日記 お薬飲んで寝てる
薬が全然効かない。いや効きすぎているのかもしれない。
最初に鬱になったときはSSRIという種類のを、最近まではSNRIとよばれる薬を飲んでいた。後者はセロトニンの再吸収を阻害するだけでなく、ノルアドレナリンの濃度もあげてくれる。
アドレナリンといえばロックで心臓にぶっ刺すやつ。BFで負傷兵に注射してるやつ。気持ちをググっと上げてくれるのを見込めるわけだ。
だがこれが全然体にあわない。悪心を抱え続けながら2週間、倍量に増やしてまた二週間。地獄みたいな体調だった。大学こそ行ってないので無理に体を動かす必要はないのだが、そもそも動かせる調子じゃない。睡眠はまばらで5時間起きて3時間寝るのを繰り返す。昼には吐き気。夕方には重い抑うつが着て夜まで寝て過ごす。万年床が無事できあがった。
医者に伝えると、ひとまず以前の薬に戻すと言われた。こういう措置は少なくないらしい。副作用も体調が関与するから、調子をまず押し上げてから考えようとのこと。そりゃ髭面でベタついた髪の人が来たら誰しもそう言うか。
そんなわけで何も動けていないが、何もすることができることがないために色んなことを考える。本当にいろいろ考えて、話題としてはストックが出来てカウンセラーに持っていくとなかなかたくさんお話ができるのだけど、今死にたいという感情について考えたので、せっかくだから書いてみる。
死にたい、という言葉は現代日本に広く膾炙している。行き付けの内科にくたびれた顔で来て心療内科の受診を進められるサラリーマンが睡眠薬を飲みながら言っているだろうし、オタクも恥ずかしかったら穴を掘る代わりにつぶやくかもしれない。
だが性質は色々ある。重さと捉えてもいいけど。
鬱だった人はわかるだろう、意思とは違う希死念慮。脳の化学的なバイオリズムがどうこうなって、ある時期に急に訪れる。どういうわけか自分を死なせる方法に走らせる信号。虐殺の文法ってそういうこと?駅のホームで、レールの真横から花の甘い香りがして足が吸い寄せられた瞬間。無意識な楽な方向への衝動。
だが必ずしもそういうのだけではない。理由があるものもある。
そして理由がある部類の死にたさは、自分でいずれ解決しなければならないものだ。
①未来が見えないから死にたい
漠然とした不安というやつ 曖昧だが理解できる。ふとした時に飛び降りる人は多分これを抱えている。そもそも人生に保証などなく、人は身の回りの小さな快不快に心を乱されながら、現実に達成感と疲労をまぶして日々を過ごしているのだけれど、鬱の人はやけに見通しがよくなってしまう時がある。
②明日が怖い/昨日が怖い
何か失敗をしてしまったのだろうか。はたまた自身には到底無理そうな期限が眼前まで迫っているのだろうか。ストレスと言えばストレス。人生なんとかなるの逆。東大落ちて落ち込む浪人生も、会社が倒産した社長も、新メニューが思いつかないシェフも、そんなふうに悩んでいる人は他にもいて、人生の中でその窪みはあとから取り返せるものと誰もが後からは言えるけれど、誰もその時の当人の気持ちなんてわからない。
かっこつけたけれど現実が見られていない。でも現実を見るのは怖い。自分が大した人間でないと気づいてしまうのは何よりも怖いものだから。うつ病の割合が比較的高そうな内的な理想主義者のお友達は、こういう比較的どうでもいい理由で死にがち。
③振り返るのが怖い
今の自分のこと。これが珍しいから書いた。
つまりは寂しさで、昨日が無いことが。
今日の自分を誇る昨日の自分がいない。
昨日の自分を褒める今日の自分もまたいないということだ。
仮に未来に私が働いたとして、幸運にもそれなりの賃金をいただけて、飢えない程度に生きて、ご飯を食べて風呂に入り、寝る前に夢を少し見たとしても、過去の空白は揺らがないということだ。
辛いから動けない。病気だからしょうがない。
それは事実だけれど、だからといってその期間を肯定することは出来ない。必死に生きた時間だ。戦い抜いた期間だ。家族にも誰にも理解されず、社会から落伍者と扱われ、それでも生きるという選択をし続けた自分の結果だ。
だがそこまで言っても意味なんてつけられない。
見つけようがない。
自分とは関係なく存在してしまった過去の自分と付随する時間は、「何もなかった」という形で残り続ける。
振り返るのが怖い。
後ろを見るのが怖い。
自分の足跡が、何も無いところから延びているということが怖い。
俺は毎日生きたいと願っている。目がまるで見えず、布団から出られず、着替えられず、風呂にも洗面場にも向かえず、ただ毛布の中で喘ぎながら、死にたいと思うのと同等に生きたいと思っている。
生きられなさをまざまざと見ながら、自分が元から立派な人間などではなかったのだと感じ続けながら。
だがそれでも死にたいと呟くときがあるのならば、それは体調のせいだけではない。
憂うのでも後悔したことでもなく、今、生きてしまっているという事実が、何よりも生の惨さを自覚させる。
カウンセラーに話したら、心理学ではこういう状態や考えを「自己の断片化」と呼ぶらしい。
状態を類推されても嬉しくはないけど、へぇとは思う。
もう大学行ってないけど経済学はそれなりに面白かった、公式を考える分野で、結果よりも経済という考え方を様々に当てはめることに注力する取り組みであり、とても文系的だったから。
鬱の人が哲学をやりたがるのはありきたりすぎる。キルケゴールを今買ってる人の数割は雑魚の精神病患者だろう。
社会学もなかなか面白いから逆張りの元気な人は調べてみてください。
俺は残念ながら学業というものに今後触れられなさそうなので。
