自衛隊「偏差値全国一」の精鋭部隊が左翼に狙われた…元陸将が明かす「反戦自衛官」の知られざる実態
■反戦自衛官=“悪魔”に操られた犠牲者 私が連隊長に着任して以来、連隊本部の担当者は月1回の連隊朝礼のたびに私の隊員向けの訓話をテープに録音し、これを活字に起こしていた。その理由はこうだ。反戦自衛官問題が浮上して以来、歴代連隊長が朝礼で話した内容は、夕刻には反戦自衛官機関紙の『不屈の旗』に掲載されていたとのこと。これが法廷闘争などで使われる恐れがあるというので、連隊側も記録を残していたのだった。 着任後、隊員達の話を聞くうちに、32連隊から多数の反戦自衛官が出たことが、彼らの心に暗い影を落としていると感じた。 反戦自衛官は、かつて同じ釜の飯を食った仲間であり、都内で偶然再会して言葉を交わすこともあったという。 そのため、私は訓話で彼らを直接非難するのではなく、次のように語るようにしていた。 「反戦自衛官となった彼らは、もともと頭も良く、正義感に富んだ優秀な人間だった。しかし、極左グループから誤った思想を吹き込まれ、それを純粋に信じてしまった。彼らは“悪魔”に操られた犠牲者であり、真に憎むべきは彼らを利用した黒幕の側だ」 私はいまもその考えを変えていない。 ■イデオロギーとの出合いは「偶然」 人がどの思想に傾くかは、しばしば偶然の産物である。私自身、小学生のころに「共産主義は貧しい人を救う思想だ」と聞いて感動し、「大人になったら共産党に入ろう」と思ったことがある。 家族に強く反対されて思いとどまったが、もし別の進路を歩んでいれば、私は体制側ではなく反体制側にいたかもしれない。 人は、深い比較検討を経て思想を選ぶというより、偶然のきっかけで出合い、のめり込み、やがて体制側と反体制側に分かれて争うようになる。反戦自衛官問題は、その典型的な構造を示している。
■32連隊生え抜きの隊員が対峙した 反戦自衛官問題の渦中で、32連隊内部の秩序維持と組織防衛の最前線に立った幹部がいた。当時、連隊本部3科(作戦・運用)に所属していた清水剛1尉である。彼は昭和50(1975)年に入隊し、32連隊で陸士から幹部まで一貫して勤務した、生え抜きの隊員だった。 清水1尉は武道に秀で、銃剣道では全日本大会で複数回優勝するほどの実力者で、若い隊員からの信頼も厚かった。だが、彼が反戦自衛官との闘争で果たした最大の役割は、武道の強さではなく、組織の規律と士気を守るために必要な“人心の機微を掴む力”とリーダーシップだった。 以下は、私が連隊長として着任した際、清水1尉から直接聞いた証言を基にまとめたものである。 ■「“代理戦争”だったのではないか」 清水1尉が反戦自衛官と対峙したのは、彼が3尉になったばかりのころだった。彼はこう語った。 「自衛隊の歴史のなかで、隊内に反戦自衛官が公然と存在し、ビラ配布や掲示を行い、長期間にわたり隊員獲得工作を続けた例は、32連隊以外にないと思います」 憲法上、自衛隊の存在が曖昧であり、思想信条の自由が強く保障されているなかで、自衛官の思想を規制する明確な根拠は乏しかった。そのため、反戦自衛官との対立は、武力を伴わない「静かな闘争」として長期化した。 清水1尉は、この闘争を次のように位置づけている。 「本質的には、冷戦下の東西対立の延長線上にある“代理戦争”だったのではないか」 つまり、32連隊内部で起きた対立は、単なる隊内トラブルではなく、外部勢力が自衛隊内部に影響力を及ぼそうとした構造的問題だったということだ。 そして彼自身は、かつて同じ釜の飯を食った仲間と対立せざるを得なかった苦しみを、こう語った。 「本来は戦友であるはずの仲間と骨肉の争いをすることになった。この苦しみは当事者にしかわからない」 ---------- 福山 隆(ふくやま・たかし) 元陸将 昭和22(1947)年長崎県生まれ。防衛大学校卒業後、陸上自衛隊に入隊。平成2(1990)年、外務省に出向。その後、大韓民国防衛駐在官として朝鮮半島のインテリジェンスに関わる。平成7年、連隊長として地下鉄サリン事件の除染作戦を指揮。九州補給処処長時には九州の防衛を担当する西部方面隊の兵站を担った。その後、西部方面総監部幕僚長・陸将で平成17年に退官。ハーバード大学アジアセンター上級客員研究員を経て、現在は執筆・講演活動を続けている。おもな著書に『兵站』(扶桑社新書)、『防衛駐在官という任務』『トランプ帝国の「ネオ・パクス・アメリカーナ」』(ともにワニブックス【PLUS】新書)がある。 ----------
元陸将 福山 隆