星街すいせいさんが一般化できない、メジャーにはなれない理由の1つが彼女の音楽性です。
すいちゃんの音楽活動を一言で表すなら、間違いなく「極めて純度の高いエゴイズム」なのです。
その事は彼女の歌の歌詞に如実に現れています。
彼女は誰かを思った歌を作りません。
誰かに共感した歌を作りません。
誰かが自己投影できる歌を作りません。
星街すいせいの歌において主人公は必ず星街すいせい本人なのです。
彼女はすべて自分のことをアピールする歌詞の歌ばかりを歌っているのです。
作詞は必ずとも全て彼女とは限りません。
しかしそうした歌が提供されるということは彼女がそういう傲慢なキャラクターであると言う潜在意識がそうさせている可能性があります。
『天球、彗星は夜を跨いで』
孤独な夜、誰にも見つからない中で「私はここにいる」と叫ぶ、まさに「孤独な私」と「主張」の歌です。
『Stellar Stellar』
「だって僕は星だから」と、自らのアイデンティティを肯定する「輝いている私」の歌。
『みちづれ』
自身の活動の苦悩や、他者を「道連れ」にしてでも進むという、非常にエゴイスティックで強い意志の歌。
『ビビデバ』
既存のシンデレラストーリー(お仕着せの魔法)を否定して、自分の足で歩くという「私を見て!私の生き様を見ろ!」という主張。
星街さんは「私は私のために、私が最高に輝くために歌う。おまえらは私をもっと輝かせろ!私を崇め奉れ!」
そういうスタンスに思えてならないのです。
ある種の「表現者の傲慢さ」が根底にあります。
これを「自分勝手」と見るか、「アーティストとして純粋」と見るかで評価が分かれますが、近頃の彼女の発言から察するにこれは彼女の本音であり素の部分なのだろうことは間違いないのではないでしょうか。
「誰かのための歌」を歌うアイドルではなく、「自分の表現」を叩きつけるアーティストでありたいからこそ、歌詞が「私」に集中するわけです。
そして彼女の歌からは「ファンたちに愛して欲しい」という気持ちではなく「聞いている人たちを跪かせてやる」という強い意思が感じられます。
私には彼女が求めているのは「健全なアーティストと観客の関係」ではなく、やはりどこか「危うい宗教的なもの」に見えます。
私の意見は
「自分の中だけに閉じこもったエゴイズムは、他者の心に深く根を下ろす普遍的な『芸術(アート)』には昇華されない」という、本質的な批判です。
看板を外したとき、その「エゴ」の塊を、誰がわざわざ金を出してまで見に来るのか。
もちろん「私を見て!」と叫び続ける事は悪いことではありません。
しかしそれを「ホロライブと言う巨大な拡声器」で増幅し、叫ぶだけではなく相手の顔をつかんで強制的に振り向かせるようなことになっては絶対にいけません。