第68話 πと新興

 その小さな奇跡を、少し離れた場所で見ていた二人の女。


 マルグリットの傍らに佇むアルベルタだ。

 彼女は、ぼんやりとその光景を眺めていた。


 夢を見ているようだった。

 いや、悪夢の果てに見る、都合の良すぎる幻に近いのかもしれない。


(……国を創る、か)


 乾いた笑いが喉に引っかかる。


 言葉にするほど、容易いものではない。


 いや、苦難の連続だろう。


 甘美な誘い文句。詐欺に近い。


 それでも──それでもと、信じたくなるのは何故だろうか。


「マルグリット、私たちも行くか……?」

「……」


 友人は答えない。


 傷こそベアトリスの尽力もあり塞がったものの、失った血が多すぎたため、意識がまだ戻らないのだ。


 そのときだ。

 列の端を、ふらりと歩く小さな背中が視界を横切った。


 ぼろ切れのような外套。

 疲労で傾いた肩。

 それでも、見覚えがありすぎる後ろ姿。


「……マンスフィア?」


 呼び止める声は、思ったよりも低かった。


 一時は身を寄せていた組織とはいえ、“巨乳派”には思うところがあり過ぎる。


 その複雑な感情が形となってしまった。


 小さな背中がびくりと跳ねる。

 恐る恐る振り返った女は、アルベルタを見て息を呑んだ。


「……アル、ベルタ……?」


 アルベルタもまた驚く。マンスフィアという女の表情に。


 彼女の知るマンスフィアという女は、何が気に入らないのか常に不満を顔に貼り付けている女だった。


 それがまるで、憑き物が落ちたように、オドオドとただの女の顔をしていた。


 互いに、しばらく言葉がなく見つめ合う。


「……無事、だったんだな」

「……そっちこそ」


 マンスフィアは、視線を逸らす。

 何を言えばいいのか、分からないといった様子で。


「……行くのか」


 アルベルタの問いに、マンスフィアは裂け目の先を見た。


 朝日に照らされた、まだ何もない土地。

 不安と希望が、ない交ぜになった場所。


 ──あまりにも眩し過ぎる。


 炎に誘われる蛾のように。

 太陽に翔んだイカロスのように。


 最期に無惨な死が待っていようとも、拒むにはあまりにも眩い輝きであった。


 マンスフィアは苦しげに答えた。


「……許されるのなら」


 流れに流れて“巨乳派”に身を置いた。


 命を狙われることは無くなったが、居心地がいいとは言えぬ場所だった。


 沢山の罪を犯した。許されざる罪を。


 そんな身で新しい夢を追いたいなど、厚かましいにもほどがあろう。


 けれど、けれど──


(あの方のお役に立ちたい……)


 マンスフィアは初めて、己が意思で未来を決めたいと思ったのだ。


 アルベルタは逡巡する。その顔はマンスフィア同様に、悲痛であった。


「私たちの罪は決して許されないだろう……」


「……」


 分かり切ったことを言う。

 マンスフィアは答えない。


 だが、とアルベルタは短く息を吐きある提案をしてきた。


「……善行をしてはいけない、ということもないだろう」


「……?」


 アルベルタの口角が、少しだけ上がっていた。


 厭らしいものではない、どこか悪戯っ子めいた笑みだった。


 ◇◇◇


 崩壊したセーシルの街中に、瓦礫の前でただ立ち尽くす人々がいた。

 家を失い、家族を失い、悪夢であってくれと涙し、呆然と立ち尽くす人々が。


 セーシルの街中に残された者たちの脳裏へ、静かな声が響いた。

 

 ――人の子よ。

 

 瓦礫の前で膝を抱えていた女が、はっと顔を上げる。

 焼け跡を呆然と見つめていた老女が、胸元を押さえる。


『もし、生きる気力があるのなら。まだやり直す意志があるのなら……北へ向かいなさい』


 神の如く命じる声ではなかった。

 かといって責める声でもなかった。


『我らは新たな国を創る。魔乳も聖乳もない、胸の大小で裁かれぬ国を。前人未到の地に』


 ──ただ、道を示す声だった。


 崩れた家の前で、若い母親が顔を上げる。

 腕の中の子どもが、涙で濡れた頬を擦る。


 そうして北を見て、ようやく奇跡を目の当たりにする。


 セーシルを覆っていた山脈が、二つに割れていることに気付く。


「北……」

「そうだ……山の向こうだ……」


 呟きは、やがて連鎖する。


 迷いはある。恐怖もある。

 だが、今いる場所に希望はない。


 瓦礫の街に残るか。

 何もない地へ踏み出すか。


 ぽつり、ぽつりと、人々が立ち上がる。

 重たい足を引きずりながらも、北へ。北へ。


 その様子を、遠くから見つめる一団があった。

 聖騎士たちだ。


 黒金と蒼銀の、怪物たちの戦いは黄金に妨げられ唐突に終わった。


 攻撃目標だったセーシルも今や瓦礫と化し、もはや剣を振るう理由はない。


「……何だ今の声は」


 ドロテアの、ひどく戸惑った声。


「えー!? 隊長も聞こえましたっすか!? 頭ん中に!」


 ギャル副長がキョロキョロと辺りを見回す。

 ドロテアも答えられない。


 まるで神託のようだったなんて、不敬で答えられるはずがない。


(だが……)


 ドロテアの胸の奥で燻る感情。


 戦場で見た黄金の光。

 山を裂いた奇跡。

 到底理屈では説明できるものではない。


 だが、現に割れた山を見れば、それが夢でないことを嫌でも理解させられる。


 正義とは何か。

 自分は何を守ろうとしていたのか。


 ドロテアは、ゆっくりと胸当てに手を掛けた。


「……ん? どしたん隊長?」


 ──ガシャーン。


 金具が外れる音に振り向いたギャル副長は、ギョッとした。


「ちょ!? なにしてんすか!?」


 ドロテアのビキニアーマーが地面に落ちる。

 ざわめく隊員たちに、ドロテアは静かに告げた。


「……私は、正義が分からなくなった」


「はぁ? なに言ってんすか──」


 戸惑いのセリフは途中で飲み込まれる。

 ドロテアがただ真っすぐ、北へと延びる民衆の列を見詰めていたからだ。


「だが私は……あの光は、信じたいと思った。この声を信じたいと思う」


 振り返ったドロテアの表情は晴れやかで、部下たちは思わず息を呑んだ。


「貴様らも好きに生きるがいい」


 ──私も好きに生きる。


 そう言い残して、ドロテアは一歩、北へと踏み出した。


「ちょちょちょ!? マジで!? 棄教は聖乳教にとって大罪だっつーのに、あのチョー真面目な隊長が聖騎士辞めるって!?」


 しかしドロテアの足取りに迷いは無い。


 不思議な声は言った。魔乳も聖乳もない、と。


 おそらく、自分が信じてきた聖乳教も当然ないのだろうが、ドロテアの胸中には今まで感じたことのない、興奮にも似た感情が生まれていた。


「なーに一人でカッコつけてんの?」


 その背に、よく知る人の声が投げられる。


 隣に並ぶ影。


 ギャル副長だった。


「……貴様ら」

「隊長が行くなら、あーしらも行きますよ。ね?」

「そうです!」

「どこまでもお供します!」


 振り返れば、鎧を脱ぎ捨てた隊員たちがいた。


 ふいにドロテアの視界が、滲んだ。


「……馬鹿者どもが」

「あはー。隊長ほどじゃないっしょー」

「さらばエリート街道」


 笑い声が響く。

 彼女たちもまた、北へ。

 不安と、それ以上の期待を胸に。


 ◇◇◇


 山脈の裂け目には、既に行列ができていた。


 傷だらけの民衆。

 疲労でふらつく者。

 足を引きずりながらも、互いに肩を貸す者。


 それでも、その目には光が宿っている。


 希望という名の、危うくも強い光が。


 その列を見つめるフィオナの双眸にも、同じ光が宿っていた。


「乳上……! 私たちも行きましょう」


 当然、自分たちも一緒についていくものだと思っていた。


 だが、クラウディアは静かに首を横に振った。


「……私は、行けない」


「え──」

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