らずとなった伊東理、その娘の伊東あおい、呪い師の岩井繁丸など。人名のつるべ打ちによってどこに力点があるのか混乱したまま読み終えることになる。最近の同作者には似たような作風が多いから意図的なものなのだろうが、意図的であろうがなんだろうが混乱はする。
県庁に勤めていたものの理由あって退職し、いまはバスの運転手をつとめている脇田興司は、自らのDVを省みることなく、自殺してしまった息子の雄大に悔いをもち、彼をいじめていた(と妄信している)清家亮を唾棄する。その似姿のようなボケ老人の西田勤は、かつて教師として興司を厳しく指導し、いまは亡き妻の姿を追いながら、好色な幻想のなかで生きている。「入り組んだ海岸が形づくるこの小さな湾こそが目撃者だった」の言葉にあるとおり、ある集落の記憶、ときに記憶の混濁もふくむ入り組んだ一切合切を記載しようとするとこのような記述になるのかもしれないが、正直なところ、真面目に付き合って損をしたという徒労感は否めない。
三国美千子『姥皮』(新潮)も疲れた。子供が欲しいのに旦那が協力的ではない元子は、母の叔母にあたるあけ美から「姥皮」という老女に化けられる不思議な皮をもらい、自分の伯母に恋心をもっていた旦那の誘惑に成功し子をさずかる。昔話の「姥皮」に材をとっており、老女にみえたものが元の姿の若い娘に戻って幸せな結婚をするという話型の逆を往っていることが分かる。
分かる、が、だからなんだ。元子の場合は旦那が伯母好きだったという背景があるからいい。広い世の中、そういう人もいるだろう。しかし、元子の母も子供ができないことを悩み、「姥皮」を用いて年上好きがする性的な集会で妊娠したことを告げる段に至って、その不自然さを看過することはできない。第一に、年上好きたちの性的な集会ってなんだよ。第二に、浮気で子作りするにしても特殊性癖(誤用!)の連中に頼ろうとするってなんだよ。男性のファンタジックな性妄想を象徴的にうがっているのかもしれないが、世の男たちがそんなに婆さん好きだったらば、エプスタイン島も小学館漫画編集部もあんなに炎上したりしない。作者の作品史を参照すれば恐らく色々なことがいえるのだろうが、単独で読んで腑に落ちないのは誰にとっても明らかにみえるが。現代文学は存在しない問題をでっち上げて、悩んでみせるポーズをとることがままあるが、本作もその類例のようにしか受け取れなかった。
光村図書の児童文学誌『飛ぶ教室』第八四号は、期待していなかったぶん、意外な掘り出し物に出会えたような感動があった。特集は「主人公はねこ」で、巻頭を藤岡拓太郎『だいふく』が飾る。学校から帰宅したら母が眠っており、机の上には大福があった。でもその白いものは実は見知らぬ白猫で、外の雷に驚いた猫は母親のセーターにもぐりこむ。すると起きた女は母ではなく隣のおばさんで、家を間違えていたのは自分だったという短編。挿絵が女児っぽく、女子小学生が主人公かと思いきや、「てあしを ばたばたさせて にゃーにゃー いいながら おばさんの いえを でていきました」と本文にあるので猫である可能性もある。しかも、末尾が冒頭とまったく同じく眠る女と机の上の白いものにループするとき、「じぶんの いえ」など本当は実在しないのではないかというぐらぐらした不安に襲われる。というよりも、先住民(先住猫)がいる「となりの いえ」だけが「じぶんの いえ」なのだとしたら。読み終えたあとパレスチナ問題について考えたくなる一作。
十二支のめぐりのなかでいつまで経っても自分の番が回ってこないことに不満をつのらせた猫が勝手に「ねこどし」を宣言する山崎ナオコーラ『ねこどし』は、LGBTムーブメントや多様性社会を透かしながら、自分を大事にすることの困難に肉薄する。「ねこどし」に感化されたペンギンは「ペンギンどし」を主張し、折衷案として「ねこペンギンどし」が制定、さらに毛虫が参入し「ねこペンギン毛虫どし」に改訂される。ご推察のとおり、十二支から排除されたマイノリティ動物は次々に連結していき、寿限無のごとき呪文年と化す。その長ったらしい言いにくさは最終的に「みんなのとし」へと縮約される。まるでLGBTの表記が、LGBTQやLGBTQAに膨れ、まだ足りないのでLGBTQ+になったかのように。猫やペンギンが目指していたのは果たして「みんな」や「+」のような記号的な包摂だったのか。違和を残しつつも「入れてもらえないなら、ぼくが入れてあげればいいんだ」という猫の言葉が光っている。包摂を求める立場に甘んじる限り、権威は再生産され排除的なシステムは温存される。包摂を求めるのではなく、自らが包摂すると決めたとき、誰よりも偉い自分が立ち上がるのだ。
ずっと信じていることがある。「おまえが消えて喜ぶものに おまえのオールをまかせるな」(by中島みゆき)。仮に小さくて粗末なオールだったとしても、自分で漕いでいることに博士号以上の価値があると信じている。このような自主独立の精神を、ネオリベと嘲笑う知的風潮が広まって久しい。残念なことだ。構わず私は官僚の先を行くことにしよう。彼らが書くものよりも私のほうが面白く、面白さは最後には勝利すると信じているから。論文未読の私にいえるのは、とりあえずはそれぐらいのことである。
▶荒木優太。在野研究者。1987年生まれ。著書に『これからのエリック・ホッファーのために』(東京書籍)、『貧しい出版者』(フィルムアート社)、『仮説的偶然文学論』(月曜社)など。近刊に『文芸時評傑作選~炎上の炎に焼かれてアチチの巻~』(在野研究社)がある。
※見出し画像は、scoop kawamura「函館」

