病室まで届く名刺
最初に声が掛かったのは、大学病院ではなかった。
本部ビルのエレベーターを降りたところで、見覚えのある男に呼び止められた。
医師でもなく、事務屋でもなく、どちらの言葉も話せる種類の人間。元厚労省、今はどこの肩書きにも収まらない「顧問」という曖昧な存在だ。
「先生、今晩、空いてます?」
その言い方で察した。
直接来ない。来られない。だが、無視もできない。
「少し、飯でもどうかと思って」
指定された店は、私の医療法人とも大学病院とも無関係なはずの場所だった。
だが、こういう人間が選ぶ店に、偶然はない。
個室に入ると、すでに一人、先客がいた。
年配の男で、白衣を着ていないと誰も医師だとは思わないだろう。だが、その顔は、医療界の内側に長くいる者なら必ずどこかで見覚えがある種類のものだった。——元教授、現・関連財団理事。
直接の線は、ない。
だが、点と点の間に、こういう人間は必ず挟まる。
料理が出る前に、顧問の男が切り出した。
「例の件、うまく収めたそうで」
「収めたというより、騒がせなかっただけです」
そう答えると、元教授は、わずかに口角を上げた。
「それができる人間が、最近少ない」
評価なのか、誘いなのか、まだ分からない言い方だった。
酒が進み、話題は少しずつズレていく。
医局の人事、地方病院の疲弊、裁判リスク。どれも一般論だ。だが、その一般論の隙間から、目的が滲み出てくる。
「大学というのはね」
元教授が、箸を置いて言った。
「自分では動けない。だが、誰かが外で音を吸収してくれると、急に身軽になる」
ここでようやく、大学病院という言葉が出た。
しかし、それは依頼ではない。相談ですらない。ただの独り言のような調子だ。
私は黙って聞く。
この場で、意見を言う必要はない。聞いているという事実だけで十分だ。
「理事長も、最近は神経を使っていてね」
その名前は出さない。
だが、出さないこと自体が、もう紹介だった。
「もし、どこかで“話を聞いてほしい”という声が届いたら」
顧問の男が、間に入るように言った。
「それは、直接ではないはずです。今日みたいに」
私は盃を置き、軽く息をついた。
「大学病院は、直接来ない方がいい」
その一言で、二人の表情が微かに緩んだ。
「でしょう?」
元教授が頷く。
「だから、今日は大学の話ではありません。ただ、先生がどういう距離感で動く人なのかを、こちらが知りたかっただけです」
料理は相変わらず上品で、味気ない。
だが、この夜が終わった時、私は理解していた。
——大学病院は、まだ何も頼んでいない。
——だが、頼む準備だけは、もう始めている。
そしてその準備の最初の工程に、私は静かに組み込まれた。
直接ではない。必ず、誰かを挟んで。
それが、この世界の正しい呼び出され方なのだ。
顧問の男が、その言葉を口にしたのは、吸い物の蓋が静かに戻された直後だった。
「食事の件ですが」
それまで医療訴訟だの、人事だの、抽象的な話をしていた流れの中で、急に生活感のある単語が落ちてきた。
だからこそ、重い。
「関連病院の給食、そろそろ限界なんですよ」
私は視線を上げない。
この男が「限界」と言うとき、それは味でも栄養でもない。
責任の所在だ。
「直営はもう無理です。人も集まらないし、何か起きたときに、全部“大学の色”で燃える」
箸先で、焼き物を少し崩しながら、彼は続けた。
「外に出したい。ただし、どこでもいいわけじゃない」
ここで初めて、私を見る。
「先生のところは、色が薄い」
褒め言葉ではない。
使いやすいという意味だ。
私が病院食の外注ベンダーのオーナーであること。
ただの給食会社ではなく、医療機関特有のクレームや事故対応を“音を立てずに処理する”設計になっていること。
彼は最初から把握している。
「関連病院、まとめて出します」
その一言で、話は具体になる。
・大学本体ではない
・だが、大学の名を背負った病院群
・食中毒、誤配膳、アレルギー事故が起きれば、即座に“医療事故”に化ける現場
そこを、私の会社に任せたい、と。
私は、すぐに頷かなかった。
こういう時は、条件が必ずもう一つある。
顧問は、少し声を落とした。
「その代わり」
来たな、と思う。
「最近、食事が絡む案件が、妙に増えていましてね」
ややこしい、という言葉が、ようやくここで出る。
「栄養指示と違う、説明が足りない、家族が騒ぐ……まだ訴訟にはなっていないが、放っておくと火がつく類のものです」
病院食は、逃げ場がない。
医療行為ではないのに、結果だけは医療と同じ重さで問われる。
「弁護士の話じゃない」
顧問は、はっきり言った。
「謝るべきか、謝らないべきか。
金を出すなら、どのタイミングか。
病院側が前に出るか、委託業者の問題にするか」
つまり――
事故をどう“料理するか”の相談だ。
私は、ようやく口を開いた。
「それは、食の話ではありませんね」
顧問は、わずかに笑った。
「ええ。だから先生に聞きたい」
病院食の外注を出す代わりに、
医療訴訟、正確には訴訟になる前の地雷原の歩き方を教えてほしい。
利害は、ここで完全に噛み合う。
私が得るものは明確だ。
・関連病院単位の、安定した長期契約
・大学本体の責任を一段外に逃がす“緩衝材”という立場
・そして、事故が起きる前の、生の情報
彼らが得るものも、同じくらい露骨だ。
・謝らずに済む場面の判断
・金を最小限で止めるタイミング
・「給食の問題」に落とせる境界線
私は、少し間を置いて言った。
「私が答えるのは、戦略だけです。判断は、そちらで」
顧問は、すぐに頷いた。
「それでいい。むしろ、それがいい」
名前は出さない。
書面にも残さない。
だが、聞いたという事実だけは、彼らの中に残る。
料理は最後まで、上品で、どこか他人行儀だった。
だが、この夜で決まったのは、献立ではない。
――大学病院は、
病院食を外に出す代わりに、厄介な沈黙の作り方を買い
――私は、
その沈黙が生まれる現場を、内側から覗く権利を得た
直接ではない。
必ず、ワンクッション置いて。
病院食という、一番日常的で、
一番、火を噴きやすい場所を介して。
酒の席では、結局のところ、話は病院食で終わった。
少なくとも、その夜は。
給食の外注、アレルギー事故の初動、家族対応の線引き。
顧問と元教授は、あくまで「食事」という日常の延長線で、火種をどう処理するかを確認しただけだ。私は、求められた分だけ答え、踏み込みすぎない距離を守った。
その場では、それ以上の話は出なかった。
――だからこそ、終わっていないことが、分かった。
数週間後、関連病院の病院食外注の契約がまとまった。
私の会社だが、実務を任せている社長が前に出て、形式はあくまで“通常の業務委託”だ。価格も条件も、特別なものではない。ただ量が多く、期間が長い。それだけだ。
調印が終わり、社長が安堵した顔で席を立ったいった、その日の夕方だった。
携帯が鳴った。
番号は、見覚えがある。
「今、お時間よろしいですか」
元大学教授の声だった。
あの夜より、ずっと事務的で、ずっと近い。
「病院長が、先生に会いたいそうです」
理由は言わない。
日時と場所だけを告げる。
私は、一瞬だけ迷った。
だが、断る理由はなかった。もう、流れはできている。
指定されたのは、大学病院の最上階。
外来とも病棟とも切り離された、静かなフロアだ。エレベーターを降りた瞬間、空気が変わる。ここは治療の場ではない。判断の場だ。
病院長室は、思ったより質素だった。
大きな机、革張りの椅子、壁に掛けられた歴代の写真。長く続く組織が、自分の重さを誇示するための最低限の装飾。
病院長は、立ち上がらなかった。
それで十分だという顔をしている。
「今日は、正式な依頼ではありません」
元教授が、いつものようにワンクッションになる。
「ただ、先生の意見を、一度、直接聞きたい」
病院長は、私をまっすぐ見た。
「二年以上、続いている案件があります」
医療訴訟。
すでに泥沼に入り、誰も全体像を把握していない種類のものだ。
「謝罪は、もう何度もしました。金も出した。
それでも終わらない」
言葉の端々に、疲労と苛立ちが滲む。
「こちらとしては、これ以上、前に出るつもりはありません」
それは、撤退宣言ではない。
押し切りたいという意思表示だ。
「先生なら、どう締めますか」
弁護士ではない私に、病院長がそう聞く。
それ自体が、この部屋の異常さを物語っている。
私は、すぐには答えなかった。
代わりに、こう聞いた。
「終わらせたいのは、裁判ですか。それとも、関係ですか」
病院長は、ほんの一瞬、言葉に詰まった。
元教授が、助け舟を出す。
「大学としては、次に進みたい。
過去を清算したい、ということです」
清算。
便利で、危険な言葉だ。
私は、ゆっくり頷いた。
「なら、やり方は一つです」
病院長の視線が、鋭くなる。
「謝罪もしない。争わない。
ただ、終わらせる理由を、相手に渡す」
それが何かは、まだ言わない。
この場では、言わなくていい。
「私ができるのは、筋を描くところまでです。
実行するのは、そちらです」
沈黙が落ちた。
重いが、拒絶ではない。
病院長は、ようやく深く息を吐いた。
「それでいい。名前は、出しません」
元教授が、静かに付け加える。
「今日の話も、病院食の契約とは、無関係です」
私は、内心で苦笑した。
無関係なわけがない。
病院食という、最も日常的で、最も事故が起きやすい領域を預けた直後に、
最も面倒で、最も終わらせにくい訴訟の話を持ってくる。
――あまりに、分かりやすい。
だが、私は席を立つ前に、こう言った。
「一つだけ条件があります」
二人の視線が集まる。
「これは、今回限りです。
継続案件にはしない」
病院長は、短く頷いた。
「それで構わない」
部屋を出たとき、廊下の窓から、夕方の病院が見えた。
外来の人波、救急車の音、白衣の背中。
そのすべてから切り離された場所で、
私は今、二年以上止まっていた時間の“終わらせ方”を引き受けたのだと、ようやく実感した。
病院食の話は、もう終わっている。
だが、ここから先は――
大学病院そのものの、後始末だった。
二年も尾を引いていた案件が、半年で終わった。
判決ではない。和解でもない。
ただ、双方が「これ以上は続けない」と腹の底で合意した、あの独特の終わり方だ。記録には残らず、だが関係だけが静かに閉じる。私は、いつものように名前を出さず、前にも出なかった。
仕事が終わった実感は、達成感よりも、身体の力が抜ける感じに近い。
久しぶりに、昼下がりの喫茶店でコーヒーを飲んでいた。氷が溶ける音を、意味もなく聞いていた。
そのとき、携帯が震えた。
病院長だった。
あの大学病院の。
嫌な予感は、当たるものだ。
「一度、お礼がしたい」
そう言われ、断る理由も見つからず、指定された場所に向かった。
今回は料理屋ではなかった。病院の近くの、眺めだけはいいが、誰の記憶にも残らないラウンジだ。
病院長は、珍しく柔らかい顔をしていた。
「本当に助かりました」
そう言ってから、少し間を置く。
「実は……もう一人、紹介したい方がいまして」
来たな、と思った。
ほどなくして現れたのは、見覚えのない男だった。
だが、白衣を着ていなくても分かる。大学病院の病院長。こちらより少し若く、目の奥に焦りがある。
「はじめまして」
握手を求められ、私は応じた。
その手は、わずかに湿っていた。
三人で席に着くと、話は驚くほど早く本題に入った。
「実は、うちでも……」
二年以上続く訴訟。
謝罪も金も尽くした。
それでも終わらない。
聞き覚えのある構図だった。
私は、途中で口を挟んだ。
「ちょっと、待ってください」
二人の視線が、こちらに集まる。
「同じ話を、同じ順番でされると、さすがに分かります」
病院長たちは、苦笑いを浮かべた。
「条件の話も、分かっています」
私は続ける。
「関連病院の病院食。
今、どこも苦しんでいる。
それを、私のところにまとめて出す。
その代わりに、厄介な案件の“締め方”を教えてほしい」
新しい病院長は、何も否定しなかった。
それが、答えだった。
私は、コーヒーを一口飲み、カップを静かに置いた。
「私は、事件屋じゃありません」
少し強い言い方になったが、後悔はしなかった。
「一度やったのは、たまたま条件が揃っていたからです。
でも、同じことを繰り返すつもりはない」
新しい病院長の表情が、硬くなる。
「病院食の条件は、かなり良いものを用意できます」
分かっている。
だからこそ、私は首を振った。
「それでも、やりません」
理由は、いくつもあった。
一度便利な人間になると、次は必ず“常用”される。
事故が起きるたびに呼ばれ、終わらせる役を期待される。
そして何より――
終わらせるたびに、私自身が少しずつ摩耗する。
「私は、仕組みを整える人間です。
燃えた家を消す係じゃない」
沈黙が落ちた。
最初の病院長が、ゆっくりと頷いた。
「……分かりました。無理は言いません」
新しい病院長は、納得していない顔だったが、それ以上は何も言わなかった。
席を立つとき、私は一度だけ振り返った。
「一つだけ言えるのは」
二人が、こちらを見る。
「本当に終わらせたいなら、
“誰かに頼めば終わる”と思わない方がいい」
それは忠告でもあり、線引きでもあった。
外に出ると、夕方の空気が軽かった。
大学病院の影が、長く伸びている。
私は歩きながら思った。
――あの仕事を引き受けたのは、間違いじゃない。
だが、二度目は違う。
事件を終わらせることと、
事件のたびに呼ばれる人間になることは、
まったく別だ。
コーヒーの苦味が、まだ口に残っていた。
それで十分だった。
新しい病院長は、引き下がらなかった。
あの場では一度、話は終わったように見えた。
私は「事件屋ではない」と言い、病院食とのバーターも含めて断った。理屈は通っていたし、最初の病院長も納得した顔をしていた。
だが、数日後、空気が変わった。
きっかけは、一本の短い連絡だった。
――「先生、今度は“別件”で、一度お会いできませんか」
差出人は、新しい大学病院の病院長ではない。
三十代半ばの女医だった。基礎系で、病棟にはほとんど出ない。だが、人事と研究費の動線には妙に詳しいタイプだ。
場所は、職員専用のカフェテリア。
昼のピークを外した時間帯で、白衣も少ない。私は、わざわざ本部ではなく病院側に足を運んだ。向こうの土俵に立たされるのは分かっていたが、それでもだ。
彼女は、すでに席にいた。
白衣の下の私服が、わずかに見える。露骨ではないが、計算はされている。視線を合わせると、すぐに微笑んだ。
「この前は、ありがとうございました」
何に対しての礼かは、言わない。
言わないことが、距離を詰める。
「病院長、あの後、ずっと先生の話をしていて」
私はコーヒーを受け取り、黙って聞いた。
「“あの人は、逃げないけど、居座らない”って」
褒め言葉の形をした評価だ。
そして、それは捕まえにくい獲物に向けた言葉でもある。
「今回の話、事件の後始末じゃありません」
彼女は、少し声を落とした。
「むしろ、これから起きるかもしれない話です」
未来形。
それは、訴訟よりも厄介だ。
「病院長は、先生を“使う”つもりはないと言っています」
私は、思わず笑いそうになった。
「ただ、巻き込みたいだけだそうです」
正直だ。
女を使うときの言葉としては、ずいぶんと。
彼女は、カップに口をつけ、視線を外した。
その横顔に、迷いの色が混じる。
「私も、地方に出されるかもしれません」
突然だった。
「研究費の枠が減って、誰かが弾かれる。
病院長は、“分かっている人間”を近くに置きたいみたいです」
分かっている。
つまり、汚れる可能性を承知している人間だ。
「先生が関わっている、病院食の外注」
そこで、話が戻る。
「うちの関連病院にも、話が来ています。
もし、それが進めば……私の配置も、少し変わる」
彼女は、私を見る。
真正面からではない。探るように。
「先生が“事件屋じゃない”のは、分かっています」
そう言ってから、ほんの一瞬、間を置く。
「でも、先生が“終わらせ方を知っている人”なのも、みんな知っています」
絡め取る、という言葉が頭をよぎった。
仕事でも、感情でもない。
人事と不安と、かすかな期待で、じわじわと。
「私が言えるのは、ここまでです」
彼女は立ち上がり、軽く頭を下げた。
「直接、お願いはしません。
でも……先生が完全に関わらない世界には、もう戻れないと思います」
その言い方が、妙に静かだった。
彼女が去ったあと、私は一人、カフェテリアに残った。
周囲では、若い医師たちが他愛ない話をしている。何も知らない顔で。
新しい病院長は、直接は来ない。
代わりに、女を置き、未来を匂わせ、私の立っている足場を少しずつ湿らせてくる。
――断ったはずなのに。
――話は、確実に私の周囲を回り始めている。
私はカップを空にし、立ち上がった。
事件屋ではない。
だが、この世界は、一度でも“終わらせ方”を見せた人間を、決して手放さない。
女医の背中が、遠くで白衣の波に溶けていくのを見ながら、
私は、自分がすでに次の段階に踏み込まされていることを、否定できずにいた。
結局、私のほうが折れた――
そう見せかける形で。
決断は、女医と別れたその夜ではなかった。
数日後、資料も数字も広げず、ただ窓際でコーヒーを冷ましているときに、ふっと腑に落ちた。
これは、事件の話ではない。配置の話だ。
新しい大学病院の病院長が欲しがっているのは、解決ではない。
「自分の手を汚さずに、長く悩ませているものを遠ざける構造」だ。
だから私は、条件を逆に組み替えた。
―――
病院長室で向き合ったとき、私は先に口を開いた。
「一つ、こちらから提案があります」
病院長は、表情を動かさない。
だが、待っていたのは分かる。
「医療事故の件、引き受けます。
半年でも一年でもなく、終わるまで」
そこで、わざと間を置く。
「その代わり、病院食です」
病院長の眉が、ほんのわずかに動いた。
「関連病院一式と、第二附属病院。
長期契約で」
条件は、はっきりしている。
逃げ場を作らない言い方だ。
「本体の附属病院は、やりません」
病院長が、初めて言葉を挟んだ。
「なぜですか」
私は、少しだけ笑った。
「本体の附属は、“象徴”だからです」
大学病院本体の附属病院。
そこは、食事一つでさえ、政治になる。
事故が起きれば、必ず“大学の顔”が前に出る。
つまり、私が介在する意味がない。
「第二附属は違う」
私は続ける。
「規模は大きいが、立場は中途半端。
本体ほど守られず、関連病院ほど切り離せない」
一番、困る場所だ。
だから、一番、長く続く。
「そこを私が引き受ける。
食事という日常を、静かに安定させる」
そして、少しだけ恩を売るように、こう付け足した。
「そうすれば、事故が起きたとき、
“これは大学の問題だ”と言わずに済む」
病院長は、黙って聞いている。
「医療事故の処理も同じです」
私は、声を落とした。
「表で謝らない。
裏で争わない。
ただ、終わらせる空気を作る」
それは、もう一度言えば、
「あなたの代わりに、嫌われ役を引き受ける」という意味だった。
「私がやるのは、一回限りじゃありません」
恩着せがましく、あえて言う。
「長期で悩ませている案件だからこそ、
短期の解決屋には任せられないでしょう」
病院長は、しばらく黙っていた。
やがて、深く息を吐く。
「……分かりました」
その一言で、決まった。
―――
部屋を出たあと、私は思った。
本体附属をやらないのは、逃げではない。
余白を残すためだ。
大学病院は、必ずまた困る。
そのとき、私は“完全に中にいる人間”ではないほうがいい。
第二附属と関連病院。
日常と不満と、くすぶる事故が集まる場所。
そこを押さえ、
本体とは、常に半歩距離を取る。
それが、この世界で一番、長く効く。
私は、事件屋ではない。
だが――
厄介なものを引き受ける代わりに、組織の呼吸を握る男ではある。
そう思いながら、
私は次の約束の時間に向かった。
恩は、売れるうちに売っておく。
この業界では、それが一番、健全だからだ。
分かった。構図を整理して、場の力と人の距離が効く形で描き直す。
―――
一気に受注が重なったのは、計算していた以上に波紋を呼んだ。
一つの巨大医療機関。
二つの大学病院の関連病院。
わずか一、二年のあいだに、病院食という「切れない日常」をまとめて抱えたことで、私の周囲の空気は明らかに変わった。
まず、公官庁からの声が増えた。
自治体の施設、準公的な医療機関、名前を出すと角が立つ組織。
どこも同じだ。前例は作りたくないが、失敗もしたくない。
病院食を握っている人間は、そのまま「生活インフラを預かる人間」になる。
次に、金の流れが太くなった。
食材費の桁が変われば、商社は黙っていない。
だが、彼らはすぐに気づく。
病院食の社長は“窓口”であって、“決裁者”ではない、と。
だから矢印は、自然に私へ向かった。
その日は、皮肉なほど整ったタイミングだった。
私は、自分のコンサル先の病院に入院していた。
検査のための短期入院で、体は元気だが、外には出られない。
つまり、逃げ場がない。
午後、病室のドアがノックされた。
「失礼します」
入ってきた男は、見た瞬間に分かった。
商社の社長だ。
名刺を出す前から、肩書きが分かる種類の人間。
「お身体の具合はいかがですか」
声は低く、抑制が効いている。
営業だが、病室という場所をきちんと尊重している。
その半歩後ろに、若い女性が立っていた。
娘だと、すぐに分かる。
似ているわけではない。
だが、間の取り方と、視線の置きどころが、血縁を物語っていた。
「娘です」
社長は、説明的に言わなかった。
「今、少し時間があるもので。
今日は、資料を運ぶのを手伝わせています」
離婚したて――
その言葉は出なかったが、妙な空白がそれを代弁していた。
彼女は、軽く頭を下げる。
白衣姿の私と、きちんと目を合わせ、すぐに視線を外す。
過剰に見ない。だが、無関心でもない。
私は、ベッドに体を預けたまま言った。
「ずいぶん、踏み込んできますね」
社長は、苦笑した。
「正直に申し上げて、
病院食の社長さん経由では、話が進まないと判断しました」
遠回しだが、核心だ。
「今、先生が扱っている量は、
もう“現場の努力”でどうこうなる規模じゃない」
娘が、無言で資料を差し出す。
その指先が、ほんのわずかに緊張しているのが分かる。
「今日は条件交渉ではありません」
社長は、私の目を見て言った。
「ただ、顔を覚えていただきたかった。
今後、食材の話が避けられなくなるのは、分かっていますから」
私は、資料には目を通さず、彼女の方を一瞬だけ見た。
「病室まで来るとは、覚悟がありますね」
彼女は、一瞬だけ戸惑い、それから答えた。
「父一人では、入りづらい場所だと思いましたので」
その言葉は、営業でもあり、娘としての判断でもあった。
社長は、深く踏み込まない。
条件も、数字も、今日は出さない。
代わりに、“距離”だけを詰めてくる。
「無理なお願いはしません」
帰り際に、そう言った。
「ただ、先生が選ぶとき、
こちらを“知っている相手”として思い出していただければ」
二人が去ったあと、病室は妙に静かになった。
病院食を押さえたことで、
私は食材だけでなく、
商社の事情と、家族の事情まで引き寄せる位置に来てしまった。
営業の横に、離婚したての娘を立たせる判断。
それは、単なる付き添いではない。
――人は、契約より先に、
相手の生活を見せに来る。
点滴の落ちる音を聞きながら、私は思った。
これは、もう値段の話ではない。
どこまで、誰の事情を背負うか――
その選別が、始まっているのだと。


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