「何も起こらないのです。」つげ義春インタビュー(『つげ義春が語る マンガと貧乏』試し読み)
つげ義春の過去50年間の発言からマンガ家人生をたどる『つげ義春が語る マンガと貧乏』(筑摩書房)。この中からインタビュー「何も起こらないのです。」を特別に公開いたします。(聞き手:香川眞吾)
私の近況4 何も起こらないのです。
――今回は、つげさんの作品に度々、取り上げられる〝蒸発〞について伺いたいと思っているのですが。「蒸発旅日記」にリアルな手記として蒸発の事が書かれてありますが、蒸発という事はいつ頃から頭にあったものなのですか。
つげ いつ頃からというより、常に世の中から逃げ出したいような気持ちでいましたね(笑)。それがどうしてそうなのか、自問する余裕も思考力もなかったですから、わけの解らぬまま発作的に実行してしまった感じでしたね。
――旅に出るという事と、蒸発は本質的に違うものだと思うのですが。
つげ それは全く違いますね。旅は元の場所に帰って来ますが、蒸発は帰って来ませんから、まるっきり違いますね。蒸発を実行するのは大変な苦しさが伴うんです……。
ですから、自分の場合もいきなり九州に行ったんではなく、途中で何度も迷って、三重県松坂あたりに一泊して、そこから大阪へ行ってなお踏ん切りがつかず、千葉の知っている宿屋に〝これから行くから〞って葉書を出したりしたんです。でも、出してしまったものの、せっかく大阪まで来たんだからと、そのまま九州へ行ってしまったんです。
――おっしゃっている苦しさとはどういったものなのでしょうか。
つげ 蒸発は行方不明になって、別の場所で別の人生を生きるわけですが、行方をくらますときに、それまでの自分の一切を捨てるので、死ぬわけではないですけど、自分を消すという意味では自殺行為に等しいですから、それで狂いそうになるほど苦しいんですね。まるで、異次元に突入して行くような感覚なんです。
実際の死は、肉体とともに意識を失うから精神の苦しさはそれほどでないと思えるんですけど、蒸発は意識を保ったまま死を体験しているといった感じかな。
蒸発先ヘ向かって行く空間が膨張して、何か質感を持っているように感覚され、息苦しくて、空間を手で押し広げて異次元へ突入して行くような奇妙な状態なんですね。
蒸発とは関係ない「外のふくらみ」という作品がありますけど、「外」が実体として家の中に浸入してくる話です。その「外」という空間がベールのような膜のような質感を持ち、それを突破するのが苦しくて、主人公はもがくのですが、外へ出てみるとふだんと変わりない……。それと似たような感じで、ぼくも外面はまあふつうの様子をしていたと思えるんですけど、内面ではもがき苦しんでいましたね。
それで九州にたどりつくと、別次元でもなんでもなく、普通の現実空間と変りない。でも、空間を突破したという感覚でした。
人間の死ぬときの感覚は想像できないですけれど、肉体が死に移行するにつれて、意識も引きずられて死に至る状態は、やはり異空間に突入して行くような感覚ではないかと思えるんですけどね。
「無能の人」の第六話「蒸発」では、俳人の井月が死の間際に辞世の句を求められ、「何処やらに鶴の声きくかすみかな」と詠(よ)む場面があって、これは史実なんですが、その句は実はかなり以前の作なんですね。それを死ぬ直前に詠んだというのは〝かすみ〞が脳裏にあったのではないかと、ぼくは理解しているんです。空間がかすみ一面に茫と広がって、生と死の境の膜のように感覚され、それを井月は突き破って、越後から伊那谷へ蒸発して来た。そのときの感覚によって作られた句ではないかと思えるんです。だから蒸発は死と同じではないかと。
――蒸発については、以前に、自分自身の束縛から解放された、自由自在の境地というような言い方をされていたように思うのですが、その心理というのはどのようなことなのでしょう。
つげ ええ、もがき苦しんだあとは凄い解放感でしたね。
それについてもう少し説明しますと、蒸発先で別人を装って生きるにしても、蒸発する以前の過去に形成された心まで急に別人に変るわけではないんです。だけど、蒸発先では別人を演じているから、過去の心は浮いてしまい、別人としての心も本当の自分ではないわけですから、両方ともどこにも所属できない寄り処がないといった感じで、浮いてしまうのです。
その浮遊した感覚というのは、自分はどこの誰でもない、そこにいながら、いない。この世から抜け出てしまったような、妙な心持ちなんですよ。
自分というのは無意識に社会に染まり、所属し規定もされているわけでしょう。そういう関係としての存在だと言われていますが、蒸発はその関係や絆が切れてしまった状態なんですね。すると何に対しても執着が起きないという感じで、うまく言えないんですが、執着していた心がこの世から剝れたというか、離脱したような妙な感覚なんです。
一切が関係ない、縛るものがないから解放感でのびのびした状態になるんですけれど、でもそれは、無責任になって解放されたということではないんです。
――過去の心も蒸発先での別人としての心も両方とも浮いてしまうと、自己同一性や存在基盤はどうなるのでしょう。
つげ 蒸発先を〝虚〞として、蒸発前を〝実〞とする相対的な見かたをすると、その虚実の中間の精神領域も考えられるんじゃないでしょうか。中間だからどっちつかずの曖昧ということではなく、究極の中間こそ相対の真ん中に収斂したゼロ点であり、無ではないかと……。完全な無とまではいかなくとも、少し手前の無に近い位置もあるわけで、そういう領域を想定すると、それが存在基盤になるのではないですかね。蒸発の精神状態はそれに近いように思えるんです。
九州をさまよっている間はやたら軽かったんですけど、蒸発を中止して東京に戻ったら、その精神状態は消えてしまって、二度と蘇えらないんですけどね(笑)。
それをずっと後年になって、宗教書などを読むようになってから考えてみると、宗教のひとつの境位に似ているのではないかと思えたんです。
――どういうことでしょう。
つげ たとえば、親鸞は〝非僧非俗〞という生き方をしたでしょう。僧でもなく俗でもないという中間の立場ね。それは単に世間的な身分という意味ではないはずで、やはり中立とか中道という偏りのない中間そのものを存立基盤にしていたのではないかと思えるんですね。だから、蒸発も虚実の中間ということで似ているんじゃないかと。
親鸞自身は蒸発者ではないですけれど、その心は中庸だから、どこにも執着することもなく、とらわれのない自由な境地だったと思えるんです。
それで、そのことに関連しますけれど、以前、乞食になりたい話をしたでしょう。なぜ乞食なのか、ですけど。乞食には乞食としての生きがいや張り合いがあるんですかね。何か目的や夢や希望があるとは思えないんですよ。生きている意味も何もないのではないでしょうか。すべての縁が切れ、一切が無関係の、どこにも属していない状態だから自分を規定するものがない。ということは、自分からも解放されて、無私というか、無我に近いのではないかと思えるのです。宗教も無我を説いているから、そうすると、乞食は凄いなあと……(笑)。
だけど、乞食は自己を束縛するものがないから自我の不統合をきたし、自己喪失している面があるでしょう。そこが宗教家とは違うところで、宗教家は悟りを求める目的や求道の精神が、支えになって保っているのでしょうね。でも、乞食も蒸発も宗教に通じるものがあるんじゃないかと思えるんです。
――しかし、蒸発にしても乞食になるにしても、大変な決心のいることですよね。この現実に馴染めないで、何処かへ行ってしまいたいとふと思うことは誰にもあるでしょうけど、そうざらに実行できるものではない。
そういえば、つげさんは少年時代にニューヨーク行きの船に密航されたことがあったという話ですが、それもそういう気持ちがあったのでしょうか。
つげ いや、あの頃は、まだ蒸発というようなことを考える年齢じゃなかったです。十四歳くらいでしたからね(笑)。あれは内面的なことではなく、現実生活が苦しかったから家から逃げ出したということです。
――それにしても、いくら子どもにしたって密航っていう発想、仲々浮かばないですよ(笑)。
つげ ですから自分の場合は、ふだんは臆病でビクビクしているくせに、思い詰めるとなぜか過激なことをやってしまうバカな面があるんです。それがたいてい逃げるということに情熱を傾けてしまう(笑)。
――色々お話を伺っているうちに、つげさんがマンガを描かないのも、蒸発の一種ではないかっていう気がしてきましたよ(笑)。
つげ いや、マンガを描かないのは単にその気がないだけです。
――『つげ義春漫画術』の中で、作家は自分自身の生きざまを虚構化してしまうっていう話が出て来ますよね。例えば、興味もないのに盆栽をやらせてみるとか、厳寒の川に釣り糸をたれて釣りをさせてみるとか。
これも、自分の本心と偽りの心を宙ぶらりんにしている事だと思うんですね。でも、逆をいうとすごい決心をして大変な創造行為をしているっていう事になりませんか。つまり、自分自身の創作化というのは、究極の創造行為の気がするんですよ。だから、つげさんは表現者としてすごい所に行っておられるのではないかと(笑)。
つげ 以前、そういう変な理屈を言ってましたねえ(笑)。
でも、創作するという行為は作者を虚構化する面はあるでしょうね。とくに自分のように私小説風の描き方をすると、作者像が誤解され別人のように虚構化されてしまうというか……。すると実像のほうは消えて、どこの誰でもなくなってしまう。その誰でもない存在になるために、自分を創作化して見せるのかな。ややこしいんですけど、自分の無化が創作の目的ではないかと考えたりしていたんですね。う〜ん、やっぱり変な理屈かな(笑)。
――「無能の人」の主人公なんかも、石を拾って並べたって売れるわけないってわかってやっているわけですよね。それでも、そういう行為を続けている。その辺、つげさんの気分と重なるものはないのかなと思ったりもしたのですが。マンガと作者を一緒にするなと怒られそうですが(笑)。
つげ たしかに「無能の人」の主人公にはそういう面もあるんですけど、ぼく自身は日常において、自分を客観的に見るっていう余裕はないですよ。いつも何事も本気になってオロオロしている。
あの「無能の人」シリーズは、完結してないんですよ。まだ終ってはいないんですよね。
――あの後、主人公の助川助三と家族はどうなるんですか?
つげ ……まあ、いちおうラストのようなものは考えてはいるんですが……。
――助川が旅に出てしまうとか。
つげ いえ、あのままなんですよ。ちっとも変わらないんです。あの三人はずっと一緒なんです。何も起こらないんです。
助川は、自覚している人物として設定したんですけど、ただ、今までの話では彼のインテリ的な部分は抑えているんです。
ですから、作品の中で「わざと古物屋になったりして」とかいうセリフを奥さんに言わせたりしているんです。わざと、という面はあるんです。
そうすると、わざと演じているということは、やはり自分を虚構化する意味になるんですけれど、助川さんはどうなのかなあ(笑)。そうまで極端にならないように、古本屋の山井よりももっとしっかりした人物として考えてはいたのですが……。
山井も井月も蒸発を実行した過激派でしょう(笑)。それに対して助川は絶対に実行しない人物として描こうと思っていたんです。
――それは何故なんですか。
つげ うーん難しいねえ(笑)。
親鸞さんほどの人でも、ちょっと病気をしても死ぬんじゃないかと心配したりするんですよ。生身の体は暑さ寒さも、腹が空くこともあるわけで、だからワープを目ざすだけではなく、依然、現実社会のあることも忘れぬ視線を持つことも、病気を心配したりする話で説いているんじゃないかと思えるんですよ。まあ、助川さんはそんな感じかな。
――「無能の人」シリーズは、つげさんの作品の中でも好きな人が多いので、是非、今のつげさんの感覚で続編を描いてほしいですね。
(つげ、少し目を伏せ、黙って笑顔を見せている)
――少し話が変わりますけど、「やなぎ屋主人」とか「ゲンセンカン主人」の主人公達って、顔つきとか現実のつげさんに似ていませんか? 特に「ゲンセンカン主人」の男なんて、今のつげさんにそっくりですよ(笑)。
つげ いや(笑)、あれは自分に似せて描いたわけでも何でもなくて。
――だとしたら、本当に似てしまっているというか……。
つげ まあ、だから「やなぎ屋主人」にしろ「ゲンセンカン主人」にしろよっぽど感情移入して描いた結果なのでしょう。
――現実が虚構に近付いたという事でしょうか。そういえば「ゲンセンカン主人」について、虚構と現実の相関関係、虚と実の出会いのドラマだというような事をおっしゃっていますが。
つげ ええ、前世と現世についての会話や、ラストでは、虚と実ともいえる二人の人物の出会いなど、相対的関係を暗示的に見せていますけどね。当時、自分の不安定さから何かを探ろうとして……。それは相対でない絶対を希求するような気持ちだったと思えるのですが、それをイメージ化した、といえるかな。
この現象世界は相反する性質が相対的な関係で成り立っているという認識のしかたがあるでしょう。たとえばプラスとマイナス、陰と陽、虚と実、生と死、有と無、というように、お互いに反対の性質とくらべることによってお互いが確かめられるという……。どちらかひとつではその性質を証明できないから、そういう捉えかたをせざるをえないけれど、ふたつを分けることによって、さまざまな錯誤や混乱が生じるんですね。
有と無にしても、有を証明するには対比する無が必要です。しかし無は何もないから無なのであって、無という実体があるわけではない。その無い相手と有をくらべることはできないから、有だけが独自に存在することはできないわけですね。すると有も無も同時に存在できないということになってしまう。ということは反対の性質を切り離すことはできないから、有と無は同一ということになる。生と死も別々じゃあない。虚と実も分けられない一つということですね。
――ああ、それであの作品のラストでは主人公の男、これが実像だとしたら、もうひとりのそっくりな男、こっちが虚像ですよね、その二人が出会う直前で終ってますね。
つげ そうですね。もし出会ってしまったらどうなるのでしょう。反対の性質が合体すると、相殺されてゼロになる……(笑)。だからその先は描けないんですね。
――この世のすべては二元対立しているのではなく、対(ペア)として認識するということですね。
つげ そうすると本来の実相が観えてくるんじゃないでしょうか。すべてをゼロと言ってしまうと何もかも消えてしまうことになるけれど、そうじゃなくゼロと〝観想〞するというか、〝空〞と観想するというか……。
――「蒸発」の作中に出てくるセリフに〝自分を「あって、ない」と観想する〞というのがありますが、そういうことですね。
つげ さっき蒸発者の心理を、「そこにいながら、いない」ような感覚と言いましたのも「あって、ない」と同じ意味で、そのように観想することによって実相が顕現する。
なんか、難しくなってしまって頭が回転しないんですけれど(笑)。結局ね、相対的な観かたをするようになって、本来「あるがままにある」世界を曇らせてしまったんですね。人間以外の生き物は「あるがまま」に融合して生きているのに、人間だけがこの世界を対象化して、勝手な観かた、判断をして人為的に仮構してしまった。歪(ゆが)んだ世界にしてしまった。だからぼくは生きにくくて逃げ出そうとしたんです。
と、言えると格好いいんですけど、そうは言えないんですよね。自分の歪みが投影されて仮構されているわけでもあるんだから。自分の歪みの大きさに比例して世界は歪むというか、情けないんですよ(笑)。だから「三界は唯心の所現」というのでしょう。自分の心のありようで「あるがまま」を歪めてしまう。
――「あるがまま」を正しく把握するには、結局、無心、無我になるということでしょうね。
つげ 無我になって自己が消えると、必然的に他も消えることになる。自他の分別のない状態になって、この世界を対象化せず、仮構しないまま「あるがまま」を実感し体得することが、悟りの境地というのでしょうね。
前にも話したように、出家することは一般社会のすべてを捨て関係を断って、名前まで僧名に変えて別人になるんですよね。蒸発のように。だけど、行方不明にもならず、集団で暮らし、寺という公認された世界に所属していては別人になれるわけがない。蒸発を形式化しているようなものにすぎない。
別人になるとは、単に名前と職業を変えた別人のことではなく、どこにも属さない心そのものが別人になるという意味ですから、寺に就職するような出家では話にならないです。
だから寺からも蒸発し、乞食になったりするのは無謀とはいえないわけで、むしろ〝非僧非俗〞という立場こそ、悟りへの近道ではないかと思えるんですね。
(平成十五年五月 調布にて)
『つげ義春初期傑作短編集』第四巻二〇〇三年七月
つげ義春(つげ・よしはる)
1937(昭和12)年、東京葛飾生まれ。子供のころからいくつものアルバイトを経験し、小学校卒業とともにメッキ工場に勤める。その後職を変わりながら、職業としてマンガ家をめざし、1955(昭和30)年に単行本『白面夜叉』で本格デビュー。貸本マンガや子供向け雑誌で活躍。1965(昭和40)年から『ガロ』に作品を発表し、注目を集める。独特な作風で知られ、寡作ながら版を変えて作品集が刊行され続けている。代表作に「ねじ式」「無能の人」「ゲンセンカン主人」「李さん一家」がある。ほかにエッセイ集として『つげ義春の温泉』『貧困旅行記』、対談集として『つげ義春が語る』など幅広く発表している。2020(令和2)年、第47回アングレーム国際漫画祭特別栄誉賞受賞。2022(令和4)年、日本芸術院会員に選出。2024(令和6)年、旭日中綬章受章。2026年3月逝去。
【関連書籍】
『つげ義春が語る マンガと貧乏』(筑摩書房)
1987年を最後に長い休筆期間にある、つげ義春。貸本時代の悪戦苦闘、衝撃を与えた「紅い花」「ねじ式」……。過去50年間の発言からマンガ家人生をたどる。
『つげ義春コレクション 全9冊セット』(ちくま文庫)
マンガ表現の歴史を変えた、つげ義春。初期代表作から「ガロ」以降すべての作品、さらにイラスト・エッセイを集めたコレクション。


