「女帝の子、また同じ」と読むことをなぜ疑わないのか?──成清弘和氏の内親王論に学び、かつ批判する(令和8年4月8日)
(画像は『令集解』@国会図書館)
前回、書いたように、義江明子・帝京大学名誉教授は、継嗣令第1条の本註を「女帝の子、また同じ」と理解している。
義江氏の著書によれば、その理解は、成清弘和・神戸学院大学・園田学園女子大学非常勤講師の『日本古代の家族・親族──中国との比較を中心として』を参照して、構築されているようだった。これは是非にも成清氏の研究を検証せざるを得ないと思い、おっとり刀で読んでみることにした。
すると案の定だった。成清氏は本註を「女も帝の子」とする解釈について、少なくとも同著ではまったく検討していない。
◇1 自明のこととされる「女帝の子」解釈
成清氏は、「第5章 女性の社会的進出」で、前近代中国の、おもに唐と比較しながら、支配階層の日本女性の地位について、次のように考察している。
前近代の中国では、則天武后を例外として、その親族組織(原理)ゆえに女帝の存在はあり得なかった。しかし古代の日本では、6女帝が即位した。その相違は、古代日本の親族組織である双方制による。
※封爵令は皇帝が皇族以下に爵位を与える規定で、継嗣令は皇親の範囲を規定している
〈https://dl.ndl.go.jp/pid/1465856/1/167〉
そして、ここが重要だと私は思うのだが、王族の女性が他氏族の男性と婚姻しないかぎり、血統面から王位継承者としての資格は潜在的に留保されていたというのである。
つまり、他の氏族と婚姻すれば、王位継承資格を失うということで、それは、むしろ双系制の証明ではなくて、否定といえるのではないのか? 双系制を認めたうえで、皇位継承を考えるとするなら、父母が皇族であることが絶対要件となる。今日の双系制の論議とはまったく異なる。
で、「あるいはまた、それゆえにこそ」と断ったうえで、成清氏は、継嗣令の本註「女帝の子」を引用し、「親王、諸王、皇親の範囲を規定したものであるが、そのなかの注として、『女帝の子も亦同じ』とするのである」と解説している。
この注は養老令唯一の「女帝」の語である。大宝令にも存在した。唐令にはなかったが、日本令には定着していた。女帝の所生子は律令の父系帰属主義に反して、男帝の子と同様に、何ら変わることなく、親王とされた。日唐間の女帝の存否には父系制と双系制の相違が関与していたと成清氏は結論づけている。
結局、成清氏は、双系制を前提に、「女帝の子」との解釈を自明のこととして、推論している。
なお、義江氏は、父系主義の唐令では双系的原理の皇位継承はカバーできないので、継嗣令の本註があえて書き加えられたと書いているが、成清氏の著書にはそのような説明は見当たらなかった。成清氏は、ほかの文献で説明しているのだろうか? 義江氏はほかの資料を参照したということだろうか?
◇2 「内親王」の定義がないわけはない
次に、成清氏は、古代日本の「内親王」について追究するのだが、きわめて興味深いことに、「実をいうと、『内親王』の定義は令には明瞭にされておらず、家令(けりょう)職員(しきいん)令一品(いっぽん)条に、
親王 内親王此(これ)に准ぜよ。但(ただ)文学は此の例に在らず。一品(以下略)
とあり、注に『内親王此に准ぜよ』と記し、親王に準ずるものとする。従って、すでに紹介した継嗣令皇兄弟子条の規定に準拠すると考えてよいことになる」と述べている。
継嗣令が皇親の範囲を規定し、継嗣令の規定に基づいて、家令職員令が規定されているはずなのに、成清氏は「令には内親王は規定されていない」とし、家令職員令の記述から類推して、継嗣令に準拠するのである。論理が逆転している。
そして、継嗣令の本註「女帝子亦同」については、「女帝の子」と解釈することが無批判に受け入れられ、「女性親族に置き換えると、天皇の姉妹および子女が『内親王』に当たり、それ以外は『女王』となり、五世の女王までが『女王』と名乗れるということになる」と説明している。
しかし、そうではあるまい。
継嗣令本註は「女も帝の子、また同じ」であり、だから「皇の兄弟・皇子を親王とする」ように、皇女子は「内親王」なのである。だから、家令職員令は「内親王、これに準ぜよ」なのである。継嗣令は内親王の範囲を明確に規定している。
「女帝の子」と読むから、「内親王の規定がない」と誤った理解をすることになり、皇位継承論へと脱線するのである。律令の規定の中で唯一の「女帝」の表記だとすれば、「女帝」と読むべきかどうか、まず疑うべきである。なぜそうしないのだろうか?
◇3 なぜ「女帝の子」と読むのか
成清氏には、一般向けに書かれた『女帝の古代史』という新書があるので、これも読んでみることにする。
継嗣令について書かれているのは、「第4章 律令制下の女帝たち」である。成清氏はまず、「養老令全体でただ1カ所、女帝の語が記された箇所がある」として継嗣令皇兄弟条を引用し、注に「女帝の子も亦同じ」とあるのは、女帝の子も男帝の子と同じく親王とするということで、その兄弟も親王と認められたと話を展開させている。
日本の律令は、夫の身分に関わりなく、女帝の子はすべて親王とされる。女帝は後継者を生み出すことにおいて、男帝と同等のものと認識されている。ただ、律令の規定では、内親王の配偶者は皇族に限られると指摘している。
大宝令の註釈と認められる「古記」にも、「女帝の子も亦同じとは、父、諸王といえども親王とすべし、父は諸王とす、女帝の兄弟は男帝の兄弟の一種なり、を謂う」とあり、養老令と同じ注が大宝令にもあったことが確認できる。
以上から、女帝は男帝とほぼ同等に法的位置づけがなされた。そのようにされた理由は、推古以来の女性統治の伝統によるものと考えられる。その根底には男女が対等に近い双方制という親族組織があったからだと推定される。律令制下の女帝はひとつの制度として位置づけられる、と成清氏は畳みかけている。
しかし、たとえば「古記」の解釈は、平安期の私的注釈書『令集解』からの引用だろうが、その解釈の妥当性について、成清氏は少なくともこの本の中で吟味していない。
結局のところ、「女帝の子」と読むことが、科学的検証のないままに、つねに議論の出発点に置かれていることが分かる。だが、なぜ「女帝の子」と読まなければならないのか、少なくとも私にはよく理解できない。



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