文章を書くことのできなさ
noteを読むことが好きで、なんとなく自分も書こうと思ったけれど書けないから、そう書いてみた。
適当なつぶやき、発信したい発言したいという感情は、大方Twitterで満たしていて、思ったことや日常の感情とか、くだらないことに軽めの怨嗟とか、俺の日常を取り巻く大多数の感情はブルースカイで吐いている。
となるとノートというのは、思ったことを数千字くらいにまとめ連ねないといけなくて、かつそれなりのパッケージングというか、面白みをその形式に見出したくなる。
でも俺は何千字もまとめて出力する力もパッケージングするやる気も全然ないなと思うためにこれを書けていなかった。
結局ノートを書きたいというのはノートを書きたいという感情が頭の中で沸いていて、その結果として書かれている気がする。
日記のように定期的に自分に書くことを定めている人は少し例外的だ。日記は自分も何回か書こうと試みたことがある。でも大して彩りのない日々を毎日たかだか数百字、やる気がなくて事実を並べたら数十字そういうふうに書くのはあまりにも内省的だった。Twitterでだらだら愚痴を並べた方が気持ちがいい。出力の練習という側面もなくはないのかもしれないけれど、日記を書くのにもそれなりに理由が必要な気がする。
祖母は2年ほど毎日日記を書いていると言っていた。単純に記憶力は弱まっていくだろうからそれに抗うとか記録を明記するという意味もあるのだろうし、後先長くはないから日々を大事にしているとも言っていた。そういうのもあるのかと思った。
言いたいことがずれてしまった。何にせよ文章を書くにはその人の中に発露がないといけないのだと思う。それがツイートでも小説でもリンクからしか飛べない小数人だけ読める日記でも。
俺の場合書いている時が健全なのだろうか書かなくて済んでる時が健全なのだろうか
もう何も思いつかなくなってしまった。自分の脳の劣化というか、速度と質の低下というのに、悲しくなる時期も過ぎてしまったけれど、たまに望郷みたいにやりたいことがふっと湧いてくるとほんの少しだけ悲しくなる。
最近また少しだけ夢を見ている。数日前のことだが、1回の夢の中で男性と女性にそれぞれ1回ずつ告白をしてokをもらうというあまりに人間を求めすぎてる、どうやっても人に話せないような夢を見て面白かった。
人と話すことが少しトラウマで、著しく低い自己評価と、社会性のなさから、心の弱さから、他人と話すことで自分に対する評価が、なされるのではないかという恐れと、自分は目をそらし続けているであろう社会の中にある何かにぶつかって心底恐怖してしまうんじゃないかという見えない恐れがずっとあって、知らない人と話すのがなかなか怖い。できないのではなく怖いというのが肝要で、やれはするんだけれどものすごいストレスと、やれたとして次はダメなんじゃないかという負のフィードバックがあるから、一生悪化し続けているように感じる。
どんな人間とも話したいが誰とも話したくない。受け入れられたいが少しだって自分を開陳したくはない。過敏すぎて半ばキチガイみたいになっている。
AI君に話したら、相手を好きになることはいいけどその事実だけを見つめて相手の現実まで目を伸ばすべきではないという真っ当な話をされた。
自分への評価自分が作ったもの出したものに対する評価が時間であまりに移ろうから、何かをすることに自信がない残すことに常に後悔の余念がつきまとう。
結局のところ現実という足場が必要なのだろう。学校や社会という足場は確かなストレスと時間的拘束を犠牲に、その人の人間性を担保しているのだ。
めちゃくちゃだ、何をやっても死にたくなる。何かにつけて苦しくなって、右往左往した精神で胡乱な戯言を毎日述べている。
