日記
自分の一番ゆったりとした感覚は、自然を感じている情景の中にある。
函館の祖父母の家に空港から向かう時、当時は準高速がまだ通っておらず、車酔いのまだある子供の自分からすれば少し嫌な距離ではあったのだが、途中で雨が降ってきた。
驚いたのは、雨が車体に掛かるより先に、遠くからざぁっと音だけが、見えないくらいの遠くからどうっと接近してきて、何か理解する前に、すぐにスコールみたいな雨粒がボンネットを弾いた。
北海道のまっすぐな見渡しの道路で、向こうからまるですれ違うかのように、陸の車なんてゆうに飲み込む自然の大きさは、多分今の自分がそこにいても、十分に酔いを忘れてい興奮できるものだった。
去年祖父が亡くなって、19年でどれほど日数を共にしたのだろうとふと思った。母親や叔母があそこまで泣いているのを初めて見て、二親等と三親等の違いを、実親が逝くのはどんな気持ちだろうと考えていた。
子供の頃夏冬休み両方で顔を出していたとして函館で過ごした時間は、たぶん300日は超えていないだろうと思った。
しかしその割には、スキーに向かう道中に遠くにいつも見ていた知らない山脈の連なりや、市民プールから出た時のその年一番の暴風雪が体の横をすり抜けた感覚は、たぶん自分の自然観に決して小さくない影響を与えている。
今日2週間ぶりに外出して考えたのはそんなことだ。気がつくと秋が来ていた。引きこもったことがない人間は知らないと思うが、桜が咲いて散るまで、葉桜の残りを見るまでそれに気づかないような生き方の人も居る。
月日の流れは極めて曖昧なものになるが、涼しいという感覚は肌で、脳を介さずに時間を感じさせる。
雨の音が遠くで聞こえたから、ベンチに座りながら降るんじゃないかと思った。
結局ぽつぽつと水滴が上の樹から垂れてきたくらいでそんなものかと思ったが、耳は純粋に自然を覚えているのかもしれないと考えた。
