最初からいない国
第一章
日本が、最初から数に入っていなかったこと
コロナが世界を止めていた頃、私は東京にいた。
シリコンバレーのVCの、東京駐在パートナーとして。
毎週決まった時間に、本社との定例がある。
画面の向こうでは、いつも通り淡々と数字が流れていく。
進捗、遅延、追加投資、撤退判断。
感情は挟まれない。挟む必要がないほど、数がすべてを語っている。
投資先は三百社近い。
そのうち、バイオ・ライフサイエンス関連が百社前後。
創薬、再生医療、医療機器、デジタルヘルス。
どれもが、世界のどこかで「人間」を使った試験を前提にしている。
私は医師ではない。
白衣も着ないし、患者にも触れない。
ただ、巨大な医療機関の会議室には出入りし、
制度と契約と予算の話を、医師よりも長くしてきた。
だからこそ、見えてしまうものがある。
スプレッドシートの国別欄を、私は何度も目でなぞった。
US、EU、UK、AU、SG。
アジアの欄には、韓国、中国、台湾。
そして——日本。
日本は、いつも下の方にある。
正確に言えば、「遅れている」のではない。
最初から、計画に入っていない案件が多すぎた。
誰も日本を批判しない。
誰も「日本は使えない」とは言わない。
ただ、最初の設計段階で、
「今回は含めなくていい」という一言が添えられるだけだ。
それが、何度も繰り返される。
私は最初、コロナのせいだと思っていた。
感染対策、病床逼迫、倫理審査の遅延。
理由はいくらでも説明できたし、
日本の医師たちが疲弊していることも、理解していた。
だが、奇妙だった。
アメリカでは、治験が止まらなかった。
むしろ、異様な速度で進んでいた。
リモート化、分散型、専門施設のフル稼働。
「パンデミックだから無理」という発想自体が、存在しなかった。
同じ週に、
日本の大病院からは「当面見送り」のメールが届き、
アメリカの治験施設からは「来月から被験者追加可能」という報告が来る。
この差は、現場の努力だけでは説明できない。
私は外部コンサルとして、
済生会、赤十字、大学病院、準公的医療法人に出入りしてきた。
会議室で、医師たちが制度の隙間に頭を抱える姿も見てきた。
彼らは優秀だ。
倫理を知っている。
責任を恐れている。
そして、患者を裏切らない。
それでも、世界の治験設計図から、日本は消えていく。
あるとき、本社のパートナーが何気なく言った。
「日本は、後でいいよね」
悪意はなかった。
合理性しかなかった。
その一言に、誰も反論しなかった。
私はそのとき、はっきりと理解した。
日本は失敗したのではない。
信用を失ったのでもない。
ただ、
「時間が読めない国」
「人が固定されない国」
「学びが次に還元されない国」
そう認識されているだけだ。
私は医師ではないから、
誰かの命を直接背負うことはない。
だが同時に、
この構造が続けば、
日本の医師が「世界の最前線」に立つ機会そのものが消えることも分かってしまう。
治験は、論文ではない。
教育でもない。
ましてや名誉でもない。
それは、再現可能なプロセスだ。
もしそのプロセスを、
人ごと外に出して学ばせ、
数年後に戻すことができるなら——。
その考えが、
この物語のすべての始まりだった。
私はまだ、
それが正しいのかどうか、確信していない。
倫理的に正しいのかも、分からない。
ただ一つ言えるのは、
このまま何もしなければ、
日本は静かに、治験の地図から消える。
その焦りだけが、
当時の私を、確実に突き動かしていた。
第二章
人を動かす、という発想が口に出るまで
コロナが「収束した」と誰かが言い始めた頃、
現場の空気は、まだ戻っていなかった。
病院の会議室は以前と同じ場所にあり、
同じ椅子、同じテーブル、同じプロジェクターが使われている。
だが、そこに集まる人間の目線だけが、微妙に変わっていた。
慎重さが増した、というより、
一度壊れたものを、元に戻せるという前提が失われた
そんな感じだった。
私は外部コンサルとして、
いくつかの大規模医療法人の定例に顔を出していた。
議題は、表向きには「今後の研究戦略」や「国際連携」だ。
しかし実際に語られるのは、
・誰が責任を取るのか
・どこまで許されるのか
・前例はあるのか
その三点ばかりだった。
治験の話になると、
空気は一段、重くなる。
「海外案件は、まだ様子見で……」
「人が固定できない」
「倫理審査が追いつかない」
誰も嘘は言っていない。
むしろ、全員が正しいことしか言っていなかった。
だからこそ、
私はある種の絶望を感じていた。
その頃、VCの本社ではまったく逆の議論が進んでいた。
「次の波はどこか」
「どの国が、次にスケールするか」
「人材をどこに集めるか」
そこに、日本の名前はほとんど出てこない。
あるバイオベンチャーのCEOが、
私に直接聞いてきたことがある。
「日本で治験をやる意味って、いま何?」
答えに、詰まった。
市場規模、人口、医療水準。
資料上の説明はいくらでもできる。
だが彼が聞いているのは、
時間と再現性の話だった。
私は、その夜、
自分のノートにこう書いた。
——施設を説得するのは無理だ。
——制度を変えるのは時間がかかりすぎる。
——なら、人を動かすしかない。
それは、非常に危うい発想だった。
医師は、部品ではない。
動かせばいい存在ではない。
キャリアも、家庭も、倫理も背負っている。
だが同時に、
治験というものが
「個人の献身」に依存している限り、
日本は永遠に遅れ続けるとも思った。
最初にこの話をしたのは、
済生会系のある幹部医師だった。
「もし、海外で治験“そのもの”を学んだ医師が、
数年後に戻ってくるとしたら——
組織として、受け皿はありますか」
彼は、すぐには答えなかった。
コーヒーを一口飲み、
少し視線を落としたあとで言った。
「個人としては、魅力的だと思います」
「ただ、組織として公式には言えない」
私は、その曖昧さに、むしろ可能性を感じた。
完全な否定ではない。
積極的な賛成でもない。
だが、日本の医療組織が動くときは、
いつもこの温度から始まる。
別の会議では、
若手医師がぽつりと言った。
「海外の治験って、
誰かがやってくれるものだと思ってました」
その言葉は、責める気になれなかった。
そう思わせる構造を、
大人たちが長年つくってきたのだから。
私は次第に、
「育てる」ではなく
「一度、外に出す」
という言い方をするようになった。
留学ではない。
栄誉でもない。
キャリアアップのための箔付けでもない。
プロセスの移植だ。
アメリカでは、
治験は専門職の集合体として動いている。
PI、CRC、データマネージャー、規制対応。
医師一人の善意に依存していない。
そこに、
日本の医師を“放り込む”。
守られた研修ではなく、
成果が出なければ意味のない現場に。
この案を口に出したとき、
必ず返ってくる質問があった。
「それ、誰が金を出すんですか?」
私は、そのたびに、
VCとしての自分と、
外部コンサルとしての自分の間で、
微妙な線を歩くことになる。
投資なのか。
人材育成なのか。
それとも、
制度の穴を突く行為なのか。
倫理的に、
正しいと言い切る自信はなかった。
だが、
何もしないことのほうが、
より大きな不作為ではないか——
その感覚だけは、
日を追うごとに強くなっていった。
この頃から、
私は具体的な数字を考え始めていた。
一年に、何人。
何年、外に出すのか。
どの段階で戻すのか。
そして、
戻ったあとに、必ず“席”があること。
それが保証されない限り、
この計画は、人を壊すだけだ。
第三章
なぜアメリカで、なぜNIHだったのか
「ヨーロッパじゃだめなんですか」
この質問は、何度も受けた。
理屈としては、もっともだと思う。
倫理規範は厳格で、制度は洗練され、
アメリカほどの荒々しさはない。
だが私は、最初からアメリカしか考えていなかった。
理由は単純だ。
治験が“産業”として最も徹底的に最適化されている国だからだ。
アメリカでは、
治験は医師個人の善意や使命感に依存しない。
仕組みが先にあり、人はそこに配置される。
そして、配置された人間は、
役割を果たせなければ静かに外れる。
冷たい、と言われればそうだろう。
だが、この冷たさこそが、
再現性を生んでいる。
私は本社との会議で、
何度もNIH Clinical Centerの名前を出した。
NIHは、病院ではあるが、
いわゆる「医療機関」とは少し違う。
利益を追わない。
患者数を競わない。
論文数ですら、最終目的ではない。
治験というプロセスそのものを、国家が抱え込んでいる場所。
ここで学べるのは、
最新の薬でも、派手な成功例でもない。
・なぜこの順番なのか
・なぜこの基準なのか
・なぜこの役割分担なのか
その「なぜ」が、すべて言語化されている。
日本の医師が最も苦しむのは、
判断ではなく、
判断の根拠を制度として共有できないことだ。
NIHでは、
それが共有されている。
だから私は、
「世界で一番うまく回っている現場」を
あえて選んだ。
次に問題になったのが、
医師免許だった。
USMLEを取らせるのか。
ECFMG認証まで行かせるのか。
臨床に触らせるのか。
この議論は、非常に慎重を要した。
アメリカで医師として働ける資格を与えることは、
彼らに自由を与えることでもある。
同時に、
日本に戻らない選択肢を与えることにもなる。
私は、あるアメリカ人PIに
率直に聞いたことがある。
「USMLEを持たない日本人医師を、
あなたの下で使えますか」
彼は少し考えてから、こう言った。
「臨床医としては使わない」
「でも、治験の人間としてなら、問題ない」
その言葉で、腹が決まった。
臨床をさせない。
しかし、治験の中枢には入れる。
被験者に触れない。
診断もしない。
だが、
プロトコル、データ、モニタリング、規制対応、
そのすべてを、現場で見る。
USMLEは、取らせない。
少なくとも、完走はさせない。
これは冷酷な判断だったと思う。
だが、
「学びに行かせる」のではなく、
「持ち帰らせる」ためには、必要だった。
TOEFLの点数についても、
同じような議論があった。
低く抑えるべきだ、という意見もあった。
逃げ道を減らすためだ。
だが私は、それには反対した。
PIと議論できない人間に、
プロセスは移植できない。
必要なのは、
ネイティブ並みの流暢さではない。
だが、
沈黙せずに意見を言えるだけの言語能力は不可欠だった。
私は基準を、
「中の上」に設定した。
書類上の点数より、
ミーティングで黙らないかどうか。
そこを、何より重視した。
こうして、
奇妙な条件が揃っていった。
・日本の医師免許は持っている
・USMLEは取らせない
・英語は不自由だが、議論はできる
・臨床はしない
・治験の核心には入る
どこにも、前例はなかった。
だからこそ、
これは留学ではない。
研修でもない。
人材の一時的な移動を伴う、投資案件だった。
私はこの計画を、
「6~7人/年」という数字で提案した。
多すぎれば管理できない。
少なすぎれば、構造が変わらない。
そして、
3年。
3年が、
日本に戻す限界だと考えた。
それ以上いれば、
彼らはアメリカに根を張る。
それ以下では、
プロセスが身体化しない。
この計画が、
誰の人生を、どこまで動かすのか。
その重さを、
私はまだ正確には測れていなかった。
だが、
もう引き返せない地点には、
確実に足を踏み入れていた。
第四章
来る人間と、来ない人間
募集要項は、意図的に分かりにくくした。
華やかな言葉は避けた。
「世界最先端」も
「キャリアアップ」も
一切、書かなかった。
書いたのは、事実だけだ。
・期間:最長3年
・勤務地:アメリカ(NIHを含む治験施設)
・臨床行為なし
・USMLE取得支援なし
・帰国後のポストは“確約ではないが、想定はある”
これを読んで、
胸が高鳴る人間は多くない。
実際、
反応ははっきり二分された。
最初に来たのは、
「条件の確認」だった。
「USMLEは、本当に取れないんですか」
「将来的にアメリカで臨床する道は?」
「論文のファーストは取れますか」
その手の質問をしてくる医師は、
丁寧に説明する前に、
自然と候補から外れていった。
彼らが悪いわけではない。
ただ、この計画が求めているのは、
個人の上昇志向ではなかった。
逆に、
最後まで残った医師たちが
最初に聞いてきたのは、
別のことだった。
「自分は、
どの工程まで関われますか」
「PIの意思決定に、
どの段階で同席できますか」
「日本に戻ったとき、
何を“変える役割”を期待されていますか」
その問いを聞いたとき、
私は少しだけ安堵した。
この人間たちは、
“自分が何者になるか”よりも、
“何が動くか”を見ている。
年次は、ばらつきがあった。
専攻医を終えたばかりの者もいれば、
10年目前後の医師もいた。
だが共通していたのは、
組織の中で、一度は壁にぶつかっていることだった。
・研究をやりたいが、場がない
・治験に関わりたいが、任されない
・制度を理解しているつもりでも、決定権がない
彼らは不満を口にしない。
ただ、どこかで
「自分の時間が削られている感覚」を
抱え続けていた。
面接は、
通常の採用面談とは違った。
私は、あえてこう聞いた。
「あなたが3年後に戻ってきて、
日本の医療が何も変わらなかったら、
それでも戻りますか」
沈黙が流れる。
この沈黙に耐えられない人間は、
ここには来ない。
ある医師は、
少し困ったように笑って、こう言った。
「正直、怖いです」
「でも、
変わらない理由を説明できる側には、
なりたくないと思いました」
それで十分だった。
この計画は、
夢を与えるものではない。
逃げ道も用意していない。
だからこそ、
来る人間は限られる。
最初の年、
最終的に選んだのは6人だった。
誰もが、
組織の中では「使いやすい人材」だった。
問題を起こさず、
上司の意図を察し、
空気を読む。
そして同時に、
その“使いやすさ”に
自分で限界を感じ始めていた。
彼らを送り出す日、
私は成田で見送った。
大げさな激励はしなかった。
ただ一言だけ、伝えた。
「あなたは、
何者かになりに行くわけじゃない」
「仕組みを、
見て、覚えて、持って帰ってきてください」
彼らは、
それぞれ違う表情で頷いた。
この時点では、
まだ誰も知らなかった。
この6人が、
数年後、
日本の治験の現場で
“異物”として扱われることになることを。
第五章
アメリカの現場で、彼らが最初に壊されたもの
最初の報告は、拍子抜けするほど事務的だった。
「想像していたより、感情が入りません」
「淡々と、工程が流れています」
それを読んだとき、
私は少しだけ安心した。
アメリカの治験現場は、
外から見ると派手に見える。
最先端の薬、巨大な予算、
スピード感のある意思決定。
だが中に入ると、
驚くほど“人間味”が削ぎ落とされている。
PIは忙しい。
被験者一人ひとりに
深い感情移入をする時間はない。
その代わり、
判断は早く、言葉は明確だ。
「それはプロトコル外だ」
「それは感情だ」
「それは、やらない」
日本の医師が最初につまずくのは、
この切り分けだった。
日本では、
正しさと優しさは、しばしば混ざり合う。
だがここでは、
正しさは正しさとして、
優しさは制度で担保される。
ある医師が、
最初の月でこう書いてきた。
「患者さんに説明するとき、
どうしても言葉を足してしまいます」
「PIに止められました」
それは、責められたわけではない。
ただ、
「余計な情報は、判断を歪める」
そう言われただけだった。
彼は、自分が否定された気がしたという。
私は、その感覚がよく分かった。
日本の医師は、
説明の“余白”で信頼を築いてきた。
沈黙、間、視線。
そこに、医療があると教えられてきた。
だが治験の現場では、
それらはノイズになる。
最初に壊されたのは、
「自分は良い医師だ」という自負だった。
次に壊されたのは、
上下関係だった。
PIは確かに権限を持っている。
だが、日本のような
暗黙のヒエラルキーは存在しない。
CRCが、
平然とPIに異議を唱える。
データマネージャーが、
医師の判断を差し戻す。
それが、
誰の感情も傷つけない。
ある医師は、
その光景を見て、こう言った。
「正直、少し怖かったです」
「でも、
誰も顔色を見ていないのが、
羨ましくもありました」
彼らは次第に、
自分が“医師”であることより、
“治験チームの一部”であることを
意識するようになる。
名前ではなく、
役割で呼ばれる。
年次ではなく、
担当工程で評価される。
それは、
自由でもあり、
逃げ場のない世界でもあった。
3か月を過ぎた頃から、
報告の質が変わってきた。
感想が消え、
構造の話が増える。
「この工程は、
日本では医師が抱え込みすぎている」
「この判断は、
倫理ではなく、
リソースの問題として扱われている」
彼らは、
“すごい”とは言わなくなった。
代わりに、
“なぜそうなっているか”を
説明し始めた。
それは、
私が最初から期待していた変化だった。
だが同時に、
別の兆候も見え始める。
ある医師が、
メールの最後にこう書いた。
「日本に戻ったら、
これをそのままやろうとしたら、
多分、嫌われますね」
冗談めかした一文だった。
だが、
その裏にある予感を、
私は見逃さなかった。
彼らは、
アメリカに染まっているのではない。
日本の“曖昧さ”を、
言語化できるようになってしまった
だけだ。
それは、
日本の組織にとって、
必ずしも歓迎される変化ではない。
この頃から、
私は別の準備を始めていた。
——戻す場所を、
——本当に用意できているのか。
第六章
帰る場所は、静かに狭くなっていた
揺らぎは、劇的な形では現れなかった。
誰かが反対したわけでも、
計画が否定されたわけでもない。
ただ、
話題に上らなくなった。
それが、最初の兆候だった。
彼らがアメリカに渡って一年を過ぎた頃、
私はいくつかの医療法人を回っていた。
かつて、この計画に
「個人としては魅力的だ」と言った人たちだ。
近況を報告すると、
皆、頷く。
「順調そうですね」
「それは良い経験でしょう」
だが、
その先が続かない。
以前なら、
「戻ってきたら、どこに配置するか」
「どの部門に噛ませるか」
そういう話が自然に出てきた。
それが、出てこない。
私があえて切り出すと、
言葉は返ってくる。
「制度的に、今すぐは難しい」
「ポストの再編がまだで」
「周囲の理解が追いついていない」
どれも、
理解できる理由だった。
だが、
それらを足し合わせると、
一つの結論に近づく。
彼らの居場所は、
最初から仮設だった。
日本の組織は、
外からの知見を歓迎する。
ただし、
それが既存の秩序を
揺らさない限りにおいて。
治験のプロセスを
“知っている”医師は問題ない。
だが、
“違いを説明できてしまう”医師は、
扱いが難しい。
ある病院の幹部が、
ぽつりと言った。
「彼らが言っていることは、
多分、正しいんです」
「でも、
今ここでそれをやると、
組織が壊れる」
その言葉を、
私は否定できなかった。
組織は、
正しさだけでは動かない。
時間、感情、既得権。
それらが絡み合って、
ようやく一歩進む。
だが、
彼らがアメリカで学んだのは、
待たない構造だった。
会議で沈黙が続けば、
決定が遅れたと見なされる。
責任の所在が曖昧なら、
プロトコルが書き直される。
そこには、
「様子を見る」という選択肢がない。
私は次第に、
この計画の
本当のリスクを理解し始めていた。
彼らは、
アメリカに残るわけではない。
だが、
完全に日本にも戻れない。
どちらにも、
完全には馴染まない。
それは、
個人の問題ではない。
構造の問題だ。
この頃から、
アメリカ側のPIたちが、
別の顔を見せ始めた。
「彼は、
次のフェーズでも使える」
「契約を延ばさないか」
その提案は、
極めて合理的だった。
成果を出している人材を、
手放す理由はない。
私は、そのたびに
「最初の約束」を持ち出した。
——彼らは、
——日本に戻る。
だが、
その言葉を口にするたび、
自分が誰に言い聞かせているのか、
分からなくなっていった。
ある医師から、
深夜に短いメッセージが届いた。
「戻る前提で来ました」
「でも、
戻って何をするのか、
誰に聞けばいいですか」
私は、すぐに返せなかった。
返せる言葉を、
持っていなかった。
この計画は、
人を送り出すことには成功している。
だが、
受け入れる側の変化を、
十分に設計していなかった。
それは、
外部コンサルとしての
私の失敗でもある。
私は、
もう一度、
原点に戻る必要があった。
——なぜ、この仕組みを作ったのか。
——誰のためだったのか。
第七章
投資としては正しく、倫理としては揺らいだ夜
VCの世界では、
判断は驚くほど単純だ。
数字が伸びるか。
再現できるか。
スケールするか。
感情は、判断材料ではない。
それを混ぜた瞬間に、
投資は失敗に近づく。
この計画も、
数字だけを見れば成功していた。
アメリカ側の治験は滞りなく進み、
投資先のバイオベンチャーからの評価は高い。
「日本人医師」という属性は、
むしろ勤勉さと正確さとして
プラスに働いていた。
VCとして見れば、
追加で人を出す理由は十分にある。
実際、
本社からはこう言われた。
「来年は8人に増やせないか」
「アジア枠として、
非常にコストパフォーマンスが良い」
その言葉を聞いたとき、
胸の奥で、何かがひっかかった。
コストパフォーマンス。
確かに、そうだ。
だが、
その“コスト”に含まれているのは、
誰の時間で、
誰の人生なのか。
私は一晩、
自分のオフィスに残った。
照明を落とした会議室で、
これまでのメールを読み返す。
渡航前の、
緊張と期待が混じった文章。
現場に慣れ始めた頃の、
淡々とした報告。
そして最近増えた、
行間の長いメッセージ。
彼らは、
不満を言わない。
助けを求める言葉も使わない。
だが、
「次はどうなりますか」
「戻ったあとの想定は」
その問いだけが、
繰り返されている。
私は外部コンサルだ。
雇用主ではない。
直属の上司でもない。
だからこそ、
責任の所在は曖昧になる。
この構造自体が、
治験とよく似ていると思った。
個々の被験者は守られている。
だが、
全体として何が起きているかを
正確に把握している人間は、
意外なほど少ない。
私は、
この計画を「投資」と呼んだ。
そう呼ぶことで、
冷静さを保とうとした。
だがその夜、
はっきりと自覚した。
これは、人を使った制度実験だ。
しかも、
失敗したときのリスクは、
個人が引き受ける。
それを、
私は本当に引き受ける覚悟が
あったのだろうか。
翌週、
本社との定例で、
私は珍しく反論した。
「人数を増やす前に、
戻り先を制度として固めたい」
画面の向こうで、
一瞬、空気が止まった。
「それは、
日本側の問題では?」
正論だった。
だが私は、
あえて言葉を選ばずに返した。
「日本側だけの問題にすると、
この計画は長く持ちません」
沈黙が続いたあと、
別のパートナーが言った。
「君は、
どこまで責任を持つつもりだ」
その問いは、
投資の話ではない。
私は即答できなかった。
この仕事は、
本来、
そこまで踏み込むものではない。
だが、
ここまで人を動かしてしまった以上、
「そこまでではない」と
言い切ることもできなかった。
その夜、
私は一通のメールを書いた。
宛先は、
これまで関わってきた
医療法人の幹部たち。
内容は、
極めて事務的だ。
——帰国後の配置について
——公式な制度設計の必要性
——個人裁量に依存しない形での受け皿
送信ボタンを押したあと、
私は少しだけ手が震えていることに気づいた。
これは、
投資家としては
余計な行為かもしれない。
だが、
人を扱う以上、
どこかで線を引かなければならない。
この計画を、
“成功例”として終わらせるか、
“搾取”と呼ばせるか。
その分かれ目に、
私は立っていた。
第八章
最後の送り出し、と決めた日
決断は、劇的な場面では訪れなかった。
会議室でもなければ、
誰かに詰め寄られたわけでもない。
ある朝、
東京のオフィスで
コーヒーを淹れながら、
ふとカレンダーを見たときだった。
今年も、
送り出しの時期が来ている。
6人か、7人か。
例年と同じ数字を、
何の疑問もなく
頭の中で並べかけて、
私は手を止めた。
——これが、
——最後だ。
理由は、
一つではない。
日本側の受け皿は、
まだ制度として完成していない。
アメリカ側は、
彼らを“戦力”として
当然のように数え始めている。
そして何より、
帰ってくる側の空気が、
変わり始めていた。
一人目が、
帰国のタイミングを迎えた。
成田で会った彼は、
以前より少し痩せていた。
目線の動かし方が、
明らかに変わっている。
「日本、
こんなに人の話、
長かったでしたっけ」
冗談のように言ったが、
笑いは続かなかった。
病院の会議では、
彼の発言は丁寧に聞かれる。
だが、
決定には使われない。
「参考意見として」
「理想論としては理解できる」
その言葉が、
彼を少しずつ黙らせていく。
彼は、
アメリカで何かを失ったわけではない。
むしろ、
多くを身につけている。
だが、
それを使う場所がない。
私はその様子を、
外側から見るしかなかった。
VCとしての私は、
今年も人を送れば
評価される。
数字は作れる。
案件は回る。
だが、
外部コンサルとしての私は、
これ以上
“戻れない人間”を
増やしてはいけないと
感じていた。
最後の年の募集要項には、
一文だけ、
これまで書かなかった言葉を入れた。
——本年度をもって、
——本プログラムは新規派遣を終了予定。
応募数は、
明らかに減った。
それでよかった。
残ったのは、
最初から
「帰ること」を
強く意識している人間だけだった。
送り出しの説明会で、
私は初めて、
本音に近い言葉を口にした。
「これは、
約束された成功ではありません」
「戻ってきて、
居心地が悪くなる可能性も高い」
誰も、
途中で席を立たなかった。
その沈黙を見て、
私は確信した。
この年が、
限界だ。
送り出す側の論理と、
戻る側の現実が、
これ以上乖離すれば、
取り返しがつかなくなる。
今年出した6人と、
すでにアメリカにいる者たち。
彼らは、
これから順に帰ってくる。
ゆっくりと。
少しずつ。
そのとき、
日本の側が
変わっていなければ、
この計画は
失敗として記憶されるだろう。
だが、
たとえ失敗だとしても、
私は
「やめる」という判断を
先延ばしにはしなかった。
それだけは、
救いだと思っている。
第九章
居場所は、正面からは用意されなかった
帰ってきた医師たちは、
誰も声高に何かを主張しなかった。
それが、
彼らがアメリカで身につけた
最も日本的でない振る舞いだった。
「変えたい」と言わない。
「違う」とも言わない。
ただ、
黙って、工程の話をする。
最初に動いたのは、
大学でも、大病院でもなかった。
むしろ、
これまで治験の主導権を
握れていなかった場所だ。
・症例数はあるが、研究力が弱い病院
・医師は揃っているが、治験を回す人材がいない施設
・SMOに依存してきた中規模医療法人
そこに、
彼らは“説明役”として呼ばれ始めた。
「これは、
誰がやるべき工程なのか」
「それは、
医師がやる必要はありますか」
その問いは、
誰も傷つけない。
だが、
確実に構造を揺らす。
ある施設では、
CRCが医師の顔色を見ずに
意見を言うようになった。
別の場所では、
治験の初期設計に
事務方が参加するようになった。
どれも、小さな変化だ。
制度改革と呼ぶには、
あまりにも地味だ。
だが、
戻ってきた医師たちは、
正面突破をしなかった。
彼らは知っている。
正論は、
最も摩擦を生むことを。
代わりに、
「なぜ、そうなっているか」を
一つずつ、
共有していった。
私はその様子を、
少し距離を取って見ていた。
この計画は、
私の手を離れ始めている。
それは、
失敗ではない。
むしろ、
外部コンサルとして
最も望ましい形だった。
面白いことに、
この頃から
別の動きが出始めた。
アメリカのVCが出資する
バイオベンチャーから、
日本での治験相談が増えたのだ。
「日本で、
話が通じる人がいると聞いた」
「現場の工程を、
最初から説明しなくていい」
それは、
明確な評価だった。
彼らは、
“日本の医療”を評価しているわけではない。
“翻訳可能な人間”がいることを
評価している。
私はその構造を見て、
少し皮肉な気持ちになった。
結局、
国が変わるのではない。
制度が変わるのでもない。
人が、
どこに立っているか
それだけなのだ。
戻ってきた医師の一人が、
こんなことを言った。
「アメリカのやり方を、
そのまま持ち込もうとは思いません」
「でも、
日本のやり方が
なぜそうなっているかは、
説明できます」
それは、
反逆でも、改革でもない。
橋だ。
私は、その言葉を聞いたとき、
この計画が
完全な失敗ではなかったと
初めて思えた。
今年が、
最後の送り出しになる。
これからは、
帰ってくる人間が増える。
彼らが、
どこまで居場所を作れるのか。
それは、
私の手を離れている。
だが、
この3年間で
一つだけ確信したことがある。
治験の世界で、
最も価値があるのは
薬でも、金でもない。
「分断を前提にしない人間」
それだけだ。
では 第10章(終章) です。
第十章
誰の物語にもならなかった計画の、その後
この計画について、
私は公の場で語ることはほとんどない。
成功事例として語るには、
数字が足りない。
失敗談として語るには、
結果が静かすぎる。
医療機関の人間にとっては、
「一部の特殊な医師の話」でしかない。
VCにとっては、
「効率の良い一時的な人材活用」の一例に過ぎない。
誰の手柄にもならず、
誰の責任にもならない。
だからこそ、
この計画は、
記録されない。
だが、
私は知っている。
あの3年間で、
確実に変わったものがある。
海外のバイオベンチャーが、
日本を「最後の選択肢」としてではなく、
「条件次第で組める国」として
見始めたこと。
SMOと医療機関の関係が、
少しだけ対等に近づいたこと。
そして何より、
治験を
「医師が背負うもの」ではなく
「設計できるもの」として
語れる人間が、
確実に増えたこと。
それは、
制度改革ではない。
革命でもない。
ただ、
言葉の精度が上がった
それだけだ。
第三者の反応は、
実に日本的だった。
「面白い取り組みですね」
「うちでも、
その人に一度話を聞かせてください」
賞賛でも、拒絶でもない。
だが、
確実に扉は開いている。
私は、
この計画を
誇りに思っているかと聞かれれば、
少し迷う。
後悔がないかと聞かれれば、
それも嘘になる。
だが、
何もしなかった場合の未来を思うと、
少なくとも
「黙って見過ごす側」には
ならなかった。
それで、十分だ。
私は医師ではない。
患者も救っていない。
論文も書いていない。
それでも、
巨大な医療機関の外側から、
ほんの少しだけ
流れを変えることはできた。
治験とは、
人を使う行為だ。
だからこそ、
人を
ただの資源にしないための設計が
必要になる。
その設計は、
完璧にはならない。
常に、誰かを揺らがせる。
それでも、
考え続ける価値はある。
今年、
最後に送り出した6人が、
ゆっくりと帰ってくる。
彼らが
何を語り、
何を語らないのか。
私はもう、
答えを用意しない。
この物語は、
成功譚でも、警告でもない。
ただ、
一度、本気で考えた記録だ。
それだけが、
この計画に
残された意味だと思っている。
(完)


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