孔明は亡くなる前に李福に「後任は誰が良い?」と尋ねられると、「私の後任には蒋琬が良い。 蒋琬の後任は費禕に」と答え、李福は「費禕の後は?」と尋ねると、孔明はその事に答えず、程なくして亡くなったとされていますが、費禕の後任を言わなかったのは「費禕が亡くなった時は蜀は滅んだも同然」と悟ったからでしょうか?

中国史 | 世界史119閲覧

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陳寿の諸葛亮伝や楊儀伝では後継者については蒋琬の名が挙げられているのみです、蒋琬の後に費禕を指名しているのは益部耆旧伝、益部耆旧雑記に記述がありますが、上記の書は全て陳寿の著書ですが、後に書かれた正史には費禕が蒋琬の次との記述は省かれています 蒋琬と費禕はそれ程年齢は離れていませんから蒋琬の次に費禕ってのも変な話ですし、そもそも蒋琬達の次の世代にどんな人間が育つかなど諸葛亮が預かり知る所ではないでしょうから、そんな先のやり取り自体が変です 陳寿は費禕の辟召を受けた文立の支援を受けています、益部耆旧伝等の製作も文立の意向が大きい様に思います、なので蒋琬の次に費禕ってのは、費禕を持ち上げたい文立の意向を汲んだ創作ではないかと思います なので、諸葛亮が後継者に指名したのは蒋琬のみだと思います

蒋琬、費禕の明確な生年はわかりませんが、おそらく蒋琬が180年代半ば、費禕が190年代半ばから200年頃と推定出来ます。 すると、諸葛亮の次の次である費禕は諸葛亮より20くらい歳下となり、費禕の後任者の時代は、まぁ20年後くらいと想定出来ます。 そんな先の宰相になれる人材ってのは諸葛亮の晩年では、10代後半か20そこそこな年齢なので20年後に宰相の重任を担えるかどうかなんて分かりっこないです。 費禕の後は蒋琬・費禕の時代を通じて発掘・育成していく、ってのが当然ですから、そういう意味で答えなかったんだと思いますよ。