「する場所」に生まれる「居場所」――「居場所」はつくれない、という話から
札幌の「訪問と居場所 漂流教室」さんのFacebookを拝読しました。その投稿の本筋からは少しズレてしまうかもしれませんが、気になったことがあり、まとめてみました。
「居場所」について考えています
「居場所」という言葉はすっかり当たり前になりました。サードプレイスだ自己肯定感だと、官も民も総出で居場所づくりを進めています
友人と街に出る。疲れたので座って休もうと思う。その場所がない。それが10代のころから疑問でした。正確には無料で過ごせる場所がない。喫茶店だったりカラオケだったり、お金が必要なところばかりです。ただ座って話をしたいだけなのに
子どもや若者が、無料で、ただ座って話すことができ、しかもほぼ毎日、長時間にわたってそれが可能な場所に、心当たりがなくもありません。
1974年生まれの私が10代だったころ、「学校」や「部活」は、私にとってそうした場所でした。
(不登校まわりの話になるのに、すみません。)
漂流教室さんの投稿に限らず、不登校に関連するテキストには「居場所」という言葉が頻繁に登場します。私はそこに「する場所」と「居場所」という対比があると理解しています。
おそらく、「学校」と「不登校(=休息)」を比べたことから始まり、次のようなイメージへと発展していったのではないでしょうか。
「Doing(する)の場所」: あれこれしなくてはならない/何をしたかで評価される(業績承認)
「Being(いる)の場所」: 何もしなくていい/ありのままでいい/ただいるだけでOK(存在承認)
そして、現在語られる「居場所」とは、主に後者を指しているように見受けられます。
とはいえ、たとえ大人が「する」を設定しても、子どもはその通りに「しない」のではないか、とも思います。
うちの子が小学2年生だったとき、みんなで月蝕を見ようと、数組の親子で声をかけ合いました。夜に集まるという非日常感のせいか、子どもたちは興奮して夜祭りのようにはしゃぎ回り、月など見ていませんでした。
大人が子どもに「するを“させる”」のは、大概うまくいかないと思います。
私自身の記憶でも、小学校から中学校へと学年が上がるにつれ、授業を聞かないクラスメイトはどんどん増えていきました。私も高校以降は、授業中に居眠りをしていた側です。そんなものではないでしょうか。
居場所を名乗っておいてなんですが、おそらく「居場所」はつくれません。
「場所」はつくれます。ですが、そこに居られるかはその人次第です。たまたま居られたから、その人にとっての「居場所」になったに過ぎない
もっとも野球する場所を野球場と呼ぶように、目的なくやって来て目的なく過ごせる場所を「居場所」と呼んでもかまわない気はします。あるいは目的ある場所から開放された空間や時間――練習の合間の雑談だったり、放課後の寄り道だったり――も「居場所」と言えそうです。余白、空白、目的外。そういったものが居場所の要件なのでしょう。大雑把に「自由」としてもいい
なので「居る」を目的にすると、そこは居場所じゃなくなります。もちろん「する」で埋め尽くしても居場所にはならない。(…)
ここからは、「目的」が設定されるからこそ「目的外」が生まれる、「すき間(空白・余白)」は「する」と「する」のあいだにある、「自由」とは「〜からの自由」である、といったことがうかがえます。
そうしますと、単純に言って、「する場所」を用意するのではダメなのでしょうか?
子ども(※)は、その「する場所」を「居場所」にしないかもしれませんし、するかもしれませんが、いずれにせよ、やはり子ども次第です。
大人が「居場所」をつくることはできない、という前提に立つならば、大人は大人にできることをすればよいとも、それしかできないとも言えそうです。
大人“たち”には、「する場所」を構える知恵や力があるはずです。一方で、子どもにはそれは難しい。であれば、役割分担として考えられると思います。
◇
不登校、引きこもり、子どもや若者の支援などに関わるテキストを読んでいると、「する場所」と「居場所」を相克するものとして捉え、「する」を否定・忌避した、いわば純粋な「居場所」をつくろうとしているように見えることがあります。
あるいは、「する場所」を問う“役割”を、「居場所」の“あり方”に求めてはいないでしょうか。
どこか、噛み合わない感じを覚えます。
私が過ごした1980年代から90年代にかけての小中学校は、建前としては「勉強する場所」でしたが、実際には「とりあえず、教室に居ればOK」という“ゆるさ”と雑さがありました。そのため、子どもが「勉強しないこと」ではなく、「学校に来ないこと(登校拒否、学校嫌い、不登校)」が問題とされたのだと思います。
(※ )引用した漂流教室さんの記事では、居場所に来る人を子どもに限定してはいませんが、このnoteでは「子ども」としました。
《参考にした記事》
漂流教室さんは、「『居場所』の価値を語ると、『居場所』が『居場所』ではなくなってしまう」という問題意識から、たいへん興味深く、面白い記事を書いておられます。是非ご覧ください。
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次も興味深い記事です。
講演会で、文科省の担当者から、誰一人取り残さない学びの保障に向けた不登校対策「COCOLOプラン(個別にカスタマイズされた快適で最適な学習場所)」の説明を聞いたそうです。そこから、「居場所」や子どもに「自主的に“させる”」ことについて思索されています。
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また、Facebookにアクセスしづらい場合もあるかと思います。
同内容のはてなブログ『漂流日誌』は、こちらになります。



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