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水谷竹秀「なぜ遺族の肉声を伝えなければならないのか」 叫び リンちゃん殺害事件の遺族を追って #3

 千葉県松戸市に住む小学3年生のレェ・ティ・ニャット・リンちゃん(当時9歳)が遺体となって発見されたのは、2017年3月26日のことです。それから7年。本連載では、東南アジア地域の在留邦人や在日外国人の問題、そして事件や事故の被害者遺族に取材を重ねてきた水谷竹秀氏が、父親レエ・アイン・ハオ氏の事件後の葛藤と闘いを同時進行的にレポートします。
(バックナンバーはこちらから:#1 /  #2)

インタビューは滞る

「私の娘は殺されました」

 目の前にいる人がそんな過去を持っていたら、どんな言葉を掛けたらいいだろう。

 ハオさんとの出会いを機に、遺族感情の複雑さについて考えるようになった。その他いくつかの事件の遺族にも取材を重ねた。あれから6年が経つが、その問いに対する答えは未だに見つかっていない。そもそも正解なんてないだろう。ただ、決めていることがひとつだけある。

「お気持ちはわかります」

 とは決して言わないことだ。話の内容は理解できても、気持ちまでわかるはずがない。その代わりにこんなふうに伝える。

「お話しされたいことの意味は理解しました」

 ハオさんの取材を始めた当初は、遺族にどのように接していいのかがわからなかった。悲しみの淵に立たされているのだろうとおもんぱかるあまり、掛ける言葉に気を遣ってしまい、まるで腫れ物に触るかのようだった。

 もうひとつ懸念があった。ハオさんにとって私は得体の知れないライターで、「この人にどこまで話をしていいのだろう?」という警戒心を抱かれて当然ということだ。

 私は新聞社やテレビ局の記者ではなく、フリーランスの書き手だ。ハオさんの取材に来る報道関係者は基本的に記者クラブに所属しており、囲み取材に際しても皆、見知った間柄だったため、私はどことなく蚊帳かやの外に置かれているような疎外感を覚えた。彼らには、大手メディアとして遺族の声を世の中に伝える意義や正当性のようなものがあるのかもしれない。私は私で、フリーで取材をしているからこその大義名分が必要だと思い込んでいた。

「好奇心」という言葉がある。いわゆる、見たい、聞きたい、知りたい気持ちだ。私のようなライターにはなくてはならない資質だと思っている。ただ、私が向き合っているのは、娘を殺害された遺族であり、その遺族に対して単なる好奇心で近づくのは不謹慎だ。こちらの関心が遺族の古傷をえぐってしまうからである。ゆえに伝える理由が必要になってくる。

 なぜ、ハオさんを取材するのか。
 なぜ、その肉声を伝えなければならないのか。

 心の中で繰り返される「なぜ」——。説得力のある説明ができなければ、取材を受ける相手を不安にさせてしまうだけだ。だからと言って、ハオさんを納得させるほどの取材動機が簡単に自分の中に見出せず、葛藤を抱えた。

 ハオさんがそんな私をどう思っていたかはわからない。少なくとも私には、名乗れる報道機関はなく、寄稿予定の媒体を伝えても、外国人のハオさんにはピンと来なかったはずだ。

 当初はそんないくつかの不安要素を抱えながらの取材だった。

 ハオさんと初めて会ったあの日、大手メディアの記者たちがハオさんの自宅を立ち去った後、私だけが残った。追加で聞きたいことがあったからだ。ところがハオさんと一対一になると、気まずい空気が流れ始めた。

 ハオさんの口が急に重くなったのだ。とにかく気難しい。それがはっきりとした形で現れたのは、ハオさんの経歴を尋ねた時だった。

「ベトナムで通っていた学校(のこと)は話したくない」

「家族のこともちょっと……」

 そうさえぎられた。妻のグエンさんとの出会いについて聞いた時も同様だった。

「あんまり載せたくない」

 新聞などの報道で、ハオさんの詳しい経歴や家庭の事情について触れられた記事をあまり見かけたことがなかったが、このやり取りでその理由がわかった。これまでメディアがハオさんに尋ねたか否かはともかく、ハオさん自身が話したがらないのだ。千葉地裁で2週間後に初公判を控えていたことも影響していたようだ。

「裁判終わったら話せると思います。今は裁判に良くない」

 何度となくインタビューがとどこおった。

 ハオさんがベトナム出身者だったため、来日するまでの経緯を知りたかった。それを私に話すことが、裁判の行方に直接関係があるとは思えない。とはいえ、初対面の遺族に事件以外のプライベートな事情を聞くのは非常識だったかも知れない。では事件について、あるいはリンちゃんとの思い出についてなら何でも話してくれるかといったら、そううまくはいかなかった。 

日本とベトナムの架け橋に

 ハオさんは「日本に来た後のことは大丈夫です」と言ってくれたので、来日後の経緯についてまずは尋ねた。

「日本に来たのは2007年。1人で来ました」

 ITエンジニアとしてベトナムで働いていた時に、日本のIT企業に採用されたのが来日のきっかけだった。渡航手続きなどの費用に大金を積み、借金して来日する技能実習生や留学生が社会問題化していたが、ハオさんはそうではなかった。曰く、日本側から引き抜かれたという。日本で最初に住んだのは松戸市内の市営団地で、同時期に来日したベトナム人の同僚と一緒に暮らした。母国に残した妻のグエンさんはその時、リンちゃんを身ごもっていた。生まれたのはハオさんが来日した2カ月後の、同年12月8日だった。名前を「ニャット・リン」と名付けた。

「リン」はベトナム語で「輝き」を、ミドルネームの「ニャット」は「日本」をそれぞれ意味し、日本とベトナムの架け橋になって欲しいとの願いが込められていた。出産には立ち会えず、初めて娘の顔を見たのはベトナムに帰省した時だった。生後7カ月になっていた。日本に戻ってからは2年ほど、家族離ればなれの生活が続いた。

「生まれてから9カ月経って、初めてお父さんの名前を呼ぶことができるようになりました。リンちゃんとはメッセンジャーで毎日連絡を取り、顔を合わせていました。ほとんど毎日、夜ご飯終わった後に最低10分は。リンちゃんが1歳ぐらいの時、『お父さんどこにいますか?』と聞かれ、『お父さんここにいるよ』と。歩くのは18カ月経ってからです」

 リンちゃんとの思い出話になると、ハオさんの表情は少しほぐれる。

 リンちゃんが来日したのは今から14年前のこと。勤務先のIT企業の休憩時間に、近くにあった小学校で楽しそうに遊んでいる児童の姿を見た。リンちゃんにも日本の学校で勉強して欲しいという気持ちになった。そして家族で一緒に住みたいと、2歳だったリンちゃんと妻のグエンさんを来日させた。一家で神奈川県川崎市の市営団地に住んだが、リンちゃんは保育園に通わず、家でベトナム語の勉強をしていた。

「日本に来てすぐに、リンちゃんにノートパソコンを買ってあげました。まずベトナム語を話せないといけないと感じましたので、動画や歌をパソコンで設定して見られるように。ドラえもんやドラゴンボールなどベトナム語版があるじゃないですか? リンちゃんは5歳までベトナム語版をよく見た」

 日本語を勉強し始めたのは5歳になってから。間もなく川崎の小学校に入学し、弟、トゥー君が生まれた。家ではもっぱら、妻が作るベトナム料理を食べ、日本食の味は学校の給食で覚えていったが、なまものは苦手だったという。

 松戸のむつ第二小学校に転校したのは2年生の3学期からで、ハオさんが購入した中古の一軒家に川崎から引っ越した。

「リンちゃんは絵を描くことが好きで、自分で練習していました。家とか学校、遊んだ先で。走るのはちょっと下手です。遅い。私は速いですけどね。1年生と2年生の運動会はビデオで撮ったんですが、3年生は仕事で行けなかったんです。学校では友達多い。家に連れてきたこともあります」

 休みの日には、親子でよく上野動物園に遊びに出掛けた。

「上野動物園には数え切れないほど行っています。1年に何回も。上野のアメ横にベトナムの食料品店があるので、そこで買い物もします」

 それはリンちゃんにとっても楽しい思い出だったに違いない。小学3年の夏休みの宿題で、ぬいぐるみ屋さんの絵とともに、次のように作文した。

 うえのどうぶつえんは すごくひろいです。
 ぞうのおやこもいました。
 うえのでわ おみせがいっぱいです。
 いちばでは べとなむとおなじなたべものがあります(原文ママ)

 リンちゃんはよく、家でマイク片手にカラオケを楽しんだ。ハオさん自身も日本の歌を口ずさみ、十八番おはこは松田聖子だ。祭壇の部屋の端にはそのための小部屋がある。歌声が近所迷惑にならないように、ハオさんが鉄のパイプと壁材を購入し、防音室を作ったというのだ。

「これが鉄棒。リンちゃんがよくこうやってました」

 ハオさんは懐かしそうに、しばらく鉄のパイプにぶら下がってみせた。小部屋の中には布団が敷かれたままで、ぬいぐるみがいくつか転がっていた。

「リンちゃんはボクシングもやります。僕が教えました。事件の後、赤いグローブは同級生の女の子にあげましたけど」

 話し始めてしばらく、ハオさんは、リンちゃんと過ごした日々がよみがえってきたかのようにじょうぜつになった。その勢いで「見学!」と一言発したハオさんが、2階に駆け上がっていく。私もその後について行くと、部屋の中にある大きなホワイトボードが目に飛び込んできた。

「ここに私が漢字を書いて、リンちゃんが下に同じ漢字を書く。私が日本語書くのが苦手で、3年生の時にリンちゃんが勉強した漢字を私が書いたら、リンちゃんから『きれいじゃない』と言われたんです。間違えているって。私ホントに日本語も下手ですから。日本語を一緒に勉強したんです」

 部屋の隅にはリンちゃんの学習机があった。ステンレス製の水筒やベトナム語の本が立て掛けられ、封筒や資料は乱雑に積まれ、「物置」と化していた。部屋の中には真っ赤なサンドバッグも吊るされている。そこにハオさんの蹴りが一発入った。

「ストレス解消」

 裁判の準備や事件のことでむしゃくしゃすると、このサンドバッグに気持ちをぶつけるのだ。1階への階段を降りる途中、頭上に防犯カメラも見つけたので、設置した理由についても尋ねた。

「全部で16個あります。リンちゃんの事件があって恐くなった。もし息子(トゥー君)が同じようなことになったらどうしようと。その時、脅迫はまだないけどそんな気持ちでした」

 事件発生から約10日後、ハオさんのもとには1本の脅迫電話がかかってきたという。その時、リンちゃんの遺体を埋葬するためにグエンさんとともにベトナムに帰省中だった。相手はベトナム語を話す男性で、ハオさんは「殺す」と脅された。理由はよくわからない。

 気付いたら、ハオさんと一対一で話し始めてすでに2時間以上が経過していた。

 夕暮れ時が迫っていたので、私は礼を言って家を出た。別れ際、ハオさんの顔からは笑顔が消え、能面のような表情に戻っていた。

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「ストレス解消」のため、
サンドバッグを打ち込む

ピンク色のペンキで塗り始めた

 ハオさんへの取材は戸惑いの連続だ。

 初めて会った日から5日後、私は再び彼の自宅へ向かった。家の前には、ビデオ撮影用の機材を片付けているカメラマンがいた。「ハオさんはいますか?」と声を掛けてみると、「中でもう1人の記者が取材しています」と伝えられ、私はまごついた。ハオさんからは事前に、「今回はメディアの方にお知らせしていません。電車で一緒に現場まで行きましょう」と言われていたからだ。間もなくハオさんが何事もなかったかのように玄関から出てきた。後ろから続く記者に向かって「車一緒にいいですか?」とハオさんが尋ねると、記者はいぶかしげな表情で私の顔を見ながら、「はい、まあ大丈夫ですよ……」と渋々応じてくれた。

 私はどうやら、テレビ局の取材班がチャーターしたタクシーに便乗させてもらうことになったようだ。ハオさんからすれば、空いているならいいじゃないか? という軽い気持ちだったのだろう。私は私で乗せてもらっている手前、車中でハオさんにあれこれ質問するわけにもいかない。記者も同業者の私がいるからと、ハオさんに話を聞きにくかったようだ。車内はどことなく気まずい空気が流れていた。 

 およそ30分後、我孫子市北新田を流れる利根川沿いに到着した。リンちゃんの遺体が発見された現場だ。そこは国道6号から徒歩10分ほど脇道へれた排水路脇で、雑草が生い茂り、周囲には田んぼが広がっている。排水路には水色の橋が架かっており、現場はその下に位置する。橋の近くにはリンちゃんを慰霊する小さな木製のほこらがひっそりと建ち、その周りには色鮮やかな花々や焼き物の地蔵などが飾られている。祠はハオさんの手作りで、事件発生から数カ月後、六実の自宅からここまで約20キロの区間、自転車の荷台に積んで運んで来たという。

 グレーのスーツに身を包んだハオさんは、薄いピンクのしゃくやくの花束を持ち、ビニールの包装をはがしてガラスの花瓶に生けた。ベトナム産の線香にはライターで火をつけ、小分けにして器に立てた。そして袋の中から白い小さな写真立てを取り出し、祠に入れた。中にはぬいぐるみやジュースなどのお供え物が入っている。

 ハオさんは立ったまま、無言で祠を見つめていた。するとその小さな目が、我が子を慈しむように丸く、そして包み込むような優しい表情に変わった。視線の先には、赤い帽子をかぶり、体操着を着て駆けっこをするリンちゃんの遺影がある。ハオさんはあらたまったように私たちの方を向き、たどたどしい日本語で静かに口を開いた。

「(リンちゃんが行方不明になって)ちょうど今日で1年2カ月です。毎月24日は私にとって、とてもつらいです。来月から初公判が始まる予定です。リンちゃんを殺害した犯人が明確になり、ちゃんと処罰できるように報告したいです」

 ハオさんは現場の方を振り向き、言葉を継いだ。

「リンちゃんの遺体がここに遺棄しました。澁谷被告は認めていないから、裁判で本当に真実が見えるかどうか心配です。しぶ恭正やすまさ被告が本当にリンちゃんを殺害した犯人だったら、極刑の判決を出して欲しいです。リンちゃんの明るい未来のために、今日は新しい色の家にしようかなと思います」

 新品の軍手と塗料缶を取り出したハオさんは、小さなロールで祠をピンク色に塗り始めた。リンちゃんの好きな色だ。祠の中のお供え物も軍手で丁寧に土埃を取り払い、黙々と塗り続ける。

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筆者の前で、ハオさんは祠をピンク色に塗り始めた
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側面には、「リンちゃんあいたいよ」との文字が見える

 全体がピンク色に染まると筆を取り出し、ペンキの上から日本語でこう書き加えた。

 あんしんしてリンちゃんは 
 はんにんはしけいをします 
 てんこくいけよ。
 はんにんちょうばつします 
 リンちゃんあいたいよ 2018.5.24(原文ママ)

 文字は間もなく、板に染み込むように消えていった。

 ハオさんはスマホ2台を取り出し、現在の心境を声に出して動画撮影を始めた。事件発生以来、投稿を続けてきたYouTubeやFacebookにアップするためだろう。

「とってもとってもつらいです。リンちゃんのこと何もできなかったんで。もうすぐ裁判行いますけど、リンちゃん、来月ちゃんと……」

 ハオさんは声を詰まらせ、涙ぐんだ。

「ちゃんと犯人を処罰しますから。今日、リンちゃんの好きな色に塗れたよ。これだけ見て……、リンちゃん話したいです。戻ってきて下さい」

 現場には線香の煙がゆらゆらと立ち込め、どこからともなく小鳥のさえずりが聞こえていた。

逮捕直前の犯人の生活

 ハオさんが死刑を望む男、澁谷恭正とは一体、どういう人間なのか。そろそろ筆を執らなければならない。

 澁谷は、リンちゃんが通う小学校でPTAの会長を務め、見守り活動を行う中でリンちゃんと知り合った。3年生の修了式の日、キャンピングカーで連れ去り、首を絞めて殺害した。その行動だけ見れば、幼女を狙った変質者だ。一方で、教育組織の責任者としての顔も併せ持っているため、地域住民にどう受け止められていたのかが知りたかった。その取材のため、私は澁谷が住んでいたマンション周辺の聞き込みを行った。

 それは事件が発生した年の夏の終わりだった。

 4階建てのそのマンションは、六実駅の改札を出てすぐ目の前に見える。ハオさんの自宅からは歩いて5分もかからない。1階はコンビニで、2階から4階が住民の部屋だ。各階に3部屋ずつ、全部で9世帯。澁谷の部屋は4階で、ドアには新聞の勧誘を断る小さなステッカーが貼り付けられたままだった。表札はない。台所の窓は、全面が古びたすだれで覆われ、当時の生活の名残が感じられた。

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澁谷が住んでいたマンションの部屋

 私は隣の部屋のインターフォンを押した。ドアを開けて出てきたのは中年の男性で、外で立ち話に応じてくれた。

「テレビでそういう事件を見ますけど、まさか自分の隣の部屋の方が、と本当にびっくりしました。あんなことするような人には、見えないです。澁谷さんと話したことはほとんどなく、土日で休みの時にたまに会って挨拶をするぐらいでした。昼間は家にいて、夜は居酒屋でバイトをしていたみたいですね。見た目は子煩悩で、子供さんが2人いました。日曜日なんかはサッカーに連れていく姿を見ましたね」

 突然の訪問にもかかわらず、隣人の男性は丁寧に対応してくれた。子供2人の母親は中国人女性で、澁谷が逮捕される直前まで一緒に暮らしていた。

「奧さんは見掛けたことがあります。年の頃は30代半ばで、中国の方だというのは知っていました。澁谷さんが『うちの奧さんは中国の人なんで』って言っていましたから。奧さんの両親が一時期、来日していたことがありました。新しい住人が来たのかなと思って話し掛けたら、居合わせた奧さんが『両親ですよ』って教えてくれました。それで、中国から遊びに来ているんだとわかりました」

 澁谷の子供はリンちゃんと同じ六実第二小学校に通っていた。長男が、リンちゃんの1学年上の4年生、長女が2年生だった。澁谷の部屋からは普段、子供たちがバタバタ走り回っているような音が聞こえてきたが、事件発生以降はぱたりと止んだ。

「子供さんが事件後どうなったのかは知りません。事情聴取に来た警察の方から、澁谷さんは中国人の奧さんと離婚していたと知らされ、驚きました」

 近隣住民たちへの聞き込みを続けると、「澁谷」という姓は、地元の名士であることがわかった。

 澁谷の母は、今のマンションがある場所でその昔、花屋を経営していた。澁谷には父親違いの姉が1人いて、その姉が母親の花屋を手伝っていたという。住民の1人が思い出したように語る。

「マンションが建つ前は平屋だったんです。そこでお母さんと体格がでっぷりしたお姉さんが花屋をやっていました。幼い時は知っていますが、その頃の息子さんは見たことがありません。父親は確か、郵便局員だったと聞いています」

 姉はかなり大きな身体で、小学生の頃からランドセルが小さく見えるほどだった。郵便局で働いていたという父は、澁谷と同じく黒縁眼鏡を掛けていたという。

 澁谷は、名前の恭正から「ヤス」と呼ばれていた。六実第二小学校を卒業し、六実中学校へ進んで柔道部に所属した。その当時の部員だった男性は、柔道部時代の澁谷についてこう回想した。

「最初は部活動にあまり顔を出していませんでしたが、2年生の秋頃から練習に来るようになりました。確か学級委員も務めていたかと。体が大きかったので、色々なことを買ってでるような積極性があったと記憶しています。私に対しては温厚で、割と仲良くしていたので、逮捕の知らせを聞いた時は本当にびっくりで、残念でした」

自らを「ロリコン」と吹聴する男

 澁谷は県立沼南高柳高校を卒業し、東京世田谷区にある東京栄養食糧専門学校に入学する。栄養士科で学んでいたが1年後に退学し、北海道の養豚場で4年ほど働く。ところが「一身上の都合」で退社し、関東へ戻った。母親から六実のマンションを相続していたため、家賃収入を得ながら、コンビニや飲食店などの職場を転々とした。そのうちのひとつに、松戸市内の中華料理店がある。澁谷が30代半ばの頃、アルバイトで働いていた職場だ。そこの店長によると、澁谷の勤務態度は真面目だったが、たまに激昂する癖が見られたという。

「普段は気さくな良い人って感じですが、キレやすいところがありました。飲み物の持ち込みをしていたお客さんを見つけて、『店長! 持ち込みだよ』と大声を出し、お客さんを怒らせてしまった記憶があります。従業員ともめることもあり、私が仲裁に入っていました」

 店で澁谷は、自身をロリコンだと吹聴していた。ある時、東南アジア系の幼女が無修正で映っている児童ポルノDVDを所持していた。

「それを3枚、従業員に貸そうとして、『いやちょっとこれは趣味じゃないので観れません』と遠慮され、笑い話になったことがありました。澁谷は自分のことを『私』と呼び、『私は若ければ若いほど好きなんだ』とも言っていました」

 澁谷は田端のコンビニで働いていた10年以上前、アルバイトだった20代の中国人女性留学生と仲良くなり、結婚したという。

「できちゃったって言っていました。男の子が生まれた時に一度、お店に連れてきました。奧さんは何度も来ています。ぽっちゃりして化粧っ気のない、少し幼い感じの子でした。愛想は良かったですよ。お父さんとお母さんが来日した時にもお店に来ました。澁谷は彼女と結婚するまでに2回か3回、離婚しているはずです」

 検察側の調べでは、澁谷はこの中国人女性を含めて3回離婚している。

 澁谷の父と母も離婚した。その後は母と一緒に暮らしていたらしく、母から相続した不動産の賃貸業については、こんな説明を受けていた。

「母親が数億円でローンを組み、子供たちのためにマンションを建てたと。ある程度返済したところで母親が亡くなったので、澁谷がローンごと遺産相続した。賃貸収入は入りますが、ローンの支払いがあるからそれほど裕福ではなかったんですよ。正社員として働くと税金を取られるからとアルバイトにしていたようです」

 澁谷は日本料理店で働きたいとの理由で店を辞め、以降、店長は連絡を取っていない。

 店長の証言から、「キレやすい」「ロリコン」といった人物像が浮かび上がる。一方で、地域住民たちの間では「毎日子供を送り迎えするような人だから信じられない」という感想のほうが多い。二重人格と言ってしまえばそれまでだが、店長の話からも、地域住民が感じていたような面倒見の良さを表すエピソードがあった。

 それは澁谷の姉についてである。病気がちの姉は、人工透析をしていた。病院に連れていくのは澁谷の役割だったらしく、その時はいつも遅れて出勤した。

「澁谷の姉さんが財産を相続しなかったのは、人工透析をしているからだと説明されたことがあります。収入があると国から透析の補助を受けられないので、澁谷が財産全額もらって、お姉さんの援助をしていると」

 一緒に暮らしていた母も死亡し、面倒を見続けていた姉もすでに他界した。母と離婚した父のその後の消息は不明という。

 複雑な家庭環境に生まれ育ったことには変わりない。職を転々とし、自身も何度か離婚するという数奇な人生を送った。だが最後は幸せな家庭を築き、子煩悩だったのだろう。子供を通わせた小学校では、PTAの会長にも就任した。

 どこで歯車が狂ったのか。

 なぜリンちゃんを連れ去ったのか。そしてなぜ、リンちゃんでなければならなかったのか。

 一審が行われた千葉地裁の法廷で、そして私が2年半にわたって繰り返した面会で、澁谷という人間の本性が次々と明らかになっていった。

*写真は筆者撮影、もしくはハオさん提供
(次回は9月26日の公開を予定しています)

◎筆者プロフィール
みずたに・たけひで/1975年、三重県生まれ。上智大学外国語学部卒業。新聞記者やカメラマンを経てフリーに。2004〜2017年にフィリピンを拠点に活動し、現在は東京。2011年『日本を捨てた男たち』で開高健ノンフィクション賞を受賞。ほかに『だから、居場所が欲しかった。』『ルポ 国際ロマンス詐欺』など。

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