不登校の森
むかしむかしではなく、まだまだ今のことです。
不登校の森? という、なんだかわけのわからない、なにやら文学的で哲学的な、深く、高く、遠い森があるそうな。
森で迷子になり、帰ってくる物語の主人公といえば子どものなずなのに、なぜか大人たちも迷子となって、そして帰ってこないそうです。つまり大人が子どものつもりでさ迷い、居座り続けて、きっと、たぶん、お化けに見えることでしょう。
お化けは他にもいろいろいるらしく、それならそれで冒険だ! とも言っていられないほどに、お化けに巣食われその森は、このままなら根腐りかねないようなのです。
(…)
個人や家庭、学校や社会に巣食う悪霊は、名前を明かされることを嫌う。というより、悪霊は名前を明らかにされたとき、つまり正体が暴かれたとき、その威力も失ってしまうのだ。キルケゴールが云うように、悪魔的なものとは、沈黙するもの、自己を閉じるものである。名前が明らかにされた時、悪魔は沈黙を解かねばならない。
(…)
個人の問題、家庭の問題、社会の問題は、そこに憑依する悪霊の名前が、明らかにされねばならない。名前が明らかにされた途端、悪霊はその呪縛の力を緩めるのだ。もちろん、解決には時間がかかるだろう。しかし、悪霊は隠れたものではなくなり、白日の下にさらされて対話の過程に巻き込まれる。悪霊に力があるのは、それが秘密のままである期間だけである。カウンセラーや精神科医、政治家や評論家の仕事とは、悪霊をその名前で呼び出すことである。
お化けは秘密のままでいたがります。あいまいなままでいたがります。名付けを嫌い、薄闇から出ようとはしません。正体がバレるのを恐れるのです。
お化けなんてないさ、お化けなんて何さ、そう、そこらへんの、ただの大人か何かなのです。でも別に、そこらへんでいいじゃあありませんか。
不登校の森? も、そこらへんの森のひとつで一部です。そこらへんじゃあ、だめなんですか?
神秘は秘密と異なります。秘密めかせば神秘に見えても、お日さまのもとでは違ったならば、それはやっぱり神秘じゃないのです。せいぜい秘密なのです。
森の神秘はお日さまを受け損なわれることはありません。神聖化せずともそこらへんのそのままで、森は生きています。
秘密の霧に見られがちな文学や哲学は、たぶん本来ひかりの道しるべとなるものです。
森に棲み着くお化けたちや、あとトラップな、なんでかこざかしいマキビシがまき散らされているのは、やっぱり秘密を神秘と勘違いなのでしょうけれど、そんなお化けとかトラップとかを言葉で照らし、見つめていきたいと思います。
(ゆるくゆっくりつづく)


コメント
1不登校の子どもたちは、社会を問い直したり、深く豊かに問い続けたりするために、今ここに生きているわけではない、と言いたくなることがあります。
マイノリティを神聖視・化するのは典型的な差別だと思いますが、「不登校」を神聖視・化するのも、もうやめてほしいと感じています。