「現れない」首相とデモする主権者 平和憲法の価値を照らす光の波
記者コラム「多事奏論」 編集委員・高橋純子
高市早苗首相に聞きたいことがある。
先の総選挙で歴史的大勝を収めたからこそ、依然として高い支持率を維持しているからこその純粋かつ単純、そして根本的な疑問。感情的にならぬようゆっくりと、腹に力を込めて、聞きたい。
どうしてあなたは、なんのためにあなたは、首相になったのですか?
これほど「現れない」首相は前代未聞だろう。新年度予算案をめぐる参院集中審議への出席は10時間弱。石破茂政権の4分の1。おきて破りの型破り。この国に住まう人びとが必死に働いて納めた税金をどう使うのか。この国が抱える多くの課題に、どう対処するつもりなのか。
首相たるもの、国権の最高機関である国会で説明し、できるだけ多くの納得を得るよう力を尽くすのは当然のことだ。イロハのイ、50音ならア、アルファベットならA。そこから始まる。そこからしか始まらない。
中東情勢の緊迫化は、私たちの生活にどのような影響を及ぼすのか。情報が入り乱れ、日に日に増す人びとの不安をなだめられるのは、政治リーダーの明確なメッセージしかない。ただし、メッセージとは単なる言葉ではない。思いの乗った、身体性を宿した言葉だからこそ人びとに届き、刺さる。ゆえに政治リーダーは「現れ」なければならないのだ。
ところが高市首相は記者会見を開かない。ぶら下がり取材もごくまれ。言いたいことがある時はXに投稿し、終わり。
たとえば4月4日夕の投稿は「中東情勢に伴い供給が制約を受ける可能性がある重要物資の安定確保のための高市内閣の取組の現状について、説明致します」と、○○を実現した、××を進めていると日報のごとく細かく列挙したうえで、「繰り返しになりますが、原油及び石油製品の『日本全体として必要な量』は確保されています」。そして最後は「高市内閣の総力を挙げて、きめ細かく対応してまいります!」
〝日本全体として必要な量〟をカギカッコでくくる「大本営発表」ぶりも鼻につくが、それよりなにより、供給不足や値上げに頭を抱えている業者、人工透析が続けられるのかと不安におびえている患者らへ向けた、いたわりやねぎらいがひとことも、ただのひとこともないことには驚きを禁じ得ない。そして最後、突如として繰り出される「!」。私はやってる!私は間違ってない!――どんな局面でも「私」が前面に出てくる、この感じ。私はシンプルに、こわいと思う。
智恵子は「東京には空がない」と言ったが、私は「高市首相には『畏(おそ)れ』がない」と言いたい。多寡はともかく安倍―菅―岸田―石破首相には確かにあった、国民の命を預かっているという、畏れ。
想像してみる。権力者が極限状態に置かれ、「玉砕せよ!」と命を下さねばならぬ局面を。高市氏はとても滑らかに命じてみせるのではないかと、危惧する。
「戦争反対!」「憲法守れ!」「高市政権いますぐ退陣!」。コール&レスポンスが夜空に響く。歩道を埋め尽くす色とりどりのペンライトがそのたびに揺れ、美しい波となる――。8日夜、国会前で開かれたデモに、主催者発表で3万人が参加した。「国民なめるな!」のコールも聞こえる。この国の主は主権者ひとりひとりであることを、主権者にはパワーがあることを、光の波は教える。畏れを知らぬ首相もいずれ、この波を見るだろう。畏怖(いふ)せずにいられないはずだ。まともな権力者であるならば。
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- 【視点】
国民の声に耳を傾けない総理、それに対峙する首相官邸前に集まる幾千のデモ隊。「国民舐めるな」というコールが霞ヶ関に響く。ネット上では「若者たちが集まっている」という興奮の声、それに対する冷笑的な応酬。既視感のある光景である。 およそ10年前、安保法制の制定を強行する安倍政権に対し、反対派がデモを繰り広げた。広がるデモは野党の攻勢と連動し、国論が二分されたことで安保法制には大きな制約が課され、それが今回、政府が自衛隊のホルムズ海峡派遣を踏みとどまる制約として作用した。 世論と結びついたデモには大きな政治的効果がある。ただ同時に、安倍氏の後継を自認する高市総理と「反安倍/反高市」デモ隊の対峙という構図がそのまま反復されていることにどこか違和感がある。なぜならこの10年の間に、新型コロナ危機、ウクライナ侵攻、第二次トランプ政権とグローバル化の終わり、そしてポピュリズムの台頭という政治と社会の関係の劇的な変化が生じているからだ。 劇的な変化が生じているにもかかわらず、同じ政治的な対立構図が反復されている。この変わらぬ構図のなかに、変化に敏感、あるいは変化に流されゆく「主権者」の居場所はあるのだろうか。「国民」の意思は体現されているのだろうか。 高市総理は「安倍政権的なもの」の成功体験を引き継ぐ最終走者であり、半ば過去に身を委ねている。その姿勢が時代の変化に対応する新たな政治の構築を阻んでいる。高市総理に対峙するデモもまた、過去の成功体験に身を委ねている。「戦争反対!」「憲法守れ!」「高市政権いますぐ退陣!といったコールは際立つが、この10年の間に顕在化した働くこと、暮らすことの困難をめぐる声と調和しているようにはみえない。 非道な戦争に対峙するデモが起きるのは当然である。デモは「国民的なもの」を体現したときはじめて威力を持つ。日本の政治と社会は「安倍/高市的なもの」と「反安倍/反高市的なもの」の両方を過去に葬り去らない限り、前に進むことはできないのではないか。このコラムから感じるのは、解放感よりも過去の囚われの磁力の強さである。支配と被支配をめぐるこの過去の磁力から解き放たれたとき、平和憲法の価値と国民意識は、新たな様相で結びつくのかもしれない。
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