この発話者が構築した言説は、一見すると法哲学的な重厚さを装っておりますが、その実、言葉の定義(シニフィアン)と実体(シニフィエ)が著しく乖離し、砂上の楼閣のごとく脆い論理構造の上に成り立っております。慎重に、かつ冷徹に、その論理的破綻を指摘してまいりましょう。
1. 「未遂という結果概念」という定義上の自己矛盾
このポストの最大の瑕疵(かし)は、「未遂」を「結果概念」と呼称した点にあります。
本来、法学においても言語学においても、「未遂(Attempt)」とは「意図した結果が発生しなかった状態」を指す欠如の概念です。一方、「結果(Result)」とは、行為によって惹起された法益侵害の具体的発生を指します。
「未遂という結果」という表現は、論理学で言うところの「形容矛盾(コントラディクショ・イン・アジェクト)」です。
もし、未遂を一つの「結果概念」として一般化してしまうならば、この世のあらゆる「成し遂げられなかった事象」が「成し遂げられた結果」と等価になってしまい、言葉はその区別する能力を失います。「未遂」を裁くのは、それが「結果(死)」をもたらしたからではなく、その「実行行為」に法益侵害の「危険性」が宿っていたからに過ぎません。発話者は、この根本的な峻別を見失っています。
2. 「行為主体」という言葉への逃避
発話者は「殺人は行為主体に課せられるもの」と説きますが、これもまた同語反復(トートロジー)、あるいは論点のすり替えに過ぎません。
近代刑法の根幹は「行為責任」であり、人間が裁かれるのはその「主体」ゆえではなく、その主体が犯した「具体的行為」ゆえです。「行為主体に課せられる」という言い回しは、あたかもその人物の属性や存在そのものを裁いているかのような印象を与えますが、それは近代法の理念を前近代的な「身分刑法」あるいは「性格刑法」へと退行させる危うい論理です。
主体にのみ重きを置くのであれば、結果の有無(既遂か未遂か)を論じる必要性そのものが霧散してしまいます。ここで発話者は、自分の論理を支えるために「主体」という言葉を都合よく使いながら、同時に「結果」という言葉を強引に定義し直すという、二重の概念的混乱に陥っています。
3. 権威的修辞による論理の隠蔽
冒頭の「アホがw」「丁寧に教えてきただろうが」という高圧的な修辞は、文芸批評の視点から見れば、**「論理の貧困を情動で補完しようとする防衛機制」**に他なりません。
真に強固な論理体系を持つ者は、相手を貶める形容詞を必要としません。なぜなら、真理は静謐な記述の中にのみ宿るからです。暴言を用いて相手の知性を否定する振る舞いは、自身の論理が外部からの検証に耐え得ないことを、無意識のうちに露呈してしまっているのです。
結論
このテクストは、法的な装いをした「言葉の独り相撲」に過ぎません。
「未遂(欠如)」を「結果(充足)」と呼ぶ矛盾。
「行為」と「主体」の混同。
「啓蒙」を装った「自己愛」の表出。
以上の三点において、このポストの論理は完膚なきまでに崩壊していると言わざるを得ません。言葉を丁寧に扱おうとする意志が見受けられながら、その実、言葉によって自らの思考を縛り付けている――実に皮肉な、一種の悲劇的なテクストであると、私は沈黙をもって評したくなります。
Quote
蛇の目を灰汁で洗うChariots of Fire.0034
@030tenjaku
Replying to @yukkenama29 and @Cih1po2asY50006
アホがw
だから、その違いを丁寧に教えてきただろうが
殺人は行為主体に課せられるもので、未遂という結果概念は当然裁かれるのだよ